どくん、どくんと心臓がうるさい。
緊張しているのか、と言われれば多分その通りで、柄じゃねェな、と思いながらもそれを止めることが出来ない。そりゃあそうだろう、だって今夜、愛しい恋人と二人っきりで一夜を共にするのだから。
あの日以来、はよく家に来る。弟のルフィともすっかり顔なじみになり、ルフィが引き連れた仲間達ともよく話すようになった。奴の仲間には男だけではなく、妙齢の女もいたからそれもあるのだろう。自分との仲をからかうように質問されては、頬を赤らめて答える彼女を見れるからこちらとしても有難い話でもあったのだけれど。
そうして家に来る内にサボとも挨拶を済ませ、見事に彼女との間柄は公認の中になった。最初は邪魔をされたことに少し不貞腐れたりもしたが、まぁ弟のすることだし、そもそもあんな昼間から欲情した自分も悪いし、と無理矢理自分を納得させたことは記憶に新しい。彼女も同じように、先を期待してくれていたことを知れたことが何より嬉しかったから、そこは何とか折り合いをつけたと言っても過言ではないだろう。
しかし、その後はルームシェアをしているのだから当たり前とはいえ、彼女を連れ込んで事を為すことは不可能だった。そりゃあやろうと思えば出来るだろうけど、そんな危ない道は渡りたくなかったし、何より彼女との初めてをこんな状況で済ませるのは嫌だった。大事にしたいのだ、だからこそ今の今まで欲望に身を任せなかったのだ。衝動のまま求めることはしたくなくて、だからと言ってホテルを取ってさぁやりましょうというのは違う気がして、悶々としながら過ごしていた。果ては小旅行でも企画するか、と考えていた矢先に、とんだ朗報が舞い込んでくる。
「おれ、明日から旅行なんだ」
もぐもぐと頬をいっぱいに膨らませながらルフィは、夕飯時にそんなことを言った。どうも話を聞くにいつものメンバーで旅行をすることに決めたらしい。学生はともかく、働いている奴もいるのによく休みが取れたなと感心するが─こいつの仲間は何故か年齢がバラバラだ─とは言え咎める理由もないのであっさりと流した。そして、流したところで気が付く──これは、もしかしてチャンスなんじゃないか?
気付いたら、既に身体は動き出していて、バッと同じ食卓を囲っているサボに視線をやると、はいはい、心得たと言わんばかりにひとつ頷いていた。流石、察しが良くて助かるぜという思いと、まだ何も言っていないのにそんなに飢えているように見えるのかという思いが複雑に絡み合ったが、今はともかく彼女の予定の方が大事だった。丁度明日は金曜日で、土曜日はデートの予定だったから、きっと彼女も快諾してくれることだろう。飯時に行儀が悪いと知りながらも連絡を入れると、数分経たない内に、イエスの返事が来る。
「よっしゃ!」
思わず声を漏らすと、不思議そうな顔をしたルフィと、やれやれと言わんばかりに頭を振るサボが目に入ったが、そんなものは今どうだっていい。好機をみすみす逃すほど、鈍くもなければ大人でもない。そうと決まればさっさと飯を食べて、掃除でもしなければ──そして、冒頭に戻る。
すっかりお決まりになったコンビニで待ち合わせして、普段より大きい荷物を抱えた彼女と会う。たったそれだけのことなのに心臓はいつもよりずっとうるさくて、初めて部屋に連れて来た時と同じくらい緊張しているのだろうことがよくわかった。しかしそれを全面に出すのは男としてのプライドが許さなくて、平静を装いながら彼女の荷物を持った。
「え、いいよ、持てるよ」
「いいから、いいから」
でも、と言いたげな彼女に手を差し出す。女に荷物を持たせるのは流儀に反するし、何より荷物を持たせるくらいなら、自分の手を握ってて欲しいからだ。そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、彼女は釈然としない顔のまま、そっと掌を重ね合わせる。一度は普通に握って、あァでもなんか違うな、と思い、するりと指先を彼女のそれに絡めさせる──所謂、恋人繋ぎという奴だ。いつもと違う繋ぎ方に驚いたらしい彼女は目を丸くしてこちらと繋いだ手を交互に見つめていたが、観念したのか、何も言わずに歩き出す。頬を少し赤らめた姿に、自然と口元が緩むのを感じる。やばい、めちゃくちゃ可愛い。
上機嫌のまま、彼女の歩調に合わせていつもよりゆっくりと時間を掛けて帰路を行く。相変わらず心臓はうるさかったけれど、それよりも浮かれた気持ちの方が大きくて気にならなかった。家に着くと、彼女は慣れた様子で靴を脱ぐ。その姿に、一緒に暮らしたらこんな感じなんだろうか、と思ってしまって、妙に照れてしまった。
「あれ、ルフィとサボはまだ帰ってないんだね」
そういえば、言っていなかったっけ。彼女には確か、家に泊まりに来ないかというメールだけしたから、そりゃあ二人がいるもんだと思っているだろう。
「今日、あいつら帰って来ねェから」
「へ?」
なるべく平静を装って、自然に返した。彼女は一瞬、間の抜けた顔で振り返ったと思ったら、すぐさまカーッと顔を真っ赤にさせていた。勿論それは、今夜どうなるかということを予測しての反応だと思うと、あんまりにも初心で可愛くて、むらっと衝動が襲ってくる。流石に前回のように玄関先でいきなり、なんてことはしない─あの時は、ひどく焦っていたというのもある─まだまだ夜は長いのだから、まずはゆっくり腹ごしらえをしてからとしよう。
「腹減ったなァ、何食いたい?」
勿論おれは、を食いたいけど。浅ましいほどの本音を必死に押し隠して、問い掛ける。真っ赤なままの彼女は戸惑ったように、
「なんでもいい、かな?エースが食べたいもので」
なんて答えるから、うっかりその場で襲いそうになった。



