「戻りましたー」
「あぁ、お疲れ…ってなんだい、それ」
執務室に戻ると、真っ先に指摘されるそれに苦笑が滲むのは仕方ないだろう。自分だってなんだこれ、とは思う。しかし、まぁ、好意の一端なのだから受け取らない訳にもいかなかったのだ。
作業に勤しんでいたスティーブンとクラウスは、自分の姿─正確には持っているもの─を見ては目を丸くして、ソファーでごろごろしていたザップはその匂いに顔を歪めた。どうやら相当香るらしい、自分は道すがら鼻が馬鹿になってしまったので、もう余り気にならなかった。
「貰ったんですよ、さっき」
「貰ったって…あのスポンサーから?」
「それ以外に誰がいるんですか」
「あの人にそんなものを贈るような気概があったとは…意外だね」
「私もびっくりしてます」
肩を竦めると持っている花束が揺れ、ふわりと香りが一層強くなるのを自分でも感じる。全く、なんでよりにもよってこの花なのか。
「しっかし──なんで百合だけなんだ?花束っていうのは、もっと色々な花が入り乱れてるものじゃなかったかな、百合なんて縁起も悪いし」
「私に聞かないでくださいよ」
聞きたいのはこちらの方だ。渡してきたスポンサーはにこにこ笑うばかりで、答えを教えてくれたりなどはしなかったのだから。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花──日本には古来より、このように女性の姿を花に褒め例える言葉があるらしいのだが…恐らく、のそういった面を表しているのではないだろうか」
そういえばスポンサーの出身は日本だったな、なんて冷静に考えながらも、それまで黙っていたクラウスがいかにも真面目にそんなことを言うものだから頬がぶわっと熱くなる。歩く姿は百合の花、だなんて。彼がそんな風に考えていてくれた、そんな風に都合よく解釈してしまって、それだけで嬉しさと気恥ずかしさとでいっぱいになる。
「はぁ?おいおい旦那、こんな暴力女が百合な訳ねぇだろーが。精々雑草がいいとこだろ」
「VIP対応中のには…まぁあってるんじゃないの。普段は別として」
一言どころか二言も三言も余計な雑音まがいの二人の声はそっとすべて無視をすることにする。そんなことに耳を傾けるより、先程のクラウスの言葉を反芻する方がよっぽど重要だ。嬉しさに頬が弛んで、それを引き締めるためにぐっと花束を持つ手に力を込めた。
「…えへへ、嬉しいです。私、もっともっと素敵なレディになれるように頑張りますね!」
思わず意気込んでそう伝えると、クラウスはいつもの優しい笑みを浮かべて小さく頷いた。その微笑みがあんまり嬉しくて、スティーブンのやれやれと言うような溜息も、ソファーのザップがおえっとしたのも目に入らない。
「ところで…それ、どうする?」
「ここに飾ります?」
「臭ぇからやめろ」
間髪入れずの意見に目を丸くしてしまうのは、もう匂いを感じられないほどに鼻が馬鹿になっているからか。ちらり、とスティーブンに視線をやると、彼も苦笑を滲ませていた、どうやら本当に匂いが強いらしい。クラウスだけは、いつもと変わらずだったが。
「…まぁ、確かにそれだけの量だと匂いが少しきついし、縁起も悪い」
「じゃあ、持ち帰りますよ。このまま捨てるのは勿体ないし」
「あぁ、そうしてくれると助かるよ」
「お前のことだからすぐ枯らすんじゃねぇのぉ?っつーか花瓶とかそんな高尚なもんお前の家にあんのかよ」
「ザップうるさい」
ひひひ、と下卑た笑みを浮かべながらこちらをからかってくる銀髪に、百合の花束を思いきり近付けることで黙らせた。ぐおおお、と呻いている姿はまさに滑稽だったが、そんなに匂いがきついのかと改めて感じる。くん、と鼻を近付けて嗅いでみるが、やっぱりわからなかった。
「じゃ、今日は失礼します」
「はいお疲れさん。送ろうか?」
気遣いに小さく首を振って執務室を後にする。花束が歩く度に揺れて、香りがふわりと鼻腔を擽って、とてもいい匂いだ。
「…それにしても、あんな匂いの強い花束を贈るなんて、まるでマーキングだな──って、あ」
スティーブンがぽつりとそんなことを呟いたせいで、クラウスの纏う空気がピリピリとした重苦しいものになってしまったらしいのだが。浮かれ気分で帰っていた自分は、そんなこと露ほども知らなかった。



:::



花束をもらって三日が過ぎた頃、執務室で書類を読んでいると不意にザップが何故かまとわりついてきた。正直に邪魔だったので虫を払うようにぶんぶんと手を振ると、位置が悪かったのか丁度手の甲が奴の鼻を直撃した。
「いってぇな!なにすんだよいきなり!!」
「いや、邪魔だったから、つい」
「ついじゃねぇよこの暴力女ぁ!」
