ふと目が覚めると、そこは見慣れぬ天井だった。
寝ぼけた目を擦りながらもそもそと起き上がる。見慣れぬ天井、つまり自分の部屋ではない。だからと言ってここがどこだかわからない、なんていうことはなくて。何回か泊まっている、愛しい愛しい恋人の部屋の天井だった。
起き上がったことによって、被っていた布団がずるずると下がっていく。ぼーっと見慣れたような、まだ見慣れないような部屋をぼんやり見渡して、それから隣ですぅすぅと心地よさそうに寝息を立てている恋人を見た。家ではあまり服を着るのが好きじゃないらしい彼は、いつも上半身には何もまとわない。自分が起き上がってしまったことにより、外気が隙間から入ってくるのか、寒そうに身を寄せて来ていた。寒いなら服、着ればいいのに、と思わなくもないが、なんだかんだそういうところが可愛くて仕方ないので身を寄せるようにしてまたベッドに寝転がった。
向かい合った顔は、普段より近くて妙にドキドキする。キスだってそれ以上のことだってしているというのに、この新鮮さはなんだろう、と思いながらまばらなそばかすを数えてみた。ほくろは数えると増える、なんていうけれどそばかすはどうだったっけ、なんてくだらないことを考えながらちらり、サイドテーブルに置かれた時計を見ると、時刻はまだ2時を過ぎた辺りだった。どう考えてもまだ起きるには早すぎる、かと言ってもう一度寝ようと思うにはどうしようもないくらい目が冴えてしまっていた。
眠る彼を見るのは初めてじゃあない。ベッドで見るのはそんなに多くなかったが、何せよく寝る男だ。疲れていようがいまいが、そんなのお構いなしで食事中にぐーすか寝るからすっかり見慣れてしまった。いつもよりあどけない寝顔は、見る度に胸をきゅんとときめかせるから困る。これが恋のせいなのか、はたまた誰が見てもなるのかわからないが、後者であるならば人目があるところでは早々寝かせていられないな、と思う。だって彼は、大切な大切な恋人だから。
上背もあって人懐っこくて、それだけでも世の女性がなびきそうなものなのに、この上寝顔が可愛いなんていうギャップが付いてくればそりゃあ何人か落ちることだろう。だが残念ながら、彼は今現在自分の恋人をやっている訳で。そう簡単には譲ってやれない、譲ってなるものか。始まりは突然だったけれど、今ではもう離したくないくらい、好きで好きでどうしようもないのだ。それなのに。
──いつか、離れる日が来るのだろうか。
ふと、そんな不安が過る。例えば、心変わりするとか。例えば、なんの前触れもなくいなくなってしまうとか。心変わりは勿論心配だったが、それ以上に心配なのはいなくなってしまうことだった。どこに?どうして?そう思う冷静な頭はあったが、何故か心は逸っていく。
いつか──私を置いていっちゃうんじゃないかな。不安は重なり、じんわりと目頭が熱くなる。エースは、自由な男だから。そりゃあ礼節は弁えてるし、面倒見も良いけれど、根本は変わらない。弟のルフィと同じく、何にも囚われず、自分の生きたい道を行く。そういう人だということは嫌というほど知っていた。だから、いつか、いつの日か、手の届かないところにふらりと行ってしまうんじゃないだろうか。その時、少しでも自分のことを思い出してくれるだろうか。ふらりと帰って来てくれるだろうか。答えはわからない、わかったら余計に悲しくなりそうで、考えるのをやめた。
すうと、伸ばした指の先には柔らかくて暖かな頬がある。その熱いくらいのぬくもりに、とうとう涙が落ちた。なんで泣いているのか、自分でもわからない。今確実に触れられる距離にいるのに、手の届かないくらい遠くにいるようなそんな感覚に陥る。
「…ん、」
そうこうしている内に、ぱちり、とまばたきをひとつしてから、彼の瞼が開く。少し眠たげだったが、寝付きも良ければ寝起きも良い彼らしく、顔立ちはすっきりとしたものだった。目が覚めて、一番に見る顔が恋人の泣き顔なんて、動揺してもおかしくないのに、彼はいつものように笑った。
「どうした?怖い夢でも見たか?」
寝起きの声は、いつもより少し低くて、その優しさにまた泣きたくなる。
ううん、と首を振ると、それ以上は何も聞かずに手を伸ばして親指で涙を拭ってくれる。その手つきはびっくりするくらい優しくて、そうだ、いつだって彼は自分に対して優しかった。大事に、大事に、まるで宝物を扱うみたいに。だからと言って閉じ込める訳でもなく、自由にさせてくれていた。だから、私もエースを自由でいさせなくちゃ。
「エース、」
「うん?」
「すきだよ」
そう思うのについて出てくる言葉は、まるで重りのようで。あぁ、なんてひどい女だろう。自由にさせてもらっているくせに、相手を縛り付けるなんて。きっと彼が知ったら幻滅されるだろう、それこそ心変わりしてしまうかもしれない。
「なんだ、突然」
驚いたように目を丸くしてから、ふ、と笑う彼は、本当に眩しくて。この眩しさをずっと味わっていたいけれど、どうすればいいのかさっぱりわからない。繋ぎ止める方法なんて大して思い浮かばなくて、だから年甲斐もなく、甘えることしか出来ないのだ。
「おれもすき」
まるで内緒話するように、小さな小さな囁きを持って答える彼に、またぽろりと涙が溢れる。
「なんで泣くんだよ」
だって、あんまりにもエースが優しいから。
言葉にしたら笑われそうで、やっぱり何も言えずにゆるゆると首を振る。すると、彼は腕を伸ばしてぎゅうと抱き寄せてくれた。何もまとっていない肌の心地よさを、エースに出会ってから初めて知った。体温が高いせいか、熱いくらいのぬくもりに思わず目を細めると、ちゅ、なんて可愛らしい音と共に額に口付けられる。まるで幼子をあやすようなその仕草は、いつもならば少し恥ずかしいのに今はひどく心地よかった。
「、あのね」
「おう」
「どこにも行かないでね」
とうとう本音が漏れ出てしまう。みっともなくて、甘ったれたどうしようもない本音。成人をとうに過ぎ去った女がするにはあまりにも幼稚な言葉に、彼はぱちくりとまばたきをひとつして、
「ばか」
と笑いながら言う。
「どっか行く時は──も一緒だろ」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの顔で、まるで決まったことのように言うから、たまらなくなってぎゅうと抱き締める。あぁ好きだ、好きだ、好きだ。いつの間にこんなに好きになっていたんだろう、愛しさが募ってそっと口付ける。抵抗することなく受け入れて返してくれる彼があんまり愛しくて、胸の中にぽっかり空いた穴はたった一言で埋まってしまった。
いつか、彼はどこかへ行ってしまうかもしれない。それは不安じゃなくて、きっと予感なのだろう。小さな街に黙って納まっているような人じゃないから、その内ふらりとどこかへ旅立ってしまうことだろう。それはもしかしたら隣の街かもしれないし、もしかしたら国を跨いでしまうかもしれない。その時は、一緒に行こうと言ってくれるだろうか。それとも、行くぞと強引に手を引っ張ってくれるだろうか。どちらでも良い、彼と一緒にいられるならば。何もかもを捨ててついていく、なんてドラマや映画の中だけの話だと思っていたのに。まぁいいか、エースといられるならなんでもいい。死が二人を別つ時まで、なんて言うつもりはない。どうせ言うならば、そう──死んでも一緒が良い。


行き着くところは、とどのつまり

17/11/8