耳に、微かに足音が届く。
ガチャ、と扉が開く音が、やけに大きく聞こえるのは目を瞑っているからだろう。パタパタ、とスリッパ独特の足音が先程よりも大きく聞こえてきて、あぁ起きなくてはいけない時間なのかと思う。しかし瞼は重く、動こうとはしない。
カーテンが開く音と共に、朝日が部屋に射し込んでくる。眩しいことこの上ない。目を瞑っていても、眩しい。一体誰だ、と思うがその犯人は一人しか居ない。
抵抗の意味を込めて朝日を避ける為に、ごろりと背を向ける形で寝返りを打つとギシッとベッドが軋む音がする。いやいや、いくらなんでも少し方向を変えたくらいじゃこんな音はしないだろう。つまり、第三者、カーテンを開けた犯人の仕業に違いない。
「おはよう、。もう起きる時間だよ」
髪を撫でられると、不思議なものであんなに頑なだった瞼がするりと開いた。ベッドに腰かけている彼に視線だけ向けると、にっこりと爽やかな笑みを浮かべていた。
「…………おはよーございます、スティーブンさん」
「はいおはよう。君、今日も寝起き悪いね」
そんな事はない、とは返せなかった。何せこの部屋で朝を迎える度にそうなのだから言い訳のしようもない。
うー、と唸る事で返事とする。そうでなければ、瞼が下りてしまいそうだったのだ。彼の顔は見にくいがきっと呆れたような顔をしているに違いない。
仕方ないだろう、眠いものは眠い。というか起こしたいのであれば、先程から撫でている手を止めて欲しい。こちらとしても起きなくてはいけないなという気持ちはほんの少しでもあるというのに、その手つきがなんとも心地よく、夢の世界へと誘うのだ。
「いまなんじ…」
「出発予定時刻まであと1時間半ってとこかな」
「えぇ…」
だったら、最低でもあと10分は眠れる。欲を言えば15分、いや20分は寝れるだろう。シャワーは昨日済ませているから浴びなくても構わないし、朝食だってこの人のことだからどうせ完璧に支度を終えているに違いない。
「んー…あと10分……」
「わかった、あと5分ね」
なんということだ。
流石にみっともないかなと思い、一番短い時間を口にしたというのに返ってきたのはあまりにも無情な数字だった。ひどい。5分じゃ眠ったかどうかさえわからないではないか。
「このまま撫でておいてあげるから、あと5分間だけ、ゆっくりおやすみ」
ひどい、いつのまにか5分に断定されてしまっている。っていうか自分が撫でたいだけのくせに、なにが撫でておいてあげる、だ。
起き上がって色々反論したいことはあったが、撫でてくる手付きがあんまり優しくて、心地よくて。元々半分以上、夢の世界に足を突っ込んでいたのもあり、彼の手に誘われるようにして急速に眠りに落ちていった──勿論、きっかり5分後に起こされてしまったのだが。



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「君って、どうしてあんなに寝汚いんだい?」
「二度寝こそ、人類にとって至高の幸せです」
「もういい大人なんだし、しゃきっと起きようよ」
「それが出来たら苦労しませんよーだ」
家政婦であるヴェデッドはまだ出勤していないため、本日の朝食はスティーブンお手製だった。それを食べ終えた身分で偉そうにいうことでもないのだが、敢えて開き直ってみる。
睡魔を消し飛ばす朝食後のコーヒーも、勿論彼の手ずから淹れたものだった。美味しい、流石である。家主とはいえ甘えすぎているかなぁと思わないでもないが、あともう5分寝かせてもらえなかった恨みは深いのだ。そうでなければ、コーヒーくらい淹れてもよかった。