暴力を振るうつもりは毛頭なかったが、結果として暴力になってしまったのは申し訳ない。しかし、そもそも人の妨げになるような行為をしてきたのはザップだったので、無視をしてまた書類に視線を戻す。
しかし流石はザップ、堪えるどころか益々ヒートアップしたのか、ぎゃあぎゃあ耳許でうるさいので書類に集中なんて出来る筈もない。小さく溜息を漏らすと同時に、スティーブンの方から咳払いが聞こえてきて、ようやく黙ったくらいだ。それでも傍から離れないザップがどうにも集中を妨げるので、仕方なしに書類から視線をあげる。全くなんだというのだ。
「…なに、なんか用?」
「お前、貰ってきた花どうした?」
即答出来なかったのは、こんな短い期間で枯らしてしまったから。いや、言い訳をさせて欲しいのだが、昨日も一昨日も緊急の仕事が多く転がってきた。それの対処により疲れ果てた身体は、家に戻るとすぐさまベッドに吸い寄せられて、結果的に三日間という驚異的なペースで枯らしてしまったのだ。元々花の世話に対する知識も薄い、初日からそんなに良い対処をしていなかったのかもしれない。しかし、それを素直に言うのは憚れた。
黙ったままのこちらに痺れを切らしたらしいザップは舌打ちをひとつ。まるでチンピラ、いや、まさしくチンピラだ。
「おい、どうしたって聞いてんだろうが、とっとと答えろバーカ」
「別に、どうしたって良いでしょ、ザップには関係ないし」
「……お前、まさか」
言うな。言わないでくれ。何せここには園芸が趣味のクラウスがいるのだ。そんな彼に、こんな体たらく知られたくなどなかった。じろりと睨み付けるとザップは黙ったが、予想外の声がそれを指摘してきたから困り者だ。
「三日間で枯らしたのか、まぁ君にしては持たせた方じゃない?」
それまで書類に夢中だった筈のスティーブンが、何故か急に介入してきたというのだから、あんぐりと口を開ける他ない。しかも、隠そうとした真実まで開けっ広げに口にしてくれた。なんということだ、伊達男は女の気持ちを組むのは上手い筈じゃなかったか。そもそも、何故この失態に気付いたのか。今朝枯らしたばかりの百合の存在は、それこそ誰にも伝えていないというのに。
「なんでわかるんですか?!」
「今日に限っては、百合の匂いがしないからな」
盲点だった、百合の花を処分してシャワーで寝汗を流したことが運のツキだったらしい。それにしても犬並みの嗅覚だな、と感心すら覚える。ちらりと視線を向けると、うんうんと頷いているザップも恐らく鼻で感じ取ったのだろう。なんなんだこいつら。
「しかし、君の部屋がまた一層殺風景になるなぁ」
「なんですか、藪から棒に…」
わざとらしい声音に、警戒心が強まるのは仕方ないだろう。確かに自分の部屋は殺風景だと思う、女の子らしい物はそれこそ数少ないアクセサリーと化粧道具ぐらいだろう。以前、たまたま任務の都合で部屋を訪れたスティーブンに、色気がないなぁなんてからかわれたことは未だによく覚えている。すみませんね、女性らしさがなくて!
そう、確かにここ三日間は、百合の花があったお陰でその殺風景さも大分彩られていた。忙しさにかまけて、あまり見れてはいなかったが。しかし、それがなくなったことが、スティーブンに何か関係あるだろうか。いや、ない。そんなことより、園芸が趣味のクラウスに自分が短期間で花を枯らしたという事実を知られたことの方がよっぽど重要だ。
「せっかく花瓶も買ったのになぁ」
「元々花瓶くらいありました!」
失礼甚だしい。クラウスの趣味が園芸と知って、話を合わせようと訳もわからず買ったことがあっただけで、埃を被ってはいたが確かに我が家に花瓶はあった。
意外そうな目を向ける副官殿が憎らしい。なんなのだ、今日は本当によく絡んでくる。
「そうだ、クラウス。君が育てていた薔薇、そろそろ花が開く頃合いじゃなかったか?」
「あぁ」
「どうだろう、殺風景にも程があるの部屋に、君の育てた薔薇で、文字通り花を添えてあげないか?」
「ちょっ」
なにを言い出すんだこの人は。予想外過ぎる言葉に、持っていた書類を思い切り握りしめてしまう。重要書類だった気がしなくもないが、そんなことより今の話の方が重要だ。
しれっと笑顔を浮かべているスティーブンが、楽しげにこちらを見てから、またクラウスに、どうだい?なんて声を掛けるからこちらとしては気が気じゃない。いや、勿論、クラウスが手塩に育てた薔薇を部屋に飾れるというのはこの上ない幸せで。思わず期待の籠った視線で彼を見てしまうのは、そんか気持ちが明け透けだから。
「…いや、だが」
それはどうだろう。その言葉の意味するところは、つまり、せっかく育てた薔薇を、たった三日間で百合を枯らすような女の下に送るのは不安だと、そういうことで間違いないだろうか。
