ぽたぽた、と髪から滴が落ちる。時折吹く風がじわじわと冷たさを教えてくれるが、それよりぺたりと肌に張り付いた髪や服が気持ち悪くてたまらない。
しかし、いくらなんでもここまで見事に濡れ鼠になる事があるだろうか、いやない。世界はなんだって起こるというどこかで聞いた言葉が脳裏を過ったが、それにしたって少しひどいじゃないか。知らず知らず奥歯を噛み締めてしまう。どうしてこうなった。
端的に今の状況を説明すると、頭上からいきなり恐らく水であろう液体が降ってきた、である。流石に口に含む勇気はないので水であると断定は出来ないが、頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れということ以外、特別人体に影響はなさそうだ。
一体どれだけの量が降ってきたんだろうか、しかもピンポイントに、この位置のみに。不幸にも程がある、今日の運勢はそんなに悪かったのか。
上を見上げてみると、アパートの窓からバケツを持った子供が目に入る。どうやらその子の手によってこうなってしまったらしい。嬉しそうな顔を見るに、つまりこれは事故ではなく故意なのだろう。悪戯が成功した喜びのあまりか、ウィンクまで飛んでくる始末である。いやいや、それよりまず謝罪をしてくれ。
成功した悪戯に興味はないのか、子供はすぐさま窓際から去った。なんという逃げ足だ、流石にこの街に住んでいるだけはある、よくあんな大きさのバケツをひっくり返せたな。
犯人が逃げてしまったことによって、怒りの矛先をどこへ向けたらいいのやらわからず途方に暮れてしまう。隣に立っている男は、微塵も被害を受けていなかった。その上、人のあんまりな有り様に爆笑をしているのだからタチが悪い。殴りたい、よし殴ろう。
「っうお!危ねぇな何すんだよ!!」
渾身の力を込めて繰り出した拳は、呆気なく避けられてしまう。思わず舌打ちが出た。彼は、自分の態度を棚にあげて非難の言葉を寄越してくるが、そっくりそのまま返してやりたい。一応護衛の名目で付いてきている存在の癖に、この体たらくはなんだ。いや、この街にいる限り自分の身は自分で守らなくてはいけないということは重々わかってはいる、わかってはいるのだがこれは少し頂けない。要するに、八つ当たりだ。
「…ザップ、」
自分でも驚くくらい低い声が出た。視線だって鋭くなるのは仕方ないだろう。とにかく今現在の不快指数はマックスだ。
名を呼ばれたザップは、少し気圧されたように身を引いた。そんな自分を認めたくないのか喧嘩を売られたと思ったのかわからないが、警戒体勢のまま、んだよとあまり可愛くない態度が返ってくる。
現状、このままの格好で戻るのはまずい、というか寒い。真冬ではないにしろまだ風は冷たいし、流石に濡れ鼠のまま過ごしていたら風邪を引いてしまうだろう。
「上着貸して」
「はぁ?なんでだよ」
「この状況見てわかんないの?…良いから、はやく、今すぐに」
もう怒るのも面倒臭くて、顎でザップに上着をよこすように示した。彼は暫く、めんどくせーだの、俺の上着が濡れるじゃねーかだの、そもそもそこまで濡れてたら関係ねぇだろだの、色々と不平不満を訴えてはいたが、全てを視線で黙殺されてようやく諦めたようだ。
「クリーニング代請求すっからな!」
という可愛くもなければ男らしくもない、みみっちい言葉と共に上着が飛んでくる。誰が支払うか、と思ったが、まぁ昼飯くらいは奢ってやらなくもない。白い上着に袖を通しつつ、そんなことを思った。
「ザップ」
「んだよ、礼するくらいなら金出せよ」
「……煙草くさい、これ」
「文句言うなら返せこの野郎!!!」


:::


「ただいま戻りましたー」
「ちーっす」
事務所へ戻ると、濡れ鼠が帰ってきたことに待機しているメンバーは皆一様に開いた口が塞がらないようだった。そんなにひどいか、ひどいだろうなぁ。一応戻る前に絞れるところは絞ってみたが、それでもぽたりと滴がたまに落ちる。ハンカチくらい常備しておけばよかった。
「っちょっとこれどうしたの!こーんな濡れちゃってやだもう…──ザップっち!?」
一番最初に駆け寄ってくれたのはK・Kだ。心配そうに顔を覗き込んだと思ったら、次の瞬間にはザップの胸ぐらを掴んでいた。ナイスだ、もっとやって欲しい。
「俺なんもしてないっすよぉ!」
「なんもしてない訳ないじゃない!ってゆーかなんもしてないのが一番問題でしょう!?」
ザップっちはの護衛なんだから!と掴んだ胸ぐらをそのままに、ぐらぐらと揺らしてくるK・Kにザップは言葉も出ない。母は強しである。ええぇ、という情けない声をあげているザップを横目に思わず鼻で笑ってしまう、ざまぁみろ。
