らしくない、と自分で思う。足がふらつくのは、お酒だけのせいではない。よろける身体をそっと支えてくれる彼がいるからだ。緊張で気が変になりそうだった。
「飲み過ぎ?」
からかうように言葉をかけてくるスティーブンの腹に拳をひとつ。避けるでもなく受けた彼は、いててと笑った。そんなに強く殴ってない。わかってるくせに、本当にずるい人だ。
「さ、着いたよ。入って」
簡単にいう彼にもう一度拳を入れたい気持ちになったが、扉を開けられてしまってはもう足を進める他はない。一歩、踏み込むと彼の匂いが鼻を擽る。扉を閉めると同時に身体を引き寄せられて、額に唇を落とされる。驚きに目を見開くこちらを見て、何が楽しいのかニヤニヤ笑った彼は、ぱっと身体を離してずんずん部屋に入っていく。
「何か飲む?」
「う、うん」
「じゃあ、適当に座ってて」
適当にと言われても。ガチガチの身体をなんとか動かし、広々とした部屋のなかにある大きなソファーに腰を下ろす。
なんでこんなに広いんだ、そしてなんでこんなに綺麗なんだ。自分の知っているだけでも彼のスケジュールは過密なのに、一体どこに部屋の掃除なんていうものが組み込めるんだと、質問が次々沸き上がってくる。自分の部屋より倍以上広い部屋に、緊張は増すばかりだ。
「なんでそんな端に座ってるの」
「端っこが落ち着くの!」
「なんだいそれ」
笑う彼は、憎らしいくらい上機嫌だ。はい、と手渡された水をすぐさま飲んでいると、隣に彼が腰かけてくるから緊張は止まりそうもなかった。
「…緊張してる?」
見ればわかるだろう、意地が悪い人だな。
頷くと、彼はまた一段と嬉しそうに目を細めた。人が緊張してるのを喜ぶのはどうかと思う。そりゃあ、今までそれなりに恋愛をしてきたこともあるが、何せこういうのは久し振りなのだ。その上、初めて彼の家に足を踏み入れたのだから、緊張もするだろう。 先程から心臓がドキドキと、物凄くうるさい。
「俺も、結構緊張してるよ」
「絶対うそ」
「いやいや、本当だって」
「緊張してる人は、そんな顔しないと思います」
「そんな顔って、どんな顔?」
ぐい、と顔を近付けられてはたまらない。逃げようと腰を浮かせるも、ソファーの端に座ってしまった為に身を引く場所がない。立ち上がろうにも、彼の手が肘おきに置かれてしまって、もうどうにも逃げようがない。
「…嬉しそうな顔、してます」
「そう?君は恥ずかしそうだ」
そりゃあね!貴方みたいな色男がね!顔近付けて来たらね!!と声高にいってやりたかったが、無理だった。思っていた以上に近くにある端正な顔に思わず視線を逸らす。近い。近すぎる。
くすり、と笑い声が聞こえてくる。ちくしょう、やっぱり手慣れていやがる。
「らしくない」
「う、うるさいなぁ」
「いや、君じゃない。緊張してるのは可愛いと思うけど」
らしくないのは、俺の方だよ。なんて、息を吸うように甘い言葉が返ってきて、頬が熱くなるのを感じる。なんだかもう、先程から翻弄されっぱなしだ。それよりこのままの体勢で会話を続けるのはやめて欲しい。全然集中出来ないじゃないか。
ちらり、と視線を向ける。あぁ、と頷いた彼は自分の手からコップを奪ったかと思ったら、それを机に置いてしまう。勿論身体の近さは変わらなかった。違う、そうじゃない。空いた手には、代わりに彼の長い指が絡み付いてくる。意外と無骨な指で、またドキリと胸が高鳴る。このままだと、心臓が動きすぎて朝までに死んでしまうのではないだろうか。そんな、馬鹿な事を考えていると、こつんと額を合わせられる。
「──考え事?」
一体どこから声だしてるんだって聞きたいくらい、甘い声。
「こういう場面で、あんまり感心しないな」
少し、拗ねたような顔。でもやっぱりどこまでも甘い。
鼻が触れ合ったと思ったら、そっと口付けられる。触れるだけのそれは、とても優しい。絡み付く指をぎゅっと握りしめると、ふっと柔らかい表情になる。
「…あー、うん」
「どうか、しました?」
