その日は、まるで運がなかった。
一生懸命作っていた結構な量の書類の束は、ヘルサレムズ・ロットではよくあるドンパチの影響で壊された窓から吹っ飛んだ。その時、自分がどんな顔をしていたのかわからない。あと数枚、日付とサインを入れれば自分の手から離れて上司に丸投げ出来る書類だったのである。救いだったのは機密情報が入っている書類ではなかったことだろう。最悪だ、呟くや否やヒールを鳴らして職場を飛び出してひたすら駆けずり回る。高い所から低いところ、大通りから路地裏に至るまで。異界の優しい人(と形容しておく)が拾ってくれたかと思えば、人界の全然優しくないチンピラに拾われた挙げ句金銭と代わりに返してやると言われたり(勿論丁重にお断りしたのち、隙をついて奪って逃げた)そこそこ苦労をしてから職場へ戻ると、今度はコンピュータートラブルが待っていたのだから困りものだ。
「…厄日?」
思わず呟いたら、隣の席の上司は笑った。笑ってんじゃねぇ、思わず喧嘩を売りそうになったがそこは大人としてぐっと堪える。すぐさまサポート会社に電話で助けを求めると、本日トラブルが多くて向かうのが遅くなる、という無情な言葉が返ってきた。
「……厄日だ」
今度は上司も笑わなかった。直るまで仕事にならないが、今日中に終えなくてはいけない作業ばかりだった。つまり、今夜は職場に缶詰めと、そういうことだろうか。救いを求めて上司を見ると、彼も彼で頭を抱えていた。
「夜食でも、買いにいきます…?」
時刻は夕暮れ、もう少しで定時だった。こちらの提案に、頭を抱えた上司は小さく頷いた。
とぼとぼと、戻ってきたばかりの職場を後にしながら、そっと約束をしていた彼にキャンセルのメールを送る。今夜は、せっかく彼からの誘いがあったのに。落胆が深まって、思わず溜息が漏れる。
世界を守るために奮闘している恋人とは、中々二人でゆっくりと時間を過ごすことが難しい。彼がせっかく時間を作ってくれたというのに、こちらのどうしようもない事情でその誘いを断るのは心苦しいにも程がある。何より、ここ1ヶ月、まともに会えていないのだ。会いたい、と素直に思う。それくらいの可愛いげはあった。
せめてあの時、書類さえ吹っ飛ばなければ。自分はすぐさまコンピューター作業に移り、きっと今頃悠々自適に定時まで過ごせていたというのに。今考えても栓なきこととはわかっているが、そう思わずにはいられなかった。その愚かな考えを打ち消すように、振動した携帯が彼からの返事を知らせる。
──了解、仕事頑張って。
味気のない言葉だ。でも、今の自分にはこれ以上ないくらいの言葉だった。
「…がんばる」
ぽつり、呟いた言葉は同じくとぼとぼ歩いている上司には聞こえていないようだ。会えないのは寂しい、これ以上ないくらい残念だ。しかし、彼からのエールに応えない訳にはいかない。
急上昇とまではいかないが、鬱々としていた気持ちがほんの少し晴れる。頑張ってはやく終わらせよう、そして電話でもなんでも良いから、彼に連絡をつけるのだ。もしも都合がよかったら、こちらから会いに行こうと心に決めた。
我ながら単純だ、小さな笑いが漏れるのは仕方ない。たった一言、しかもただのメールだ。でもその言葉でやる気になるのだから、本当に彼の存在は偉大である。



:::



「お先に失礼しまーす…」
夜も更け、ネオンライトがきらめく時分にようやく職場から解放された。結局、あの後数時間して到着したサポート会社によって復旧するまで、足留めをくらっていたのだ。
それでも自分はまだ良い、まだまだ仕事が山積みな上司は、画面から目も離さずに帰る部下に声をかけていた。鬼気迫る勢いだ、そんな上司を置いて先に帰るのは少し心苦しいが、いてもやれることなどない。休み明けには何か差し入れをしてやろうと、強く思う。
会社を出てすぐに携帯を取り出したが、時間を見てそっとしまい直した。流石にこの時間に誘いを掛けるのは失礼だろう、まだ眠ってはいないだろうが、一度躊躇ってしまったらもう連絡をとる気が起きない。
声だけでも聞きたい、と思う。あの優しくて甘い声が聞きたい。今日の仕事は最悪だったと愚痴を溢してから、会いたかったと甘えたい。きっと彼は、そんな甘えも全部包んでぐずぐずに溶かすような優しさで抱き締めてくれるだろう。それこそまるで、甘い甘いシロップのように。でも、だからこそ、そんな彼に付け入るようなことはしたくなかった。
