カフェラテを二つ、抱えて一歩一歩気を付けて歩く。
この人混みだ、いつ通りすがりの人とぶつかってしまうかわからない。ぶつかるだけならまだしも、その衝撃でせっかく購入したカフェラテをぶちまけたり、当たり屋などのチンピラに遭遇してしまったら目も当てられない。 だからといってのんびりもしていられない、何せ人を待たせているのだ。
チビと揶揄される身体を上手く使って、慎重に、でも出来る限りの早さで人混みをすり抜ける。こういう時、身長が低いというのはそこそこ便利だ。身体が大きいと、こうもするする通り抜けられないだろう。そもそも、自分が買いに走った理由の一つはそれだ。
心配そうだった彼も、無事に購入して戻れば納得してくれるだろう。お遣いくらい、こなせるのだ。そんなことを考えながら、歩いていたのが間違いだったのだろう。いい気になった鼻をへし折るように思わぬ衝突に巻き込まれる。
「──わっ」
どん、とぶつかったのは肩だったろうか。大して痛みがないということは、大して強くぶつかった訳ではないということだ。吹っ飛ばされることもなければ、抱えたカフェラテが溢れることはなかった。それに安心したのも束の間、目の前の男は、わざとらしく腕を抑えた。
どうやら、杞憂が当たってしまったらしい。イテテテ、だの、腕が折れた、だの、好き勝手被害を訴えている男は──恐らく当たり屋だ。
やってしまった。お遣いひとつまともに出来ないのか、いやでもこの場合は不可抗力だろうか。言い訳をつらつら考えている無反応のこちらが気に入らないのか、当たり屋の男は、テメェ聞いてんのかくそアマと怒鳴り散らしてきた。その言葉の汚さは妙に聞き覚えあって、すぐさま同僚の顔が出てくる。あぁでも、ザップの方がもう少し面白い挑発をしてくるかな。
さて、黙って聞いているのも退屈だし、そもそも自分は待ち人の下へと急がねばならない。かといって謝罪をすれば誠意を見せろと、賠償を要求されるに違いない。何が誠意だ、ぶつかったのはお互い様だろう。なんて、そんな問答をしている暇も惜しい。
幸い、相手は自分の姿を見て完全に舐めくさっているようだった。いやまぁ、それは全くもって正しい推論なのだろうが、こちらだって伊達にこの街で生きてはいない。
不意に、立ちはだかっている当たり屋の右隣の人並みが途切れる。良いタイミングだ。
「じゃ、そういうことで!」
何がどういうことなのか、自分でもよくわからないが何も言わずに立ち去るのは流石に失礼だと思い、そんなことを告げて当たり屋の右隣をすり抜けた。そして、走る。カフェラテが溢れてないといいなぁなんて思いながら、とにかく走る。三十六計逃げるにしかず、といったのは誰だったろうか。
なるべく人混みの中を通って目的の場所まで駆け抜けた。何故か?自分にはあんなチンピラを倒す力がない、交渉でなんとか切り抜ける腕もない、お金で解決するなんてもっての他だ。そうしたらやっぱり、逃げる他ないだろう。
待てコラ!なんて怒号が聞こえてきて、慌てて後方に視線を向けると、先程の当たり屋の男が追いかけてきている。意外に諦めが悪いらしい、それともこんな小娘に逃げられたことが気に入らなかったのだろうか。どちらにせよ、知ったことではない。
まずいなぁ、と思う。もうすぐ目的地なのだ、自分を待ってる人がいる。その人のところに着くまでになんとか撒けないだろうか、と考えるが、こんな大通りでは撒くも何もないだろう。
最後の角を曲がると、車の傍で待ってる愛しい人が駆けてくる自分に気付いて、俯きがちだった顔を上げる。
「おかえり、そんなに急いでどうかした?」
「いやっ、あの、すみま、せ…」
全速力で走ったせいだろう、息が切れて言葉が出てこない。彼は驚いたように目を丸くして自分の様子を伺っていたが、後ろから怒声を発しながら追い掛けてくる当たり屋に気付いて全てを理解したらしい。
「あぁ、なるほど」
「すみ、ません、撒けな、くって」
「いいよ、別に」
ぜえぜえ、と酸素を求めて必死なこちらと討って変わって、彼は至って冷静だ。抱えていたカフェラテをひとつ受け取って、一口飲む姿は実に優雅だ。息も絶え絶えな恋人を目の前にする行動ではないと思うが、まぁそこは彼ならば致し方ない。
「君も飲めば?」
飲めたらすぐに飲んでいる。そんな声を出せる訳もなく、じろりと睨み付けるだけに留める。すると彼はひょうきんに肩を竦めるのだから腹が立つ。
そうこうしている内に、スタートが出遅れた小回りの効かない当たり屋が追い付いてきて、息も絶え絶えながらに怒鳴ってきた。途切れ途切れの言葉を要約すると、人にぶつかっといて謝罪もなしとは何事だ、腕を痛めたぞ、いいから四の五の言わずに金を払え、ということらしい。腕を痛めておいてここまで着いてこれるというのは目を見張る思いだ。というか、よくそこまで息が切れていて怒鳴れるな。別の意味で感心してしまう。