そんな可愛くない態度にも、彼は気分を害している風でもなく、やれやれと肩を竦めてみせた。ちくしょう、絵になるな。っていうかなんで朝っぱらから、こんな風にきちんとしたご飯を作って身支度を整えられるんだ。異常なのはそちらの方だと、口にしたくなったがどう考えても分が悪いので、敢えて心に留めておく。
「スティーブンさんは二度寝したいと思わないんですか?」
「なんだ?藪から棒に」
「だって、二度寝って気持ちいいじゃないですか!」
「気持ちはわからなくもないけどね、俺はもう何年もしてないからなぁ。そもそも君のは最早二度寝じゃないだろ、なんで朝飯食ってからも寝ようとするんだよ」
「だって、あと5分は寝れたんですよぉ」
「……本当に寝汚いな、君」
今度こそ、本当に呆れられてしまった。
いやでも、二度寝は気持ちいいのだから仕方ない。彼だって二度寝したことがあるのならわかると思うのだが、その表情を見るに同意は得られなさそうである。しかし、こちらだってめげてはいられない。
「今度久し振りに二度寝してみてください、絶対に気持ちいいから!」
「…って言われてもね、最近は一回目が覚めると中々寝付けないんだ、もう歳かな」
「じゃあ、スティーブンさんが寝付くまで、私が頭撫でてあげますから!」
「それ、君がされて嬉しいだけだろ?っていうか否定してくれ頼むから」
よくもまぁいけしゃあしゃあと。自分だって撫でたがってるくせに!と言いたかったが、違ったら違ったで恥ずかしいので言葉には出来なかった。実際、されて嬉しいのは事実なのだ。これが惚れた弱みというやつなのだろう。
やれやれ、と言いながらコーヒーを啜る彼は、ほんの少し落ち込んでいるように見えて可愛い。年齢の話を自分から持ち出したのはそちらだというのに、否定の言葉がなかったのがややショックだったらしい。そんなに気にしなくてもまだまだ若いだろうに、少なくとも自虐するような年齢ではない。
「じゃあ、今度の休みは二度寝させてあげますからね!」
「君が俺よりはやく起きれたらね、しかもしゃきっと、二度寝もせずに」
あ、結構難題かもしれない。
改めて言われてしまうと実現が難しいことに気付く。そう、彼に二度寝をさせるためには、彼よりはやく起きて、尚且つ誘導しなければいけないのだ。こちらが二度寝してしまっていたら、その誘導はまず不可能だろう。うーん、盲点。
黙り込んだのが面白かったのか、それとも何を考えているのかわかったのか、彼は本日一発目の爆笑を見せてくれた。前から思ってたけど、案外沸点低いですよね。



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そーっと、そーっと忍び足で歩く。なるべく物音を立てないように、だ。
扉を開けるときも慎重に、ゆっくりノブを捻り、これまたそーっと開けてまだ薄暗い部屋に足を忍ばせる。
ベッドの上には丸まったシーツ、に包まれた大きな身体。そしてそこからは健やかな寝息が聞こえてくる。うわぁ、本当にまだ寝てる。珍しいこともあるものだ。
「昨晩、というか早朝にご帰宅なされたみたいで、まだお休みなんですよ」
すっかり顔見知りになってしまった家政婦、ヴェデッドからの情報は確かだったようだ。どうやら昨晩はスポンサーとのお付き合いがあったらしい。夕方には事務所を後にした彼を見送ったので、それから早朝までか、と考えるだけで大変だ。一体どれだけ飲んだのだろう。
彼からキャンセルの連絡は入っていないので、本日デートの予定は立ち消えていないのだろう。そういう時は言ってくれればいいのに、この人は案外すぐに自分を犠牲にするのだ。
そーっと、それこそこの部屋に入る前以上に気をつけて、彼が丸まっているベッドに近付く。ベッドに腰掛けて起こすような真似はしない。傍まで辿り着くとそっと腰を下ろす。最新の注意を払って膝をつく。フローリングが少し冷たいがそんなのは無視だ。