大人な彼を、こんな子供じみた我儘で振り回したくない。元々見た目も何もかも不釣り合いなのだから、せめて中身だけでも大人な彼に合わせたい──と、いうのは言い訳で。
甘えて甘えて、それこそ彼なしで生きていけなくなるくらいに、ずぶずぶと甘えるなんて。そんな、まるで自分が自分でなくなってしまうような生き方は、怖かった。だって、もし、彼が心変わりしてしまったら?みっともなく彼の身体にすがりついて、捨てないでと泣くのか。そんなのは、依存だ。そんな醜態はなけなしのプライドが許さない、まっぴらごめんだ。
ふぅ、と一息ついてから、肩にかけた鞄をしょい直して歩き慣れた道を進む。会えないのは残念だが、こうなってしまったものは仕方ない、過去を振り返るより今後のことを考えよう。
帰ったらゆっくり、謝罪と予定を伺うメールでも送ろうか。それくらいは、恋人となった今ならば許してもらえるだろう。誰の許可もいる話ではないのだが。
ふと、視線をあげると見覚えのある車が目に入る。あぁ、以前彼に乗せてもらった奴と同じものだ。そんなに珍しい車種でもないからたまに見かけるのだが、まさか今日このタイミングでなくてもいいではないか。会いたい気持ちが更に強くなってしまう、ちくしょう。
やっぱり、帰ったら電話くらい掛けても良いだろうか。あまり長々するつもりはない、声を聞いておやすみの挨拶をするくらいなら。我ながら意思が弱い、でもやっぱり会いたかったのだから仕方ない。そんな小さな欲望に、ぐらついている時。
「…あ、やっと来た」
「──え?」
聞き覚えのある甘い声が、遅かったね、なんて二の句を次いでいる。驚いて、思わず立ち止まる。まさか、嘘だ、だっているはずがない。
ぐるり、振り返るといつものスーツに、少し拗ねたような愛しい彼。
「やぁ、お疲れ。待ちくたびれたよ」
会いたいと、切望していた恋人が缶コーヒー片手に立っていた。
「随分かかったなぁ、やっぱりディナーはキャンセルして正解か」
あそこ、美味しいんだけど店が閉まるのはやいんだよなぁ。なんてのんきに時計を見ながら声を掛けてくるのは、どこからどうみても彼で。ゆっくりと、その長い足を使ってこちらへ近付いてくるではないか。
嘘だ、幻だ、これはきっと疲労からくる白昼夢という奴だ──あ、でも今は夜だから白昼夢とはいわないのかも、なんてそんなことはどうでもいい。
「どうしたの、そんな呆けた顔して」
そんなに疲れた?と、いつの間にか傍に来ていた彼が微笑みながら、頬をするりと撫でてくる。その少しひんやりとした指先に、ようやくこれが現実であると身体中が反応して。
会いに来てくれたんだ、嬉しい、と頭では理解をしていたのだが、
「…なんでいるの?!」
真っ先に出た言葉がこれだから、味気なくて申し訳ない。
こんな可愛いげのない態度だ、怒られても文句をいえない。しかし、彼は一瞬目を丸くしてから、けらけらと笑った。
「随分なご挨拶だなぁ、恋人に会いに来るのに理由がいるのかい?」
「だって、なんで、ここ!」
「うん、前ちらっとこの辺だって聞いてたから、仕事も丁度片付いてたし、ちょっと待ってみようかなって」
「なん、で」
そんな、いつ来るともわからないのに。
職場の場所を詳しく教えた覚えはない。送り迎えはいつだって断っていた。同僚や上司、はたまた数少ない後輩に彼を見られてからかわれるのはごめんだった、というのは建前で。本音は、彼をあまり見せびらかすような真似はしたくなかった、という実にシンプルな理由だ。
彼は、なんでと繰り返すだけの実に間抜けな質問に、ふっと笑って。
「なんでって──会いたかっただけだよ」
ただそれだけ。と続けた彼に、もう質問はいらない。ここが職場の近くだとか、甘えたくないとか、依存とか、プライドとか、そんな下らない言い訳を全部かなぐり捨てて。手を伸ばして、その身体に抱き着いた。色気もない、突進のようなハグだ。しかし彼はよろけることもなく、いとも簡単に抱き留める。ふわり、鼻腔を擽る匂いが心地よい。背に回された腕は指先と違って暖かい。あぁもう、本当に敵わない。
「今日、仕事が多くて」
「うん」
「なんか書類飛ぶし、コンピュータートラブルだって起きるし」
「うん、それで?」
