まだ眠たげな頭と身体を叱咤してなんとか起きると、外は一面銀世界だった。
「…えぇ?」
寝ぼけ眼を何度か擦ってみても、現実は一切顔色を変えやしない。やけに寒いと思ったらそういうことか、カーテンを開けながらぼけっと突っ立っていたら冷気に剥き出しの足先が攻撃されていた。
珍しいこともあるものだ、というのが正直な感想で、次に思い浮かんだのはこの後の乱れた交通についてだったから、大人になるというのは中々どうして虚しい。学生の頃だったら両手を上げて喜んでいるだろう、これだけ降り積もっていたら間違いなく休校だ。しかし社会人になったらそうは行かない。本当は自宅待機したいところだったが、雪が止んでしまっている辺りを考えるとやはりこれは行くしかないのだろう。
そうと決まれば、準備をいつもよりはやく仕上げなければならない。交通の乱れはダイレクトに通勤時間を攻撃するだろうし、定時に間に合わないのはまずい。しかも今日は朝一番から会議が入っているから、尚更遅れる訳にはいかない。
「よしっ」
気合いを入れて、慌ただしく洗面所に向かう。あぁ、そういえば服装も考えなくてはいけないな、なんて思いながらも、コーディネートにスカートが外せないのは仕事終わりに会うであろう恋人に少しでも可愛いと思ってもらいたいからだ。そりゃあ休日のようには行かなくとも、それでもいつだって恋人の前で可愛い姿でいたいと思うのは、世界の真理じゃないだろうか。おしゃれは我慢、誰が言ったか知らないが全くもってその通りだと思う。きっと彼は、パンツスタイルだって良いと言ってくれるだろうけれど、それでもやっぱりと思うのはなけなしの乙女心からだった。
さて、今日は足が冷える一日になりそうだ。



