その日はもう、これでもかってくらい浮かれていた。
コンビニからの帰り道、いつもならかったるいそれがまるで冒険の始まりみたいに見える。なんでもないコンクリート舗装の道はまる で雲みたいにふかふかしてるし、過ぎていく住宅街はお菓子の家みたいにファンシーに見える。そう、それくらい浮かれていた。
ガシャガシャと揺れる度に音を立てるビニール袋が、浮かれている自分にかろうじてこれが現実なのだと教えてくれる。そもそも原因 はと言えば、このビニール袋に入っている物なのだけれども。

先程別れたばかりの彼女を思えば、自然と口角は上がってくる。あぁ、今が夜で、この道が人通りが少なくてよかったと心底思う。 もしも日が明るくて人とすれ違うような道だったら、ぎょっとしたような目で見られ、挙句はすすすと距離を取られていたことだろう。
でもそれを隠すことは出来ない、だって今の今まで必死に我慢していたからだ。
つい先程まで居たコンビニ、いつも通うコンビニ。しかし以前はそれほど通ってはいなかった、コンビニの飯は美味いし手っ取り早い が、少々値段が張る。まだ学生の弟を抱えた身にはきつい価格帯だった。それでもガムやら飴やらスナック菓子やら、安価なものを選 びながら通い始めて早3ヶ月、ようやく、ようやく第一歩を踏み出せたと言えるだろう。
きっかけは些細なものだった。多分、いや恐らく彼女は覚えていない、それくらい些細で道端に落ちている小石くらいのものだった。
三ヶ月前のあの日、気まぐれに寄ったコンビニで商品を物色している最中に電話が掛かって来た。誰かと思えばいつも騒がしい弟からで、用件は言えば「腹減った」 の一点張り。いつも通りの呆れた言葉に適当な返事をしていたら、耳の鼓膜が破れるんじゃないかと思うくらいの大声で喚き散らして 来たから始末におけない。受話器を耳から離しても尚聞こえてくるその声に辟易して、
「わァったよ!買って帰るから大人しく待ってろ!!」
と、店内にも関わらず、受話器の声に負けじと大声で返してしまったのだ。気が付いた時には既に遅く、店内の視線の全てがこちらを 向いていた。しまった、あぁもう、これも全部まだまだガキな弟のせいだ。そう思いながら、店員、まばらに居た客全てに頭を下げる。
ちくしょう、帰ったらとっちめてやる、なんて考えながら顔を上げると、たまたま近くに居た彼女の顔が目に入った。驚いたように目を丸くして、 ぱちりとまばたきをひとつしてから、くすりと笑って頭を軽く下げる──たった、それだけのこと。時間にすると数秒程度のその行為 を見て、一体この身体はどうなってしまったのか、稲妻が走ったような衝撃を食らった。有り体に言えば──これは、一目惚れだった。 笑った彼女に声を掛けることも出来ず、ただ茫然と見送ったのは記憶に新しい。持ったままの受話器からは、飯の細かな注文が発せら れていたがそんなのもう関係なかった。自分より遥かに小さな背中、派手さはないが清楚な服装、歩く度に揺れる髪、 そしてさっきの笑顔。全てを目に焼き付ける勢いで、ぼんやりと見送った。ありがとうございましたー、という店員の適 当な送り出しにハッとして、何か、もっと、気の利いたことくらい言えただろうが!そう思っても時間は止まってくれないし、まして や巻き戻ることなんてない。人生というのは常にアクセル全開で、バックにギアが入ることなんてまずあり得ないのだ。その日の自分 の行いを悔いながらも、もしかしたらまた明日も来るかもしれない、明日は来なくとも明後日、いや一週間後は来るかもしれない、な んて淡い期待を抱きながら大して買うものもないくせに自然と常連客にのし上がっていた。こちらの不安をよそに、彼女は平日は毎日 このコンビニに来ていた。仕事帰りなのだろう、時間は大体夕方を過ぎた19時〜20時頃、買うものは日によってバラバラだがいつ も必ず買うのは紙パックのコーヒー牛乳。一度だけ、コーヒー牛乳が売り切れていた時があって、彼女はそれはそれは残念そうに顔を 歪めて、渋々と隣のいちご牛乳を買っていた。牛乳が好きなんだなぁと思うのと同時に、その様子がめちゃめちゃ可愛いと思って悶絶 したのはここだけの秘密にしておこう。これらの情報をかき集めた結果、これはストーカーというものでは ないかという疑問が湧き出して来た。いや違う、これは断じて違うのだと主張したくても傍から見れば軽いストーカーなのは間違いなくて、相談したサッチにも
