蓼食う虫も好き好きという言葉をご存じだろうか。
「なーぁお姉さんってばー」
猫なで声が勘に触る、とでも言えばこの男はどこかへ行ってくれるのでは、という淡い期待を抱きつつも、こういった場合は無視が一番とチェインから聞いていたのでなんとか口をつぐんでやり過ごす。
ここヘルサレムズ・ロットでは不可思議なことが毎日起こる。例えば食事をしに入った筈なのに店内の客は余すことなく食事に食べられていたり、堕落王とかいう常識も交渉も通用しないタイプの人物に暇つぶしという厄災をもたらされたり。例えば、スポンサーとの食事の帰りに珍しくもナンパなんぞに引っ掛かってしまったり、まぁ様々な非日常を味わえる。
失敗した、と後悔するにはもう遅い。まさに後悔先に立たず、先人というのは実に素晴らしい言葉を残してくれた。スポンサーとの食事を終えて見送りをすませた時、さぁて帰るかと笑顔のままくるりと振り返ったのが悪かった。たまたま真正面にいた男とがちんと目が合ってしまったのだ。偶然の産物とはいえそれでイケると思ったこの男はよっぽど女に飢えているのか、先程から数十分もこうして声をかけ続けて来るのだ。勿論振りきろうと足を動かした、だがどこかの誰かさんと違って短い足ではどうにもこうにも振り切れなくて。この男、意外に体力があるらしく、息も切らさずについてくる始末だ。そういったものはもっと別の有意義なこと使うべきなんじゃないのか、そう言ってやりたいのも山々だったが、ここは反応したら負けだ。
スティーブンやクラウスがいればよかったのに、いやこの際ザップ辺りでもいい。抑止力というのはこの街でも必要不可欠で、それはどんな時にどんなものが役立つかわからない。
「聞いてんのぉ?」
反応がないのをいいことに、やりたい放題のこの男はとうとうこちらの手首を掴むという強行手段を用いてきた。すぐさま振り払おうとしたが、痛いぐらいに強く掴まれていて為す術がない。顔を睨み付けると、へらへら笑っている男の瞳はどこか空を見ていて、口許もよだれが垂れそうなくらいだらしなく緩んでいる。これは、ちょっとまずいかも。
明らかに正常ではなさそうな相手、手首はギリギリと強く掴まれていて、振り払えるどころか痛む一方で。恐らく麻薬によるものだろう、ザップ辺りが飛んでいる時によく似た症状だった。
「無視してんじゃねぇよ、ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃねぇか」
へらへらとした顔とは裏腹に、声は妙にドスが効いていて。びくりと肩が跳ねたのは驚きからか恐怖からか、そんなもの知ったところでどうにもならなかった。
さて、どうするか。街中とは言え、陰った路上だ、多少乱暴な手段を取ったところで誰が怒ることもないだろう。バッグに入れっぱなしの銃を握り、腕を掴んでる手首でも吹っ飛ばしてやろうか、そう思った次の瞬間。
「──感心しねぇなぁ」
知らない声が耳に届く。
顔をあげると、片目を長い前髪で隠したトレンチコートの男がポケットに手を突っ込んだまま仁王立ちしていた。
「ベタだがこう言っとくべきか。お嬢ちゃん、困ってんじゃねぇか、離してやれよ」
どうやら助けに現れたらしい、このヘルサレムズ・ロットにおいて人助けとはなんということだ。見た目に反して案外お人好しなのだろうか、人助けなんてしそうもない顔をしているが。
「あぁ!?てめぇには関係ねぇだ、ろ…?」
「生憎と無益な争いを止める仕事をしててな、わかるか?これの意味」
邪魔が入ったことが気に入らないのか薬のせいで沸点が低くなっているのか、怒り出した男は一瞬の間に収束する、片目の男はにぃと口端をあげて笑っていた。その余裕は手中にある手帳にあるのだろう、手帳には見慣れたマークが鎮座している──HLPDだ。
「現行犯逮捕されたくなかったら、とっとと散れ」
