最近の自分は、変だ。
原因はわかってる、間違いなくあの日の動揺が波紋のように広がっているからだ。あの日、エースと馬刺し専門店に行った日、彼の寝顔を間近で見た日からどうもおかしくなってしまっていた。週明け、いつも通りにコンビニに立ち寄った時、当たり前のようにいる彼の姿を目の当たりにして、どくんどくんと心臓が波打ったのだ。あの日の動揺を思い出したのように騒ぎ出すそれに、ひどく驚いたことをよく覚えている。別段何かされた訳でもない、ただ眩しいくらいの笑顔で挨拶代わりに名を呼ばれただけで、たったそれだけのことなのに、この心臓はどうなってしまったのか、どくんどくんと鼓動が大きくなったのだ。理由はわからない、いや本当はわかっているのかもしれない。でもどうしても目を逸らしてしまう、見たくないと思ってしまう。久しぶりの感覚は溺れそうになるくらいに強いから、自己防衛機能がよく働いているのかもしれない。
だから、あんまり彼の傍に居たくなくて、いつもより早く会話を切り上げて帰るという日々をもう1週間も過ごしてる。そうして自分で選んで一人ぼっちになったくせに、帰り道は妙に心が重くなるのだ。罪悪感からか、別の理由か、それはわかりたくもないけれど。
そんなこちらの様子に気付いているのかいないのか、彼はいつも通りだった。いつも通り過ぎて、やっぱりあのデート発言はからかわれていたのだろうかとさえ思えるくらいだ。そう、あの発言以降、彼からは何も言われていない。好きどころか、またデートしようとの一言もなかった。やっぱりからかわれていたのか、と思うとなんだか心にぽっかりと穴が空いたような気がしてしまい、余計に落ち込んだ。何を期待してたのか、恥ずかしさとみっともなさですっかり頭はぐるぐるしている。彼がそうするならば、と思って必死に平静を装うけれど、やっぱり心臓はうるさいから困ったもので。一過性のものだと思いたい、もう少しすればきっと落ち着く、だからこれは断じて恋などではないのだ。
そう、思ってたのに。
「そういえば言い忘れてたんだけどよ──おれ、のことが好きだ」
突然のことだった。いつも通りを装った金曜日、適当に会話して、不意に沈黙が訪れて、気まずさからそろそろ帰ろうかと思った矢先の出来事だった。あまりに突然だったから、目を丸くしながら彼を見ると、いつもの笑顔はどこかへ消えていて、ただ真っ直ぐとこちらを見ていた。その真剣な眼差しにどくん、とまた心臓が波打つ。カーッと頬が熱くなるのを感じて、あぁこれはまずい。はやくなんとかしなければ、何か返さなければ。頭の中はそんな言葉でいっぱいになって、でも唇はあんぐり開いたまま一向に動こうとしなくって。困った、そう思いっきり困ってしまった。
、」
熱っぽく名を呼ばれて、益々顔が熱くなって、もう無理、と思った時には既に走り出していた。後ろからもう一度名を呼ばれたが、振り返ってる余裕なんて勿論なくって、走る、走る、とにかく走る。大人になってからこんなに全速力で走ったのは初めてだった。頬を切る風はすっかり冷たいのに全然熱は冷めなくて、あぁもう救えない。
『好きだ』
頭の中にさっきのエースの言葉が浮かんで来て、堪らなくなってまた速度を上げた。本音を言うなら、叫び出したいくらいだった。
ガチャンといつもよりもけたたましく音を立てて家に入って、そのまま玄関に座り込んだ。息は荒い、何度も止まりそうになったくらい、久々の全速力は身体を蝕んでいた。
耳を塞ぐ。塞がないとまたエースの言葉を思い出してしまいそうだったから。ぎゅっと目を瞑ると先程の真剣な眼差しが脳裏に浮かんでしまうから、もう為す術がなくて。
『好きだ』
反芻するようにどんどん頭に浮かんでくるあの顔が、あの声が堪らなくて、どうしようもないくらい、嬉しくて。どんなに誤魔化したって、答えはもう決まっていたのだ。
「エースが、好き、だ」