「はっ、そうだわこんなことしてる場合じゃなかった、ほら、取り敢えず座ってちょっと待ってなさい。あったかいお茶用意してあげるから!」
それまで揺すっていたザップをぱっと捨て置くと、次はこちらの番だった。ぐいと手を引かれたかと思えばソファーに座らされ、何かいう間もなく部屋を後にしてしまった。相変わらず嵐のようだ、でも彼女の気遣いはとても有難くて少しくすぐったい。
「はぁぁあ」
先程まで捕まっていた彼は、解放されたことに安堵したようだった。普段は生意気で人間としてどうなんだと思うような外道を平気でする彼も、二児の母親であるK・Kには形無しである。
さん大丈夫ですか?これ、よかったら使ってください」
「レオくん、ありがとう」
流石レオナルドは気が利く男だ。どこかのチンピラとは訳が違う。気遣いの言葉と共に差し出されたタオルを受け取ってわしゃわしゃと髪や顔を拭く。せっかくセットしたのに、とか、メイクが落ちる、とかそういう意識はずぶ濡れになった時にどこかへ消えてしまっていた。
「ザップさん、アンタほんと何したんすか」
「だからなんもしてねーって!」
「ほんとかなぁ…」
「てめぇ…!」
信用されていないにも程がある。流石に少し同情してしまうが、普段の行いを考えれば致し方ないだろう。そもそもザップの行動による最大の被害者はレオナルドなのだから、当然の対応だ。
しかし、会合に出ているクラウスとギルベルト、そして本日は休みのチェインとツェッドがこの場にいなくてよかった、と心底思う。心優しい四人のことだ、きっとものすごく心配を掛けるだろう。チェインに至っては原因の子供を探して仕返ししてくれそうでもあるが、そもそも避けられなかった自分が悪いのだから仕方ない。
「で、結局どういう経緯なのかな」
机上から視線をようやくこちらへ向けたスティーブンの言葉に、ザップはぴたりと動きを止めた。何やら機嫌が悪そうに見えるがどうしたのだろう、確か出掛ける前は別段いつもと変わらなかったと思うのだが。
ばつが悪そうなザップに視線で促され、あまり気は進まないもののここまで大騒ぎになってしまったら説明する他ないだろう。話し始めるようとしたところに暖かいお茶とK・Kが戻って来てしまい、恥ずかしながらこの場にいる全員に事の発端から子細に至るまでを報告することとなってしまった。
「…と、いう次第であります」
「な!俺悪くねぇだろ!!な!!!」
ザップは鬼の首を取ったかのように、意気揚々と自分の潔白を宣言した。確かに悪くはないがよくもないことは、聞いていた面々の沈黙から察して欲しい。
「でもほんと、災難だったわねぇ。そういえば着替え、あるの?」
「まさか」
持っている訳がない。そもそも濡れる予定もなければ、泊まり込みの予定もなかったのだから当たり前だ。このまま帰宅時間まで待つか、ツェッドが出稼ぎから戻って来るのを待ち、その力で乾かして貰うか。どちらにせよ、現状しばらくこのままだろう。
「アタシが買ってきてあげよっか、そのまんまじゃ気持ち悪いでしょ?」
「ええ…う、うーん」
確かに気持ち悪い。ぐっしょり濡れているだけあって短時間では乾きそうにないし、ツェッドだっていつ戻るかさっぱりわからないのだ。迷惑をかけてはいけないという気持ちとそうして貰えると非常に助かるという気持ちのどちらもあって、即答できずに唸っているとK・Kがよしっと言うがはやいが立ち上がる。
「じゃ買ってくるわね!」
待って、まだ何も言ってないという言葉は、颯爽とヒールの音を鳴らしながら事務所を出る彼女の耳には届かなかったようだ。
出しかけた手の引っ込めどころがわからないでいると、レオナルドが補足してくれる。
「なんかさっき、さんに似合いそうな服見つけたそうですよ。だから、K・Kさん多分それ買いに行ったんじゃないっすかね」
「お、おぉ…」
なるほど。あんまり高くないといいなぁと思いながらも、着替えの当てが出来たのはやはり有難い。よかったですね、と笑うレオナルドに頷いていると、それまで針のムシロ状態だったザップも勢いよく立ち上がる。
「よっしゃ!そんじゃレオ、俺達も行くぞ」
「へ?行くってどこへ?」
「飯だよ飯!俺ぁ昼飯抜いてっから腹ペコなんだ、付き合え陰毛」
「陰毛言うな!一人で行けばいいじゃないですか、僕もう食べたし」
「てめぇが居ねぇと俺の飯代誰が払うんだよ」
「知らねぇよっていうかなんで僕がザップさんの昼飯代払わないといけないんですか!」
「つべこべうっせえなー良いから行くぞ」
「いやだあああ」