薬をやっていても理性はまだあるのか、男は警官の言葉に素直に応じた。去っていく背中をぼんやり見つめながら痛む腕を擦っていると視線を感じる、間違いなく先程自分を助けてくれた警官によるものだった。
「大丈夫か?嬢ちゃん」
「は、はぁ、ありがとうございました」
戸惑いを隠すように笑みを作るが、内心ではヒヤヒヤものだった。HLPD、警察、つまりライブラと持ちつ持たれつの間柄──というのは暗黙の了解のようなもので。表向きは秘密結社だろうが正義の味方だろうが世界を守っていようが関係ない、器物損壊罪の常習犯なのだ。ここでバレたら流石にまずいだろう、いや、バレたところで器物損壊するような力は自分にはないのだけども。
「そ、それじゃあ…」
「こんな夜に一人歩きじゃ危ねぇだろ、送ってやるよ」
冗談じゃない。
すんでまで出てきた言葉をなんとか飲み込んで、愛想笑いを深くする。男は気にした素振りもなく、気さくな笑みを浮かべた。
「何、取って食いやしねぇよ、いくらライブラと言えども」
「え」
「ん?」
「えっ」
今、この人は何を言ったのだろう。取って食いやしねぇ、そりゃあそうだ、こんなの食べようなんてよっぽどの悪食だ。そもそも助けてくれたというのにそんな仕打ちはあんまりだろう。
じゃなくて、問題はその後だ。ライブラ、確かに彼はライブラと口にした。聞き間違いでも偶然でもなんでもない、ライブラと口にしたのだ。
これは、流石にまずいんじゃあないのか。一歩下がる、首を傾げたままにこにこと三白眼を細めた彼は一歩近付いてくる。これじゃあ堂々巡りもいいところだ、ここは素知らぬ振りでもするべきか、そう考えた次の瞬間。
「ライブラの嬢ちゃんだろ、現場じゃ見たことねぇが、よく副官について歩いてるよな、さしずめ営業ってとこか」
バレてる、バレてますよスティーブンさん。だからあの人と車なしに歩くのは嫌なんだ、前々から秘密組織らしからぬ堂々とした振るまいに苦言を呈していたというのに、爽やかな笑顔と共に一蹴されたのは記憶に新しい。女の人どころか警官の目まで盗んでどうするんだあの伊達男は、流石ですねなんて皮肉は今はもう届かない。
どうしたものか、考えあぐねているとやれやれと肩を竦めてみせた彼は紙巻き煙草を取り出した。
「一本吸わせろ、そんでもって落ち着け、今日はもう非番だから仕事はしねぇよ」
つまり暗黙の了解が通る、とそういうことなのだろう。ほっと息を吐くと、くくくと喉を鳴らして笑われた。こちとらしがない構成員で数少ない事務要員なもので、立場とか色々あるんだぞ。そう言いたくなったが、藪蛇になりそうなので黙っておく。
「ライブラらしからぬ素直な嬢ちゃんじゃねぇか、あの伊達男に見習わせろよ」
「いや、私、そんな権限ないので…」
どちらかと言うと立場はかなり低めだ。年齢もあるだろうがこれでも創設時からいるメンバーの一人なのだから、もう少しなんかこう、あってもいいような気がする。いや仕事に不満はない、あったところで大体全てはこの街のせいだから、口にしたところでたかが知れている。
すぱー、と顔を背けて煙を吐く姿に物珍しさを覚えたのは、周りに煙草を嗜む相手がザップだけだからだろうか。葉巻だ、とどうでもいいところで発揮される美学めいた主張がどこかから聞こえてきそうだが、その人物はこれ見よがしに人を馬鹿にするように顔に煙を吐き付けてくる。いい加減にしてと何度怒鳴ったかわからない、その度に取っ組み合いの喧嘩をし、卑怯にも血法を使ってくるザップの頭がチェインによって踏んづけられるのも記憶に新しい。
そんな細かな気遣いとも言える行為が妙に気になって、ついつい口を開いてしまった。
「なんで、助けてくれたんですか?」
この問いかけに、面を食らったようにぱちくりと三白眼をまんまるにした彼は、ぽりぽりと頬を掻きながら返す。
「傷害事件は未遂に終わらせないとダメだろ、警官として」
「傷害?婦女暴行じゃなくて?」
「鞄に物騒なもん仕込んでんだろ、殺気がただ漏れだった」
なるほど、この男は気が利くどころか鼻も利くらしい。