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風呂上がり、ぽたぽたと垂れる雫を乱暴にタオルで拭いながら、鏡の中の自分を見つめる。ナルシストじゃあるまいし、普段から身だしなみを整える程度にしか使わないそれだったが、今日はついつい見てしまう。何故か、それはひとえに表情を見るためだった。焦ってないか、怖がらせないか。男と女だから力の差はあるのは歴然で、尚且つ鍛えている方だから余計にその差は開いていると思う。だから、その気になれば彼女の抵抗なんてあっさりと跳ね除けて事を進められることは重々承知していた。だからこそ、余計に彼女の望まないことはしたくなかった。そりゃあ、ここまで来たら絶対に抱きたいという気持ちはあったが、嫌がる彼女を無理矢理襲うつもりはなかった。何度も言うようだが、大事にしたいのだ。これ以上ないくらいに、優しくしたかった。
「…よし」
余裕たっぷり、とまでは行かないが、少しはある。彼女が嫌がるようなら止められるくらいの理性は残っているようだ──相変わらず、心臓はうるさいけど。らしくねェな、なんて思いながらも、それだけ惚れているのだからしょうがない。
取り敢えず、様子を見てどうするか決めよう。そう思いながら、風呂場からリビングへ向かう。流石に男三人で暮らすのだから、となるべく広めのところを選んだのが悪かったのか、テレビを見ながらちょこんと座っている彼女の姿にくらっと来てしまった。いやそれだけじゃなくて、夜もすっかり更けた時分に愛しい恋人がいつもより弛んだ格好をして自分を待っている、というその光景がもう堪らなかった。
こちらに気付いているであろう彼女は無言で、釣られて無言になる。緊張しているのか、と思うと愛しくて堪らなくて、今すぐキスしたい欲望に駆られた。それでもなんとかむらっと来た欲望を抑え込んで、ぽすんと隣に腰掛けると、ふわりとシャンプーの良い香りが鼻腔を擽ってくるから困ったもので。いつものものじゃないな、と思って鼻を寄せて気が付く。そうだ──これは、おれと同じ香りだ。
気付いてしまった時にはもう遅くて、衝動のまま、髪にそっと唇を落とす。びくり、と身体を震わせるから、怖がらせただろうかと思って顔を覗き込むと、可哀想なくらい真っ赤になったままこちらを見つめて来る。あー、やべェ。うっかりそのまま乱暴に口付けそうになって、なんとか理性で堪えた。
どくん、どくん、と心臓がうるさくて、やかましいはずのテレビの音はどこか遠くに聞こえている。このまま、戻ることも進むことも出来ずにただ見つめ合っていたら、彼女が不意にそっと瞼を閉じた。上気した頬、リップかなんかを塗ったのか程よく潤んだ唇がほんの少し尖っていて、それはまるで誘っているようで──あ、駄目だ。
ぷつん、と何かが切れる音がした気がする。でもそんなのもうどうでも良くって、精一杯優しく唇を落とす。食むように口付けを何回か落としたら、後はもう抑えきれなくなってそのまま舌を差し込んだ。一度肩を震わせたくせに、懸命に応えようとする彼女があんまり愛しくて堪らないから、以前した時よりもずっと激しく口内を貪った。柔らかい、温かい、気持ちいい。好きな奴とするキスってこんなに気持ちよかったっけ?なんて思いながら、呼吸する間も惜しんでかぶりつく。余すところなく口内を味わって、水音が聞こえ始めて、吐息を漏らす彼女の声が欲望のままに動く舌を増長させる。
そのまま、何分キスしただろう。数えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいのそれに、すっかり呼吸は乱されていた。ようやく唇を離すとどちらのかはわからないが唾液が糸を引いていて、それを切るように舌なめずりをひとつすると、半開きの口で懸命に呼吸をしていた彼女がごくんと唾を飲み込んだ。
「…やらしー顔」
呟くと、赤い頬が更に赤くなって、潤んだ目が恥ずかしそうに伏せられる。それがどれだけこっちを揺さぶるか、気付いているのだろうか。鼻先を合わせて、ちゅっと音を立てて唾液に濡れた唇に口付けると、視線がこちらに向く。そうそう、ちゃんと見ててくれ。どれだけ欲情してるか、どれだけ抱きたいと思ってるか、少しでも伝わったら良い。それで怖がったら、今日はやっぱり無しだし、構わないようなら、思う存分味わいたい。そう思って彼女の様子を伺っていたのだが、どうやらこちらの思惑には全く気付かない彼女は少し眉根を寄せて、不機嫌そうに、拗ねたように呟く。
「──シない、の」
耳に届いた言葉を理解すると、やっぱりどこかでぷつんと何かが切れる音がして。でもやっぱりそんなのに構っていられなくて、また貪るように唇を合わせる。今度は唇だけじゃあない、待てをしていた身体だって動き出す。ゆるっとした上着の裾から、手を差し入れて、肌の感触を楽しむように指でなぞる。直接的な場所には触れていないのに、くすぐったいのか、それとも感じやすいのか、触れる度に身体が跳ねるから可愛いことこの上ない。反応の良さに気を良くしながら、キスをしながらゆっくりと彼女の身体を押す。流れるようにしてぽすんとソファに寝転がる彼女を見下ろしてから、がばっと着たばっかりの服を脱ぐ。脱ぎ捨てた服を見て、顔を赤くしたまま、でも確かにこちらを見つめている彼女はひどく可愛くて、やっぱりやらしい。風呂上りとはいえ、少し外気は冷たく感じたがそんなのどうだって良い。だってもうすぐ、熱いくらいになるのだから。


今宵、きみとなら

17/10/25