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今朝の予感は的中だった。案の定電車は混んでいたし、遅れていた。いつもより15分ほど早めに出た結果、遅れていた電車が丁度到着してくれたから慌てて飛び乗った。お陰でなんとかいつも通りより少しはやいくらいの時間に最寄り駅に到着したから助かった。幸先がいいな、なんて思いながら会社へ向かうため歩き始めたら、雪はすっかり止んだというのにものすごい寒波が降り注いでくるから性質が悪い。誰だ、幸先良いなんて言ったの。最悪だ、と思いながら、すっかり凍っているお陰で滑りやすくなっている道を細心の注意を払って進んだ。それは帰りも同じで、雪かきがされているだけマシだと思え、と言わんばかりの道だった。用心して、ヒールのないブーツで来たのは正解だったなと心底思う。
いつもより少々遅れて、日課のコンビニに辿り着く。暖かな店内は、すっかり冷えきった身体に染みる。きょろきょろと店内を見渡してみると、オレンジ色は見つからず、あぁ彼もこの雪の影響を受けているんだなぁ、なんてぼんやり思いながら毎度のごとくコーヒー牛乳を手に取った。
店を出て、すぐに後悔する。いつもの癖で、ついすぐ外に出てしまった。せっかく暖かい場所に入れるのだから、しばらく居ればよかったかもしれない。まぁ出てしまったものは仕方ない、なまじ顔見知りになってしまったからわざわざ入り直すのもなんだか気後れするのだ。
さて、彼はいつ頃来るだろうか。はぁ、と息を吐き出すとすっかり白くなっていた。そうだよなぁ、雪降るくらいだもんなぁ。そりゃ寒いはずだ、なんて思いながら、どうせ買うならコーヒー牛乳じゃなくて暖かい缶コーヒーでも選べばよかったかもしれない、と後悔した。いや、この寒さでは一時しのぎにしかならないだろうから、だったら好きなものを買う方が良いだろう。子供染みた慰めを考えていると、ふとポケットの中が振動した、携帯が鳴ったのだ。取り出すと、着信が一件。どうやらメッセージが来たらしい。
『悪ィ、今駅着いた!』
送り主は、待ち人である恋人だった。時間を確認してみると、確かにいつもより少し遅かった。そういえば、さっき駅に着いた時に連絡を入れたんだっけか。待たせるのが嫌いなのか、いつもは彼が待っていることが多かったから余計に気になるのかもしれない。
『大丈夫だよ、ゆっくり来てね』
画面に指を滑らせて、返信を打つ。外気は冷たいし、身体はすっかり冷えきってしまっているけど、なんだか心がぽかぽかするのは、やっぱり愛しい人にもうすぐ会えるからなのだろうか。我ながら現金だなぁ、なんて思いながら笑っていると、ぴゅーっと木枯らしが吹いた。慌ててマフラーに顔を埋めたが、時既に遅し、痛いくらいの風が頬を切っていく。厚手のタイツを履いているとはいえ、パンツスタイルに比べたら防御力の下がる足もあまりの寒さに少し震え出す。寒い時に身体がひとりでに動き出すのは、一体何故だろう。せめて少しでも暖まろうという脳の指令なのだろうか、なんて呑気なことを考えていた時。
たったった、と靴音がする。どうやら走っているようだ。何を急いでいるのやら、雪はなくなってもまだ凍っているところはあるだろうに。視線を上げると、そこには見慣れた顔があって。
「エース、」
流石に今日の天気では、防寒を優先したのか、珍しくニット帽なんか被っている。体温が高いせいか、いつもは驚くくらい薄着なのに今日はばっちり着込んでいる辺り、どれだけ寒いのかを思い知った。走っているせいか、それとも寒さのせいか、頬を赤くしながら駆けてくる姿はどこか可愛らしかった。
「わり、待たせ、た」
少し息を切らしているところを見ると、駅からずっと走ってきたのだろう。そんなに遠くないとはいえ、歩いたら結構な距離になる。例えば自分が走ってきたらもう息も絶え絶えになるくらいの距離だ──単純に運動不足だからかもしれないが。
「走ってこなくてもよかったのに」
寒いでしょ?と問いかけると、ニッと眩しいくらいの笑顔が返ってくる。その顔が一番好きだと言ったらどんな顔をするだろう、やっぱり嬉しそうに笑うのだろうか。
にはやく会いたくて」
おまけにいじらしいことを言ってくれるから、思いっきり抱き締めたい衝動に駆られる。ここが店の入り口前じゃなかったら、人目がなかったら、彼がびっくりするくらい抱きついてやれるのに。
「つか、の方も寒いだろ。中で待ってりゃよかったのに」
ぐう。それは自分でも思ったことだ。なんとも言えずに笑って誤魔化すと、すぅと指先が伸びてきて、頬に暖かな感触が伝わる。どうやら頬を撫でられているらしい。元々熱いくらいの体温の持ち主だから、その感触はひどく心地よくて思わず目を細めた。
「ほら、真っ赤」
冷てェし、と続ける彼は少し唇を尖らせていた。心配してくれているのだろう、放任主義に見えるが彼は案外過保護だった。付き合いたての頃からとても大事にされている、というのは嫌というほどわかっていた。それこそ、宝物のように大事に大事に。かと言って縛り付ける訳でもないから、結局のところ放任主義なのかもしれないが。
「エースもほっぺた赤いよ」
「マジか」
「うん、マジ」
そう言って同じように頬に指先を伸ばすと、彼が目を丸くする。同じくこちらも目を丸くした──彼の頬より、こちらの手の方が圧倒的に冷たいからだ。慌てて手を引っ込めようとするが、それまで頬に触れていた筈の手が、包み込むように握ってくるから敵わない。それだけでも充分暖かいというのに、この男はそれだけじゃあ満足しないらしく、ぐいと口許に引き寄せて、はぁと吐息を漏らす。溜息じゃない、これは多分、彼なりに暖めようとしているのだろう。
「え、エース」
「いいから」
驚きと恥ずかしさと、色々な感情が入り交じって抵抗しようと声を掛けるが、あっさりとはね除けられる。駄目だ、こうなった彼は案外頑固で、満足するまで止めてくれないのだ。そうなると、大人しく彼に暖められるしかない訳で。
正直、きっと両手で包んでもらった方がよっぽどはやく暖まることだろう。でもそれを言い出せないのは、結局のところ、どうしようもなく嬉しく思っているからに違いない。こんなことで喜ぶなんて省エネだな、と我ながら思うが、まさかこんな歳になってまでまるで青春時代をやり直すかのよな恋愛が出来るなんて思っていなかった。
「よし、次はこっちな」
気が付いたら、もう片方の手も取られて、ガシャッとビニール袋が騒ぎ出す。それを気にも止めずに、はーっと息を掛けてくる姿は可愛くて、愛しくて、いじらしくて。この手が暖まったら、今度はこちらが赤いままの頬を暖めてやろう。もしかしたら、彼の頬はこちらの手より暖かいかもしれない。それでもきっと、彼はあったけぇ、なんて言いながら笑うのだ。こんな幸せな時間が過ごせるならば、雪が降るくらい寒い日も、中々どうして悪くない。


ぬくもりの足音

17/11/1