認めてしまったら、訳もわからず涙が零れてくる。あぁそうだ、本当はずっと前からわかっていたんだ。くるくる変わる表情も、懐っこい笑顔も、礼儀正しいのに意外と不遜なところも、何より身内や友人を大事にしているところも。知った全てが愛おしかった、好きだと思った、見ない振りをしていたのはきっと認めるのが怖かったから。でも、もうそれもおしまいだ。だってわかってしまった、知ってしまった。とどのつまり最初から──エースのことが好きだったのだ。


:::


自覚してからまず最初に思ったのは、どうしよう、だった。蓋をしていた気持ちが堰切って溢れ出し、自覚をしたところまではよかった。が、昨日は溢れる感情に耐えきれず逃げ出してしまったのだ。断りもなく、脇目も振らず。冷静になって振り返ってみると、なんで逃げ出してしまったのだろうかと自己嫌悪する。これは、どうしたものか。逃げ出したことをエースは気にしているだろうか。まさか振られた、だなんて勘違いをしてなければいいのだけれど。
「…はぁ」
溜息が漏れる。週明け、どんな顔をして会えばいいのだろう。エースは呆れただろうか、告白をダッシュで逃げる女なんてあまりにも可愛げがない。こういう時、連絡先を知っていたら何かフォローを入れられたのに。でも結局何を伝えればいいかわからなくなりそうだったから、これはこれで結果としてはよかったのかもしれない。
打開策を考えあぐねてうだうだして過ごしている内にすっかり夜になり、ごろごろとテレビを見て逃避していたところで買い出しを頼まれてしまった。どうもつまみがなくなったらしい、一番暇人な自分が駆り出されるのは仕方ないこととはいえ、夜も更けたこの時間に娘を一人出歩かせるのはいかがなものなのか。とは言えこの辺は治安も良いし、なんなら自分用の酒も買って良いからと言われてしまえば素直に応じる他にないのだ。丁度ヤケ酒したいと思っていたところだ、考えても答えが出ないのだから取り敢えず一回考えるのをやめてみるというのもひとつの手段なのかもしれない。
コンビニに辿り着くと、いつもより大分遅い時間帯だからか、顔見知りとなりつつある店員はいなかった。当たり前だが彼は居なくて、ほっと安堵の息を漏らす。煌々と光る店内で頼まれていたつまみを物色している時、ドアが開く音がして振り向いたが最後、持ってたカゴを取り落してしまった。軽快な音楽をバックに店内に入って来たのは若い集団で、その中でも一際上背のある男の顔は嫌になるくらい見覚えがあった──エースだ。目印のオレンジ色したテンガロンハットは被っていないのは風呂上りだからなのだろうか、髪が少し濡れている。どくん、どくんと心臓がまた主張を始めるのは仕方がないだろう、昨日の今日なのだから。それにしたってこれは昨日逃げ出した罰なのか、なんで、どうしてエースがここに?いや彼だってコンビニくらい来るだろう、大体毎日立ち寄っているのだから近所に住んでいるのは当然だ。本能なのか、考えるよりも先に顔を逸らして彼らから背を向けた。ドキドキとうるさい心臓はエースを見たからなのか、それとも見つかってはいけないという恐怖からなのか定かではないけれど。
「アイス!アイス!」
「わァったから静かにしろ、店ん中だぞ」
どうやらアイスを買いに来たらしい。静かな店内に一際明るい声はよく響く。頼むからこっちに来ないでくれと思いながら、こっそり視線をやって、すぐに後悔した。顔を見たらやっぱり昨日のことを思い出してしまって、頬が熱くなったからだ。明るい店内でこんな真っ赤な顔をしてたらすぐに見つかってしまうかもしれない、慌ててフードを被ると彼らはレジへと向かっていて。そうだ、そのまま帰ってくれ。悪いがまだ頭の整理は出来ていないし、そもそも気まずさからまともに挨拶なんて出来るはずもない。もう夜も遅いし、わざわざ着替えることもないだろう、誰が見る訳でもないしと思って部屋着で出てきたこともあり、益々顔を出せやしなかった。アイスと騒いでいた彼はレジでもフライヤー商品を見て騒いでいたが、オレンジ髪の美人に頭を叩かれて大人しくなっていた。