「いや、ごめん、ちょっと浮かれてる」
はにかむような表情が、可愛い。これが、彼のいつもの手段なのだろうか、だったら落ちない女性はいないだろう。こんな場面でそんな可愛さを見せてくるなんて、ずるいにも程がある。
あんまりにもいとおしくなって今度はこちらから唇を触れあわせると、彼は一瞬驚いたようだったがすぐに口付けに応じた。触れあうだけのキスは物足りないのか、上唇を舐められる。どうやら口を開けろということらしい、躊躇いがちに薄く開くと待ってましたといわんばかりに舌を捩じ込まれた。あとはもう、彼のなすがまま。
手慣れている彼にすっかり翻弄されてしまって、唇を離す頃はもう息も絶え絶えだった。唾液で濡れた唇を、指で拭われる。彼がすると、なんたがひどくいやらしい仕草に感じた。
「はは、顔真っ赤」
「うるさ、い!」
「おっと。怖い怖い」
拳を振り上げると、その手をいとも簡単に受け止められた挙げ句、わざとらしい声が返ってくる。馬鹿にされている、腹正しい。どうにもこういう色っぽいものに関しては、彼に分があるようだ。
「可愛いよ、って言ってるんだけどなぁ」
ちくしょう。そんな風にいわれてしまったら、恥ずかしさと嬉しさとその他の諸々でなにもいえなくなってしまう。なんてずるい人なんだろう。
「スティーブンさんの方が、可愛いですよ」
「えぇ?」
「浮かれてくれてるんですよね?今」
「…うん、すごく浮かれてる」
いつもの、余裕たっぷりの笑顔も勿論素敵だか、今の嬉しそうな、楽しそうな、幸せそうな笑顔の彼は、もうこれ以上ないってくらい素敵で、愛しくてたまらない。
握られた手をするりと解いて、そっと背中に手を回す。覆い被さるようにしてソファーと彼の腕の中に閉じ込められている腰を浮かして、ぎゅっと抱き締めると彼の大きな身体は一度びくりと揺れる。それが面白くて、嬉しくて、にんまりと笑みを浮かべてやる。こちらだって、浮かれてるのは同じなのだ。
「可愛いですね?」
「…それは、こっちの台詞」
あ、ちょっと調子乗りすぎたかもしれない。やばい、と思った時には既に遅く。肩を掴まれたかと思えば、先程よりも性急に唇を奪われる。逃げようにも、後頭部を抑えられてしまっては、もうどうしようもない。今までのはほんのお遊びだと言わんばかりに、口内を貪られる。
逃げるように舌を引っ込めれば、上顎を擽られてしまう。仕方なしに応じれば、もう後はなし崩しで。ようやく解放された時には、先程なんて比べ物にならないくらいに腰砕けだ。
「ん…可愛い、ね──」
おまけの吐息つきで、そんな甘い言葉を囁かれてしまった。結構負けず嫌いだな、とか。何回可愛いっていえば気がすむんだ、とか。色々いいたいことはあったが、焦れたようにそっとネクタイを緩める姿を見てしまったら、こちらが焦れてしまった。
「…スティーブンさん、ベッドにいきたい」
そんな、決して純粋じゃない誘いにも彼は満足げに笑う。
「──仰せのままに」
あとは、もう、それこそ彼のなすがままだ。


:::


「…うぁ、」
目が覚めると、ものすごい倦怠感に苛まれる。カーテンの隙間から朝日が入ってきて、少し眩しい。起き上がろうと身を捩ると、ぎゅっと大きな腕に押し戻される。
「……おはよう、身体は平気?」
朝だからか、少し掠れた声。いつもよりハスキーなのに、甘さだけはたっぷりだ。眠たげな顔をしているくせに、額に口付けを落とすのは忘れない。
質問に、昨夜のことを思い出して赤くなるのは仕方ないだろう。そういうこと、真っ先に聞いてくるのはどうなのだろうか。にこにこと、楽しそうに笑っている彼を見るに、どうやらからかい半分のようだ。憎たらしい。
「おかげさまで」
返した言葉は強気だが、喉がすっかりカラカラで弱々しい声しか出なかった。ぷっと噴き出す彼が憎らしいことこの上ない、誰のせいだと思ってるんだこの野郎。
「今日はどうしようか、もう少し寝てる?」
「もう、なんでもいいです」
「え?朝からシたい?大胆だなぁ」