がつん、と後ろ頭を殴られたような感覚だ。まぎれもなく自業自得だから、責めようもないのだけれど。
「い、いやいや旦那、なにぶっこいてるんすか!薔薇の一つや二つ、減るもんじゃないでしょ?!」
いや、確実に減るだろう、と口を挟めなかったのは慌てたように反論をするザップが珍しかったということに加えて、先程のショックが大きかったからだ。ぐしゃぐしゃになった書類に視線を落とすと、余計に惨めな気持ちになる。
「しかし、私の育てた薔薇で本当に良いのだろうか?…今年は、恥ずかしながらあまり手入れが行き届いていないのだ──彼女に相応しい薔薇には程遠い」
「……へ?」
間抜けな声が漏れたのは、予想だにしてない言葉が耳に入ったから。ばっと顔をあげると、気まずそうに頬をかいているクラウスの姿が目に入る。あぁ、そういった仕草も似合うなぁ、なんて考えている場合などではない。脳をフル回転させて、先程の言葉を反芻させる。
これは、もしや、嫌がられている訳ではないということだろうか。
期待に胸を震わせながら唇を開こうとすると、自分よりはやくスティーブンが冷静に言葉を紡いでくれた。流石番頭だ、こういう時にはやっぱり頼りになる。
「クラウス、相手は素人だ。薔薇の良し悪しなんて高尚なもの、彼女にはわかりっこない」
「そうっすよ旦那ぁ!ここはひとつ、奴に色気とか女らしさみたいなのを磨かせるチャンスだと思って!」
何やら、大分失礼なことを言われているような気がする。いや、しかし二人にはもう少し頑張って欲しい、何せ彼の薔薇を我が家に飾れるチャンスなのだ。
固唾を飲んでその様子を見守っていると、不意に翡翠の瞳が自分を射抜く。戸惑ったような、でも鋭い視線と真正面からぶつかると、ドキッと心臓が跳ねてしまう。それをなんとか表に出さないように平静を装いながら、しっかりと、見つめ返す。
「──あまり、見事とは言えないのだが…君に贈っても良いだろうか」
「っは、はい!もちろん!!」
反射的に答えていた。ぶんぶんと、首が引きちぎれるんじゃないかと思うくらい頷くと、彼の瞳から不安の色が薄くなり、安堵したような息が漏れる。ぐっと思わず拳を握ると、何故か似たようなタイミングでスティーブンとザップがそれぞれ溜息を漏らしていた。文字通り、息の合った二人である。
「それならば、」
今まで黙っていたギルベルトが不意に声を発したかと思うと、包帯に覆われた目元をにっこりと弛ませて、素敵な提案を口にする。
さんに切り花を長持ちさせる方法を、ご教授なされたら如何でしょうか?」
「あーいいっすねー流石ギルベルトさんは言うことが違ぇなぁ!」
「さぁクラウス、はやく二人で薔薇を選んでその方法を教えてあげるといい」
矢継ぎ早に言われてしまい、思わず瞬きをひとつ。クラウスも驚いたのか、目を丸くさせていた。その少しあどけない表情の愛らしさときたら、思わず口許が弛むのも仕方ないと言えよう。
無言の圧力が我々二人を包み込んでいるかと思ったら、徐にクラウスが立ち上がったので、こちらも慌てて立ち上がる。
「…では、共に選ぼう」
「は、はい、宜しくお願いします!」
直角に頭を下げると、困ったようにおろおろとする彼がいとおしくて堪らない。思わず心のままに愛を囁きたくなるが、そうすると彼がもっと困ってしまうだろうからなんとか堪えて笑顔を浮かべる。すると彼が、穏やかに目元を弛めるから、益々嬉しくなって顔がどんどん弛んでしまう。
クラウスは、自分の歩調に合わせていつだってゆっくりと歩いてくれる。それを良いことに、自分はいつも以上にゆっくりと足を運ぶのだ。ゆっくりと、ゆっくりと、彼の温室へと向かう。その穏やかな時間の、なんと幸せなこと。
スティーブンとザップ、そしてギルベルトには感謝しなくてはならないだろう。彼の育てた薔薇を頂けるなんて、なんたる僥倖だ。加えて、長持ちの秘訣まで教えて貰えるとは。絶対に、長持ちさせてみせる。三日間なんていう儚い命にはさせやしない。あぁ、なんならスティーブンに氷付けにしてもらえたらずーっとその薔薇を飾っていられるかもしれない。後でこっそり頼んでみよう。そんな風に考えながら、クラウスと二人、ゆっくりと歩いた。自分達のいなくなった執務室で、こんな話がされているなど思いもせずに。
「……全く、世話のかかる二人だなぁ」
「マジ面倒くせぇっす、なんなんすか、とっととヤることしたらいいんすよ」
「ほっほっほ、良いではありませんか。あれがお二人のペースなのですから」
──今日から自分が纏うのは、百合ではなく、彼の育てた品の良い穏やかな薔薇の香りだ。

貴方の香りで包まれる

15/06/25