「ほんとは、定時であがったらすぐおうち帰ってシャワー浴びて、こないだ買ったばっかりのワンピース着たかった」
「俺も見たかったな、新しいワンピース」
「でも行けなくて、仕事だから仕方ないって、我慢、した」
「君は偉いな、俺は我慢出来なかったよ」
「──ほんとに、ずっとずっと、会いたかったの」
俺もだよ、と耳元で囁かれると堪らなくなって、強く強く彼の身体を抱き締める。
擦り寄るように身体をくねらせて、うなじの辺りを擽るように指先を忍ばせて。仕事用に選んだ歩きやすいパンプスの爪先に、目一杯体重をかけて背伸びをする。そして、ねだるように顔を近付けると、心得たとばかりに彼は上背を丸めてくれる。
重ね合わせるというよりは、触れ合わせるといったようなキス。子供だましの可愛いキスだ。一度、二度、三度。お互いの存在を確認するようなそれを、何度も何度も繰り返す。
薄く目を開くと、彼と視線が絡み合う。鼻をつん、と重ね合わると、不意にその瞳に情欲の色が見え隠れした。
、」
「…っ、ん」
名を呼ばれたかと思ったら、再度唇が触れ合って。背に回された指先が、いつの間にか項をつうとなぞるものだから、思わず鼻にかかったような甘い声が漏れる。
じろり、と睨み付けると、彼はにっこり笑った。その顔の隙のないこと。そんな風に駆け引き染みた誘い方をしなくとも、こちらだってそのつもりなのだから安心してほしい。
「──帰ろうか」
どこに、とは聞かずに頷いた。行き先は決まっている、通い慣れた彼の家だ。
するりと腕を解かれてしまい、少し寂しいがあげた踵を下ろして彼の首に回した手を下ろす。少し、爪先がじんじんとする。そんなに長くキスをしていた自覚はなかったのだが、どうやら思っていたより没頭していたようだ。
「お、っと」
「…ありがとうございます」
ぐらり、思わずよろけた身体を彼はすぐさま支えてくれる。なんというか、本当に完璧だな。
「いやいや、そんなによかった?」
「そりゃもう、くらくらですよ」
からかうような意地悪に、刺々しい言葉を返すと彼は声をあげて笑う。
「君のそういうところ、好きだなぁ」
「私はスティーブンさんのそういうところ、ちょっと嫌いです」
「つれないな」
皮肉じみた可愛くない言葉にも、彼は気分を害すことがない。その上、ふらついた身体に気を配りながら、さりげなく車へエスコートするのだからすごい。なんというか、手慣れている。一体何人の女性と連れ添ったら、ここまでスムーズに行えるのだろう。妬かないといったら嘘にはなるが、あんまりにも自然過ぎて感心してしまう。
「ところで、」
「はい?」
「君、なんで仕事終わってすぐ連絡くれないの。たまたまあのタイミングで戻ってこれたからよかったけど、下手したらすれ違いだよ」
そういえば、彼は車から出てきたのではなく、後ろから声をかけてきたんだっけ。どうやら待ちくたびれて、喉を潤そうとしていたらしい。手軽ですぐに帰る缶コーヒーを選ぶ辺り、本当に待っていてくれたんだなぁと嬉しくなる。
質問の続きを待っている彼は、少し不貞腐れたようで可愛い。思わず笑うと、益々不穏な空気になるから慌てて口を開く。
「だって、迷惑かなって」
「迷惑?」
「夜遅いし、せっかくの誘いもキャンセルしちゃったし、それにスティーブンさんも忙しいし」
「…はぁぁあ」
深々と溜息を吐かれてしまった。なんでだ。
「……君、そろそろ自覚してくれてもいいんじゃないかな」
「なにを」
「俺が、わざわざこんな所で、いつ来るともわからない君を、一人で待っていたんだぞ?」
「お待たせして、すみません」
「違うそうじゃない」
じゃあなんなんだ。
「結構、態度に示していたつもりだったんだけどなぁ…」
はぁ、ともう一度大きく溜息を吐いた彼は、すぅと身を屈める。ちゅ、と可愛らしい音を立てた口付けが額に一つ落ちてきたと思ったら。
「君は、俺の特別なんだから、少しくらい甘えてくれよ──寂しいだろ」
子供じみた、でもすごい威力の爆弾が落ちてくる。
恥ずかしいのか少し顔をしかめさせながらいう彼にきゅん、と胸が高鳴った。あぁもう、ちくしょう。
彼の家に着いたら、すぐに抱き着いてキスをねだろう。それからはしたないかもしれないが、ベッドに誘ってやるんだ。貴方の望むように思いっきり甘えてやるから、覚悟しておいてくれ。もう、背伸びも我慢もしてやらない。

残業なんて冗談じゃない

15/06/05