「とっとと声掛けて、メアドのひとつやふたつ聞いてこい。そしておれのために合コンを開け!」
などとのたまってきたので、みぞおち辺りを一発殴ることで黙らせた。言われずとも聞けたら聞いている、 そもそもきっかけがないのだ。彼女のことで知ってることと言えば、コーヒー牛乳が好きなこと、それから仕事の終わり時間くらいで 、いくらなんでもこれで良いカードを切るなんてことはどんなに上手い勝負師でも難しいのでないか。
「そもそも、彼氏とか居たらどうするんだよい」
なんていうマルコの鋭い指摘は、しばらくの間、頭を悩ます一因と なったが、ふと寝る前に、そんなものは決まってる──奪い取ればいい、という結論に達したので問題ない。彼女がどんな にその男に惚れていようが関係ない、欲しいものは奪えばいい、少し乱暴かもしれないが今まで生きてきた人生の上で努力をした結果 、手に入らないものなんてなかったのだから真理だろう。そう、だから、奪うためにはまず、声を掛けるところから始めなければなら ない──その方法がわかっていたら、そもそも3ヶ月もただ見ているだけという情けない姿を晒していないのだが。
悩みに悩んでやって来た金曜日、彼女が時間になっても現れず、流石に一時間以上コンビニでうろうろするのは忍びなく、せめて彼女 の好きなものをと思ってコーヒー牛乳を手に取ろうと思った矢先に──奇跡が起きた。
ふわりとした柔らかな感触、少しぬるい体温、その正体は彼女の白くて小さな指先で。
驚いた、そりゃあもう驚いた。時が止まったんじゃないかと思うくらい驚いたが、彼女の感触が去ったことによってこれは現実で時間 は滞りなく流れていることを知って、慌てて頭を下げた。
「どうもすみません、ぼーっとしてたみたいで」
頭は大混乱しているくせに口だけはやけに全うに動いていて、あの日言えなかった謝罪もすんなり出てきた。
「あ、いや、こちらこそ…」
声、可愛い。
正直過ぎる感想に自分でもどこのガキだと引きながらも、自然と笑みがこぼれていた。喋れた、しゃべれた…!
苦節3ヶ月、長いのか短いのはわからないが、自然と喋れたことが何より嬉しくて神様だか仏様だかイエス様だか知らないがとにかく 世界の全てに感謝したい勢いだった。しかし、浮かれてばかりもいられない。神様仏様イエス様、どれだか知りもしないし知る必要性 はないが、これはきっと、天がくれた奇跡のきっかけ。このチャンス、物にしないで大人しく引き下がったら男が廃る。そ う思って彼女のお気に入りのコーヒー牛乳を手に取って、ええいままよ、男を見せろと目一杯の勇気を振り絞った。
そして、冒頭に戻る。





そうしてめでたく接点を得たお蔭で翌日には名前を知って、コンビニに立ち寄っては挨拶をし合う仲となり、更には店を出てから彼女 がコーヒー牛乳を飲み終わるまでの間、なんでもない世間話をするようになった。ただ見ているだけだった3ヶ月を思うと大いなる進 歩だったし、何より彼女との会話はひどく楽しい。
見た目に反して、意外と図太いところとか、そのくせ甘いものと可愛いものが好きなところか、意外にも食べることが好きで色 んな店を渡り歩いているところとか、実は年上だったところとか。色々と喋って、色々と知って、再確認した──あァ、好きだ。 どうやら一目惚れは間違いではなかったようで、日を重ねる度に彼女のことを好きになっていく。直感だが、恐らく彼女に恋人は居な いのだろう。話している時間は15分から30分くらいだが、その間に彼女が携帯電話を気にする素振りはない。恋人がいたら、いく ら連絡を取り合わないと言っても仕事終わりに一度くらいは連絡を入れる日があってもいい筈だ。彼女とこうして話すようになって二 週間経ったがその様子は微塵もない。よしんば居たところで、こんなに連絡を取り合わない相手だ、そう深い仲ではないことは容易に推測出来る。