ようやくスティーブンの寝顔が見れて、頬が弛んでしまうのを自分でも感じる。普段は考えが中々読めないその端正な顔が、今は無防備に睡眠を貪っている。そのあどけなさを感じる寝顔に胸が高鳴った事は彼には内緒にしておきたい。可愛いと思う、いとおしさすら感じる。これが母性本能なるものなのだろうか。爆笑してる時も大概子供っぽくて可愛いなと思うが、ここまで庇護欲は感じない。こちらの顔の弛みはとどまる事を知らない。
「んん…」
寝苦しいのか、寝返りを打つ彼。ものすごくレアだ、かなりの珍しさだ。やばい、なんか得しかなくて、今後が少し怖い。
「ん……?」
寝返りを打った拍子にこちらの気配に気付いたのか、瞼を震わせてうっすら目を開く彼。眉間に皺を寄せて視線を彷徨わせるその仕草は気だるげで、実に色っぽい。さっきまでかわいかったのに一気にかっこよくなったぞ、色男は恐ろしい。
「…あれ、きみ、なんで……?」
「おはようございます、スティーブンさん。もう少し寝てて良いですよ」
「……あぁ、うん」
平時と違い、ぼーっとしているスティーブン。本当に珍しい。どうやらまだ頭が回ってないらしく、言葉がいつもより拙く、それがまた可愛らしい。
あー、と普段より低く掠れ気味の唸り声がシーツから飛び込んできた。
「…そうか、約束、してたね……すまない、いま起きるから…」
おぉ、少しずつだが覚醒してきているようだ。睡眠時間が短いというのに、なんとも素晴らしい。自分に置き換えて考えてみるが、どうあがいてもこんなにはやく現状を把握して対応するというのは土台無理な話だ。
唸りながら、もそもそと起き上がろうとする様は流石としか言いようがない。これが仕事の日であればそのまま起こしてしまうのだが、今日は休みである。デートだって、わざわざ出かけなくたっていいのだ、たまには家でまったりするのも悪くない。何より普段働き詰めの彼なのだから、たまの休みはぐっすり身体を休めて欲しい。
「いやいや、昨日…っていうか今日帰って来たんですよね?寝てて下さい」
「でも、、」
「いいから、はい、おやすみなさい!」
押しきるようにそっと髪を撫でてみると観念したのか、それとも抵抗するのが面倒だったのか、ベッドにまた身体を沈めてくれた。ふぅと息を吐いてから、見た目以上に柔らかな髪の感触を楽しみつつ、優しく、それこそ彼がするように、眠りへと誘う。
暫くすると、また規則正しい寝息が聞こえてきた。先程同様に、少しあどけさなの残る表情が目に入り、余程疲れていたであろうことを知る。
「…おやすみなさい」
小さな小さな呟きは、彼の耳には届かなくて良い。健やかな寝顔に、また一層口許が弛んでしまうのを感じつつ、そっともう一度撫でて部屋を後にする。
リビングへ戻ると、ヴェデッドがお茶を淹れてくれていた。帰宅することも考えたが、起きた彼が自分の行いに自責の念を抱くやもしれない。
結局、彼が目覚めたのは日が暮れる頃だった。余程疲れていたのは見てとれたし、こちらとしてもヴェデッドと楽しく料理をしたり、会話に付き合って貰ったりしていたのでなんら問題はないのだが、流石そこは伊達男のスティーブンだ。自分の失態と本日の予定が狂ってしまったことに、後悔しかないらしい。
「ごめん」
と謝って来たので、そんなの気にしなくてもいいんですよ、なんていう素直な言葉をいう代わりに
「──二度寝、最高でしょ?」
などと意地の悪い言葉を返して、申し訳なさそうに背中を丸めている彼をぎゅっと優しく抱き締めてキスをする。
彼の目の下から隈がなくなるのであれば、デートくらいいくらでもキャンセルしたって構わない。驚いた彼の表情を見れるなんて、やっぱり二度寝は最高だ!

至高の眠り

15/05/26