納得したように掌をぽんと叩くと、すぱーとまた一息。煙の先は果てのない霧だ、陰りのある路地にはお似合いの姿だった。
「正当防衛ですよ」
「どうだかな、まぁ非番になった俺にゃあ関係ないぜ」
「時間外労働、ご苦労様です刑事さん」
「俺ぁ警部補だ、ダニエル・ロウ。そっちの副官にきちんと伝えとけよ、これは貸しのひとつだからな」
勝手に助けておいてなんという言い草だろう。
肩を竦めると、やれやれと向こうから溜息を吐かれてしまった。それはこっちの仕事だと思うのだが。そもそもスティーブンにHLPDに助けられたなんて口にした日には、どんなお説教が待っているかわからない。もちつもたれつ、微妙な均衡を保っている相手だ、こんなところで仲良くお話するような相手ではないことだけは確かだ。
「スティーブンさんには言えません、でも感謝の気持ちはあります」
素直に言うと、また三白眼をまんまるくした彼は肩透かしを食らったように驚き、それから笑った。喉を鳴らすようなニヒルなものではない、それこそ大笑いといっていいものだろう。何がそんなに面白いのか、反応に困ってそのままでいると、目尻に溜まった涙をひとつ拭って彼は言う。
「お前、ライブラにいるのが勿体ねぇな」
「確かに戦力外ではありますが…」
「馬鹿、そういう意味じゃねぇよ」
くくく、と喉を転がしながらまだ収まらない笑いをなんとか噛み殺している。そんなに面白いことを言ったつもりはないのだが。
「それじゃあ、感謝の気持ちがてら、キスのひとつでもしてもらおうかね」
「助けておまわりさん!」
「残念、目の前の俺がおまわりさんだ」
「私を公務執行妨害でしょっぴく気ですか、何も話しませんよ!」
「今は非番だっつってんだろうが」
らちが明かない、いやそもそもこの人の発言がおかしいのだ。確かに助けてもらったことには感謝している、銃を持ち歩いているとはいえ滅多に使わない代物だし、あの男から無事逃げられるかどうかなんて五分五分だ。無益な殺生なしに解放されたのはこちらとしても大儲け、釣りがいくらでも返ってきそうなくらいではある。
だが、だからといって乙女の唇はそんなに安くはない。
「なんで急にそんなこと…」
「非番中に職務を全うしたんだ、それくらいあってもいいだろう?」
いやないだろう。そう言い返してやろうと思った、のに。
にぃ、と口端をあげた彼はまるで狐のように笑って見せて、あたかも人を小馬鹿にしたような声でこう宣ったのだ。
「それとも、怖いか?経験なさそうだもんなぁ、キスのひとつくらいでガタガタ抜かすなんて」
ぶちん。
切れたのは糸か縄か、それはさっぱりわからないがとにかく琴線に触れたのだけは確かだ。
経験がない、キスのひとつくらいで、怖いか。あぁそうだ、その通りだ。確かに経験は少ない、でもそれは貞淑に過ごしているからで、そもそも男は経験のある女は避けることがあるじゃあないか。
キッと睨み付けると、おぉ怖いと言わんばかりに両手を上げる姿が腹正しい。いいさ、そこまでいうならやってやろうじゃないか。
ぐい、と思いきりその時代遅れなトレンチコートの襟を掴んで、煙草をくわえたままの唇──の横、頬に思いきり唇を押し付けた。
「いっ」
「ってぇ!」
勢い余ってがちん、と当たってしまった。痛さに悶絶していると彼も頬を押さえて唸っていた。
「ど、どうだ!見たか!これこそ感謝の気持ちですよっ」
ふん、と鼻を鳴らしてから、反応を見る前にそそくさと歩き出す。いつもよりペースが早いのは、背後の男に何か突っ掛かられるのが怖かったから。三十六計逃げるが勝ちという言葉もあるくらいだ、戦線離脱は恥ずかしいことではない、寧ろこれは戦略的撤回なのだ。
そんなことばかり考えて、慌てて逃げた自分には残された彼が頬を擦りながら、その印象的な三白眼を細めて、
「──面白ぇ」
と呟いていたことなど、これっぽっちも知る由がないのだ。


はじめまして、さようなら

16/6/27