鳩尾を、思い切り、そりゃあもう渾身の力を込めて殴った。げほげほ、と噎せる姿にほんの少しの罪悪感は生まれるが、自業自得である。
「ひどいよ、夕べはあんなに甘えてきて可愛かったのに」
「もう一回殴られたいんですか」
「軽いジョークさ、ジョーク」
あ、可愛かったのは本当だけど。付け足さなくていいのにわざわざ付け足されて、朝から真っ赤になってしまう。くすくすと楽しそうに笑う姿はやっぱり可愛くて、でも恥ずかしくて、彼の胸に顔を埋めて誤魔化す。胸元に飛び込んできたのが嬉しいのか、ぎゅうっと抱き締められる腕の力が強くなった気がする。素肌で抱き合うなんて、少し気恥ずかしいが肌の質感が心地よい。
幸せだ、こんな風になるなんて夢にも思わなかった。彼は、決して人を踏み込ませないと思っていたのだ。特別を作らない、と。
「…俺は、」
彼の声に、顔をあげようとすると更に腕の力が強まる。どうやら、このまま聞けということらしい。仕方なく、大人しく腕のなかに収まっておくことにした。どくん、どくんと、左胸から鼓動が聞こえる。
「多分、これから君を沢山苦しめると思うんだよな」
今までも結構苦しめられていたので、大丈夫だと思う。
「寂しい気持ちもさせると思うし、何より命の危険もあるかもしれない」
それは初耳だ。ただならぬ職種なのだろうなと思っていたが、まさかヤクザとかマフィアとかそういう類いなのだろうか。だからといって、関係ないが。
「──でも、もう逃がしてあげられない」
髪に、ぬくもり。多分、彼の唇だと思う。きざったらしいなぁと思うが、同時にたまらなく好きだと思う。
「…私だって、逃がしてあげませんよ」
そういって、抱き締め返す。こちらだって、もう離す気はない。そもそも、どうでもいいのだ。職業とか、立場とか、これからとか。
もぞもぞと頭を動かして、顔をあげると呆気に取られたような少し間抜けな彼が見えた。おぉ、レアな顔。
「欲しがってるのは、貴方だけじゃないです。私も、ずっと欲しかった、手にいれたかった」
どうも彼は、こちらの気持ちがわかっていないようだ。きちんと伝えなければ、わかってもらえないらしい。
自分はもうそこそこ歳を重ねているし、世の中そんなに甘くないことも知っている。確かに昨日は彼に大分翻弄されたし、流されるようにしてこういう朝を迎えたかもしれない。しかし、単純にほだされて流された訳ではない。そんなに可愛い女じゃない。
「──今更もう、手放してなんてあげません」
覚悟するのはそちらの方だと、丁寧に釘を指す。命の危機?上等だ、そんなのが怖くてヘルサレムズ・ロットに住んでいられるか。こちとら伊達に一人暮らしだってしていない。仕事の都合で異界側へ赴き、取って食われそうな危機にもあったくらいだ。出来ればそれは二度とごめんだけど。
「…まいったなぁ」
くしゃりと顔を歪めた彼がそう呟いた。今にも泣き出しそうな、でも嬉しそうな、そんな表情だった。
「ますます、君に惚れそうだ」
「そりゃどうも、私はこれ以上ないくらい大好きですよ」
「──じゃあ、もっと好きになって」
その言葉を皮切りに、優しい口付けが降ってくる。応えてしまえば、朝の清々しさは一気にどこかへ飛んでく。
「…、」
情欲に塗れた声で名を囁かれて、またベッドの上で乱される。昨夜よりゆっくりと、愛を確かめ合うような行為は、ひどく甘い。でもその甘さに溺れるのも悪くない。
結局、次に目が覚めたのは昼もとうに過ぎた夕方で。遊びに行こうと誘ったのはそちらのくせに、全然ベッドから離して貰えず、起きた頃にはもう身体の倦怠感はひどいものだった。
「いやぁ、俺もまだまだ若いね」
けらけらと笑う背中を足蹴にしたのは、いうまでもない。だか、余すことなく愛して、愛されて。そんな休日も、悪くない。寧ろ──
「…しあわせだなぁ」
普段より数段低く掠れた声で、小さく小さく呟く。そしてまた、優しいキスに埋もれた。

欲しがりは、どちらだ

15/06/01