実に鮮やかなたかり具合だった。最終的に、レオナルドの首根っこを掴んでいく姿には慣れを感じる。最早日常と化しているのであろう、あんまりにも可哀想なので今度レオナルドにはご飯を奢ってやりたいとさえ思う。
よく喋る面々が居なくなり、事務所にはようやく静寂が訪れる。スティーブンと二人きりというのは、本来であれば少し心が躍る展開なのだが、どうやら彼の機嫌はあまり良くないらしい。先程から黙りこくって、一体何を考えているのかさっぱりわからない。出掛けている間に何かあったのだろうか、見当もつかない。
「──、」
「な、なんでしょう?」
「…ちょっと立って貰えるかな」
イエス以外の言葉は許して貰えないようだった。すぐさま立ち上がると、彼はふっと笑って張り詰めた空気はそのままに、じわじわ距離が詰めてくる。すこし、こわい。
目の前まで来ると、すっと襟元に手を伸ばされて、思わず息を飲む。するり、と上着を脱がす手つきは手慣れ過ぎていて、いっそ隙がない。濡れた服が外気に触れることで、ひんやりとした感覚が蘇ってきた。
まるで拘束されているようにその場から全く動けずにいるこちらを余所に、彼の動きはスムーズで。白い上着はそっとソファに投げ捨てられて、その長い指が次に向かうのは己のジャケットの釦だった。それを外すや否や、ばさっとジャケットを脱ぐ様は悔しいほどにかっこよくて、少し心が跳ねてしまうのは仕方がないだろう。事務所ではほとんど見ることがないシャツ姿に、どこか彼の家での行為を思い出してジリジリ焦がれているような妙な気持ちになる。じっと、見つめられてしまうとますます動けなくなり、どうしたらいいのかわからないくなって思わず目を伏せてしまう。あぁもう本当にずるい人だ。
ふわり、彼の香り鼻をくすぐったと思ったら、ふと肩にぬくもりを感じて、耳元に唇を寄せられる。
「──こっち、着てて」
そう囁かれて、弾かれたように視線を戻すと、ほんの少し拗ねたような表情の彼が目に入る。肩に乗ったぬくもりの正体は今さっきまで彼が袖を通していたジャケットだった。これは、もしや、そういうことでいいのだろうか。ちらりと視線で促されて、慌ててジャケットに袖を通す。
「…どうでしょう?」
尋ねると、うんと小さな頷きが返ってきた。張り詰めていた空気も和らいだ気がする。そうか、そうなのか、そういうことなのか。不貞腐れたような彼は、ぼすっとソファに身体を沈める。
なんか、だんだん可愛く見えて来たぞ。察するに彼は、つまりザップに嫉妬をしていたらしい。要は他の男の上着を借りていたことが気に入らなかったとそういうことだ。なんと下らない。下らないけど、ついうっかり、口元が弛んできてしまう。
「君、何ニヤニヤしてるんだい」
「えへへ」
「…全く」
溜息を吐かれたって、今はくじけない。いつだって余裕があって、こちらの様子を楽しんでいる節があるスティーブンが、こんな風に嫉妬してくれたことが素直に嬉しい。嫉妬なんてしないのかと思っていたくらいだ。
不意に電子音がして、それまでだらしない姿だったスティーブンは一気に姿勢を正し、ポケットから電話を取り出す。こういうところを見ると、やはり大人だと思う。
「ウィ、スティーブン。……なんだ少年、どうかしたか?──え?」
ちらり、視線が飛んでくる。なんだろう、どうやら電話の相手はレオナルドのようだ。
「あぁ、うん、わかった。伝えておく──あぁ、それじゃあ」
「どうしたんですか?」
電話を切ったことを確認してから声を掛けると、くしゃりと髪を撫でられる。
「レオから。君を濡れ鼠にした犯人を捕まえたってさ」
「へ?」
「ザップと飯を食いに行く途中に、たまたまさっきと同じ路地を通ったらまた同じように仕掛けてきたらしい。で、ザップが捕まえて迷惑料とクリーニング代を親からふんだくった、と」
「おぉ…」
流石ザップだ、子供のやったこととはいえ一切の遠慮はないようだ。あの子も可哀想に、と思うが因果応報である。今後はこの経験を生かしてもっと可愛い悪戯にシフトチェンジして貰いたいものである。
「──…奴も奴で、それなりに気にしてたんだろうなぁ」
「なにがです?」
「いや別に」
そんな会話をしている内にK・Kが戻って来て、ようやく湿って気持ち悪い服から解放をされた。せっかく借りたジャケットを返すのは少し惜しかったが、仕方がないだろう。
K・Kが買ってきてくれた洋服はスティーブンのお気に召したようで、今夜の食事は高級レストランのディナーへと変わった。食事のあと、嫉妬した彼がいかにしつこさを嫌と言うほど実感するのはまだ先の話である。

子供じみた独占

15/05/28