「それでね、駅前に馬刺し専門店が出来たらしくって」
「おぉ、馬刺しか。いいねェ」
「食べたことある?」
「いや、ないけど美味いんだろ?が話すくらいだからさ」
「人を食いしん坊みたいに…」
むっとしたように頬を膨らませる彼女はひどく可愛い。ハハ、と笑えば釣られたように笑って、馬刺しとやらの魅力をありありと語っ てくれた。どうも旅行先で食べたあの味が忘れられないらしい。馬刺しを食べたことはなかったが、知識としては知っていた。良い酒 のつまみになること、肉の中でも割かし希少なこと、この辺には店がなかったこと。一度は食べてみたいと思っていたところに、 彼女からの話題。渡りに船とはこのことだろう。そう、二週間大人しくただ会話を楽しんでいただけではない──ずっと待っていたのだ、またとないチャンスを。
「なァ、
「なに?」
「そんなに美味いもんならよ、俺も食べてみてェし、お前も興味あるんだろ?──食いに行こうぜ、一緒に」
あの時と同じように、目一杯の勇気を振り絞って、でもなんでもない風を必死に装って。告げた言葉に彼女は目を丸くして、 ぽかんと口を開けていた。その口塞いでやりてェな、なんて欲望を抑えつけながら彼女の言葉を待つ。二週間話してて、彼女もこちら のことを悪く思っていないことはわかっていた。友達としてでもいい、そもそも友達の土俵に上がれているかすらわからないが、それ でも一歩ずつ着実に彼女の中でのポジションを確立したかった。
?」
いつまで経っても間の抜けた表情で固まる彼女に痺れを切らして名を呼ぶと、ハッとした彼女は慌てたようにわたわたとして、それか らストローに口を付けた。どうやら一服入れてから返答してくれるらしい。
「…えっと、うん、いいよ。馬刺し食べに行こう」
「よっしゃ!」
思わずガッツポーズを取ると、目を丸くした彼女がけらけらと楽しそうに笑った。可愛いなと素直に思いながらも、笑われたことは少 し照れくさくて帽子のつばを掴んで顔を隠した。
「でもさ、エース」
「ん?」
「あんまり、こういうの軽く言っちゃ駄目だよ」
こういうの、とはどういうことだろうか。何か変なことを口にした覚えはない、ただ純粋に惚れた女を飯に誘っただけだ。初めてのデ ートが馬刺しメインなのは少し色気に欠けるかもしれないが。
「だから、なんていうのかな…こうやって、ご飯に誘ってくれるのは嬉しいけど、誤解するでしょ?」
「誤解?」
一体何の話をしているのだろう。
「だ、だから…」
言いよどむ彼女は気恥ずかしそうに目を逸らして、しどろもどろになりながら、持っている紙パックをぎゅっと握りしめていた。その 様子は可愛い、可愛いが、一体何を言いたいのかさっぱりわからない。少し赤く染まっている頬があんまりにも美味そうなところもそ の一因かもしれない、これは自分の問題だが。
「で、デートのお誘いかと思っちゃうじゃんってこと…!」
意を決したように発せられた言葉は予想外のもので、思っちゃうも何も、そのつもりで誘っているんだが。
「うん?あァ、だから、そういうつもりだけど」
「は!?」
けろっと答えると彼女は丸い瞳を更に真ん丸にして驚いたようにこちらを見つめている。負けじと見つめ返すと、彼女は徐々に顔を赤 くさせて、しまいには顔を俯かせた。
さて、これは、脈ありということでいいのだろうか。男に慣れていないからそういう反応なのか、それとも誘ったのが自分だからこう なっているのか。その答えは彼女に聞くしかないだろう、もしも意識されていないとしてもこれからガンガン行けばこの様子なら押し 切れるかもしれない。──攻撃は最大の防御。喧嘩でもゲームでも武道でもなんでもそうだ。だから、次の一手は勿論決まってる。
さん、おれとデートしませんか?」


ねらえ!撃て!!

17/9/28