例えば、この街で唯一の光だったのかもしれない。それは淡く、時に見逃してしまいそうになるけど。どこまでも優しく、いつだって居場所なのだよと照らしてくれていた。
さんが、ライブラを辞める…?!」
今日も今日とて異界と混在する街、ここヘルサレムズ・ロットでその声は大きく響いたかもしれない。その話を持ってきたザップが大袈裟に耳を塞いでいるからきっとそうなのだろう、眉間についた皺に不機嫌そうな顔、彼も彼でこののっぴきならない話題に不快感を示しているらしい。
「辞めるなんて言ってないよ、牙狩り本部に戻るかもしれない、というだけだ」
その奥で、スティーブンが告げる。いやに冷静なそれはこちらが驚くほどに落ち着いていて、コーヒーを啜る片手間に資料に目を通すくらいだった。実にスマートな出で立ちである。かくいう自分はといえば、あまりの衝撃に口をあんぐりと開け、おたおたと手を動かしている。懐いてくれているソニックは、そんなこちらの居心地が悪いのか、シュッとソファーへ移動していた。なんて冷たい奴だ、今日はバナナじゃなくてバーガーのパンズを飯にしてやる。
「き、牙狩り本部って"外"じゃないですかっ」
「そうだよ。でも元々彼女は本部に居たし、今回の話もそう悪いものではないんだ」
「そりゃまーこんな所にいるよかずっとマシなんじゃないすかね、命のキケンってのはそうそうねぇ訳だし」
けっとザップはソファーに寝転がり、ソニックが慌てた様子で飛び退く。そうして肩の上に戻ってきたこいつを撫でる余裕もなく、呆然と立ち尽くし照らしていた。
「まぁなんにせよ、話はした。あとはが決めることだ。チェインもK.Kも納得してる、俺達は口出し無用って奴さ」
「…クラウスさんは、」
「あいつは今頃庭園の整備でもしながら、胃でも痛めてるんだろうよ」
旦那らしいっすね、というザップの言葉でその会話は終了した。あとは野となれ山となれ、こちらから手出しは一切出来ない。そういうことなのだろう。
という女性は、秘密組織ライブラの戦闘員の面々を支える人だった。事務処理、情報収集、スポンサーの相手など多岐に渡る仕事量は恐らくスティーブンよりも多い。それらをなんなくこなしている辺り、彼女が所謂一般人でありながらこのライブラにいる理由が知れることだろう。加えて彼女は人懐っこく、真っ直ぐな性格が起因して仲間達から好かれている──そんな彼女が、このライブラから居なくなるかもしれない。その衝撃が自分のなかでどれだけ大きいか計り知れない、密かに憧れていた人だから余計にだろう。しかし、彼女を止めるのも憚れる。何故ならこのとんでもない街は、戦う能力を持たない彼女には余りにも危険極まりないからだ。
「はぁ…」
溜息が漏れる。霧に包まれた街を見下ろしながら、ぼんやりと考えていた。彼女にどんな顔をして会えばいいのか、さっぱりわからない。傍らのソニックは、キキッと小さく鳴いて慰めるようにぺちぺちと頬を叩いてくれた。
「ありがとな、ソニック。…でもほんと、どうすっかなぁ」
「何が?」
「何がってそりゃ、さんのこと」
「私?」
「そうそう私…って!」
「私がどうかした?」
ぼんやりと考えながら適当に話していたからだろう、後ろに当の本人が居たことに全く気が付かなかった。慌てて振り返ると、驚くくらいいつも通りの彼女がそこにいて、首を傾げてこちらを見つめていた。うぅ、可愛い。年上で先輩な筈の彼女はいつだって可愛らしい、それは今日とて変わりない。
言葉に詰まっていると、やれやれと言わんばかりにソニックがその頭を振っていた。この野郎、他人事だと思って。
「ど、どうして、こ、ここに」
どもってしまった。恥ずかしい。でも彼女はそんなことをわざわざ指摘することなく、不思議そうに丸まった目を細めて、それはそれは可愛くて笑顔を作った。
「レオくん、お昼まだでしょ?一緒にどうかなって」
カサッと紙袋をひとつ掲げて揺らす。お気に入りのジャック&チーズロケッツハンバーガーのロゴマークがいつもより数倍光輝いて見えて、二つ返事で頷いた。



:::