そんな様子を見ては楽しげに笑うエースの顔を見て、あぁやっぱり好きだなぁと思ってしまった辺り相当重症だ。店員はこの賑やかな集団をさっさとやり過ごしたいのか、終始テキパキとした対応で。この時間に来るのは久し振りだが、こんなにスピードのある会計は初めて見た気がする。レジが終わると当たり前だが彼らは店内から出て行った。出口まで背中を見送って、ようやく一息つけた。全く冗談じゃない、と思いつつ、適当にスナック菓子をカゴに入れてレジへと向かう。先程までの素早さはどこへ行ったのか、随分とのんびり会計されてしまったことには流石に苦笑してしまった。
ありがとうございましたーという適当な声に後押しされるようにして自動ドアを潜る。今日の最低気温は結構高かったのか、ぬるい風が頬に当たった。その生ぬるさが心地悪くて、被ったままだったフードを外すと、聞き慣れた声が耳に届く。
「──?」
名を呼ばれて、何も考えずに反射的に振り向いて、すぐに後悔した。そこにいたのは、先程レジを済ませたばかりのアイスにかぶりついてる集団で、声の主は昨日から嫌になるくらい頭の中をいっぱいにしてくれた張本人で。なんでいるんだ、帰るまでアイスを我慢出来なかったのか。立ち止まった所為か入店音が何度も何度も響いていて、軽く挨拶してそそくさと逃げれば良いと思っているのに全然動けなくて、ただ茫然と見つめ返すことしか出来なかった。驚いたような顔はあんまり見たことがないから新鮮だな、なんて頭の中だけは妙に冷静なのに、動くどころか声も出ない。
、」
もう一度名を呼ばれて、弾かれたように走り出す。なんで走っているのか自分でもわからない、ここで逃げてどうすると思うのに身体は走る、走る、走る。適当に履いたサンダルの所為で速度は昨日より大分遅い、ガシャガシャとビニール袋はうるさいくらい住宅街に響くけれどそんなのお構いなしだ。
「待てって!」
住宅街を抜けて公園に入ったところで後ろから声がして、振り向くとそこにはエースが居て、それと同時に腕をぐいと引っ張られていた。勢いのまま立ち止まると離さないと言わんばかりに一層強くなる。はぁ、はぁと荒い呼吸を整えながら視線をやると、ひどく傷ついたような顔をしているから驚いてしまった。
「逃げんな」
ごめんなさい、と告げる前にぐいとまた腕を引っ張られ、勢いのまま彼の胸に飛び込んだ。どくん、どくんと心臓が波打つ。それは自分のものなのか、エースのものなのかわからない。
「──好きだ」
熱っぽい声が頭の上から振って来る。ぎゅうと閉じ込めるみたいに抱き締められて、服越しに彼の熱さが伝わって来て、もうこのまま溶けてしまいそうだった。
「好きだ、
駄目押しとばかりにまた告げられて、もうどうにもならなくて、あぁもう逃げるのはやめだ。
謝罪の言葉も、愛の言葉も告げようとするときっとまた失敗するかもしれない。だから、そろそろと腕を彼の背中に回す。びくっと一瞬震えたのは驚いたからだろうか、嬉しいからだろうか。嬉しく思ってくれたら良い、なんて思いながらぎゅうと抱き締める。どくん、どくんと心臓は相変わらずうるさいけれど、今はそんなのに構っていられない。
?」
真意が掴めないのか、不思議そうに名を呼ばれる。少し身体を離して顔を覗き込むと、見下ろしてくる顔は不安そうな、不思議そうなもので。あぁ、愛しいな。そう思ったら、もう身体は動いてて。
すぅ、と足先に力を乗せて背伸びする。身長差はあったけれど、屈んでくれていたからよかった。鼻先が触れる、真ん丸の目が可愛いな、なんて思いながらそのままぐっと伸びて、そっと口付けをした。熱い唇に目を細めると驚いたような顔が視界に入って、してやったりと思いながら唇を離すと、今度は彼の方から口付けられる。細められた瞳は真剣そのもので、いつもの笑顔とのギャップにドキドキしながら、そのまま暫く触れるだけのキスを繰り返した。


ランナウェイ

17/10/11