「あー美味しかった!」
「そっすね…」
満面の笑みを浮かべる彼女とは打って変わって、こちらは少しばかり、いや大分気持ちが重たかった。大好きなハンバーガーは憧れの彼女と食べるにはあまりにもチープで、しかしそのチープさが今の自分にはぴったりなような気がして。
だって、なんて声を掛けたらいいかわからないのだ。ついでにいうと、どんな顔をしたらいいのかもわからない。だから黙々とハンバーガーに食らいつく他になく、彼女が振ってくる話題にうんとかすんとか言いながら自己最短記録で食べ終えてしまった。せっかくの二人きりだというのに、情けないことこの上ない。頭の隅でザップ辺りがうっひゃっひゃっと高笑いしているような気がするし、パンズを千切って分けてやったソニックからも「もう少し男を見せろよ」と言わんばかりの視線を頂いたと思う。余計なお世話だ。
「それで、レオくん」
「は、はい」
「なぁに、今日は随分とびくびくして。隠し事でもしてるの?」
隠し立てするようなことはない、とは言えなかった。だって周りの皆が知っているというのは、彼女からしたら居心地が悪いだろう。自分の預かり知らぬところで話題になっているというのは、よくも悪くも面白いことではない。それに、こういう繊細な話は彼女から聞くべきもので、だから今はこう答えるべきなのだろう。なんでもありませんよ、と。それなのに。
さん、牙狩り本部から、要請が来てるってほんとですか」
この口は、どうしてこういう時だけひねくれているのか。
慌てて口を塞いでももう遅い。出した言葉は引っ込むことはない、人生に巻き戻しボタンなどはないのだ。もしもそんな便利なものがあったら、きっと今虚を付かれたようにぱちくりと瞬きを繰り返している彼女の可愛い顔は見れなかっただろう。
「レオくんも、知ってたんだ」
「えぇ、まぁ、はい」
「…そっか」
「いや、あの、えっと」
言葉が出てこない。彼女はそっと瞼を伏せて、少しばかり気まずそうに笑った。その長い睫毛に心奪われそうになりながらも、完全にやってしまったと後悔している自分がいて。どうするべきか、答えの出てこない迷宮に足を踏み入れてしまったらしい。
少しばかり重い沈黙が、時を支配していた。ソニックも、こういう時は空気を読むらしく大人しく彼女の膝の上になんかいて、あぁ羨ましいなぁだなんて場違いのことを考えていた。
「実は、」
「は、はい!」
「やだレオくん、そんなに改めなくていいんだよ」
「は、はい、なんかすいません…」
沈黙は思ったよりもはやくなくなった。困ったように眉尻を下げた彼女が唇を開いたからだ。自分はというとそんな彼女に驚いたのと訳がわからないのでいっぱいいっぱいになり、妙な緊張感を味わいながらその言葉の続きを待つ。
「…どうしようか、もう決めてはいるんだ」
それは、つまり、ここを離れるかどうか、ということだろうか。伏せられた瞼から読み取れることは、彼女が言いにくそうにしていることくらいで。鈍くてのろまな亀には、額面通りにしか受け取れなくて。
「行っちゃうんですか」
思ったら、もう声は出ていた。
彼女は驚いた顔でぱっとこちらを振り返って、それから顔を歪めた。そこから読み取れるのは、彼女の未練で。卑怯な自分はそれを利用する。
「行かないでください」
やろうと思ったら、意外とあっさり言えるもので。言葉を探している彼女をおいてけぼりにしながら、続ける。
「だって、いつも一緒にいたから──居ないと変なんです」
好きだ、とは言えなかった。でも意気地無しと言われようがなんだろうが、紛れもない、純白の本心だった。それは自分が彼女に恋い焦がれているからというのは関係なく、ただ純粋に、彼女がここヘルサレムズ・ロットでライブラとして働いているというピースがきっちり収まっているような気がして、だからそれがなくなるとライブラという絵は一生完成しないから。
邪な思いがない訳じゃない、半分くらいは私欲の言葉だ。でもそれでも、やっぱり彼女にはここにいて欲しかった。
「レオくん…」
「すいません、あの、でも」
「やっぱりそう思うよね!いくらなんでも古巣に出張はないよねー」
「は、い?」
「クラウスさん達はたまには、っていうけど、私あそこ捨ててこっち来たようなもんだし行きにくくてねぇ。今回だってどうしても私じゃなきゃ駄目って訳じゃないし、うん、断ろう!」
「え、あ、ちょっと、さん…?」
「ありがとう、レオくんのお陰で決心ついたよ、私はやっぱりここで踏ん張って生きてたいしね!」
「あ、はい、そうですね……」
「そんな訳でクラウスさん達に言ってくるねー!」
じゃあ、と言うが早いがバタバタと彼女は駆けていった。残されたこちらはというと、呆然とそれを見送る他になく。
出張、彼女は出張と言っただろうか。いや、聞いていた話と大分違う。大分どころかもうほとんど全部違う。だって出張というのは戻ってくる前提の話で、でもさっき聞いたのは明らかに向こうに永住するみたいな話で。
混乱に混乱を極めていると、そっと入り口からザップが現れて、ニヤニヤとその人を心の底から馬鹿にしまくった笑顔のままこう告げた。
「よかったなぁレーオ、のやつ、出張は行かないみたいだぜぇ。やっぱりここにいないと変だもんなぁ?」
「だ、だっ、騙したなぁ!!!!」
昼下がり、ライブラの一室。大人達が全員聞き耳を立てていたと知るのは、もう少し後の話。
騙されていたことはこの上なく腹立だしいが、それでも彼女がまた笑って、おはようと挨拶してくれる日々に比べたら、採算が悪くない話になるのだろう。


いつもとなり

16/01/28