「──やれやれ」
黙って聞いていたかと思いきや、スティーブンは突然溜息を吐いた。
「君はどうして、こう面倒ごとを連れて来るのかなぁ」
自分だって、連れてきたくて連れてきた訳ではない。抗議の視線を送るとひらひら手を振られてしまった、ちくしょう。
「まぁ良いけどね、先乗ってて」
「…ハイ」
ガチャ、と扉を開けて促されてしまえば、あとはもう抵抗など無意味だ。不可抗力とはいえ自分で蒔いた種の回収くらいしたいとは思うが、そんな腕もないので大人しく助手席に座る他ない。
息も落ち着いてきて、ようやくカフェラテの味を楽しめるくらいになった頃合いに、彼は颯爽と運転席に乗り込んだ。その姿に乱れはどこにもない。どうやら、友好的に事を済ませたようだ。相変わらず見事は手腕である。
「どうなりました?」
「丁重にお帰り頂いたよ、勿論びた一文払ってないけど」
流石である。どういう方法を取ったか知らないが、見事撃退してくれたらしい。シートベルトを装着してる彼の顔色はいつにも増して涼しい。
「ほんとすみません」
「悪いと思うなら気を付けてくれ」
「うぅ」
「さて、それじゃあ行こうか」
「はぁい」
返事と同時くらいだろうか、車が発進する。ふと窓の外を見てみると、直角にお辞儀した当たり屋の姿がちらっと見えた。一体何をしたんだろう、いや、何を言ったのだろう。それを知るのは、彼とあの哀れな当たり屋だけだった。
「しかしカフェラテ買うくらいで、なんで当たり屋なんかに会うのかな、君」
「不可抗力です、偶然、たまたま、不幸な事故」
「注意力散漫の間違いじゃなくて?」
「当たり屋相手だったら注意してても意味ないじゃんか!」
そりゃそうだ、と笑うスティーブンは軽快にハンドルを切るから腹正しい。こちらだって悪いとは思っているが、そんな風に言われてしまうとついつい反抗的になってしまう。それさえも楽しんでいるのだろう、巻き込まれた人間には似つかわしくない笑顔を浮かべていた。
不貞腐れてコップを煽ると、彼は不意に片手を差し出した。訳もわからず首を捻っていると、彼は正面を向いたまま、更に催促するように手を揺らす。取り敢えずその手に片手を乗せるとぎゅ、と握られた。そのまま指先が絡み付いてきて、こちらもそれに応えるように指を絡めると、ぷっと彼は噴き出した。
「違う違う。そうじゃなくって、カフェラテくれる?」
「へ?」
「俺の分はさっきの当たり屋にあげたから」
「じゃあなんで握ってくるんですか!」
「寂しいのかと」
そんな訳あるか。ぺいっと握った手を振り払うと、くすくすと笑い声が返ってくるのが憎らしくて仕方ない。いや、何も考えずに握り返したこちらにも問題はあっただろうか。しかし、運転中に手を握ってくる彼も彼だろう。
離した手は、また催促をするようにゆらゆら揺れていた。それでいて、ハンドル捌きに乱れはないのがまたずるいところだ。なんでも出来るな、この人。
しかし、残念ながら彼の要望には答えられない。
「残念でした、もう飲み終わっちゃったのであげられません」
「えぇ?本当に?」
「こんなことで嘘ついてどうするんですか」
それもそうか、とあっさり納得した彼は伸ばしていた手をハンドルへと戻す。ちらりと彼の様子を見てみると、残念そうな色は微塵もない。そういえばさっき当たり屋と話す前に結構ごくごく飲んでいたからなぁ、というか体よくゴミを押し付けただけなんじゃないだろうか。今更ながら当たり屋が可哀想に思える。
「…なに?」
「いえ別に」
こちらの視線を感じたのだろうか、運転中にも関わらず気配には敏感な彼には内心舌を巻く。
ふと、そういえば彼が運転する車に乗るのは久し振りだなぁと思う。ここ最近は徒歩かギルベルトが運転する車にての移動がほとんどで、こうして二人で出掛けることすら久し振りな気がする。例えそれが仕事の一環だとしても、ついつい嬉しくなってしまう。
「そういえば、この後会うスポンサーの情報は頭に入ってるかい?」
「勿論、スリーサイズも覚えてますよ」
「それは覚える必要ないだろ」
呆れられてしまったが、書いてあるのだから覚えてしまうのも仕方ない。しかも稀に見るナイスバディだったのだから印象深い、これから会うのは男性だけど。
そうこうしている内に目的地へと到着するようで、ウィンカーの音と共に徐々にスピードが緩やかになる。
前々から思ってはいたが、あまり身体に負担の運転をするスティーブンはすごい。ギルベルトも平時は同乗者の人間を気遣うような運転をしているが、それは職務を考えれば当然とも言えよう。
一体、何人の女性がここに座ったのだろうか。何人の女性が座れば、こんな運転になるのだろう。嫉妬、しかも過去へのものなんて醜いに決まっているが、どうにもこうにも腹の奥がむずむずとして、薄暗い感情がひょっこりと顔を出す。面白くない、ただそれだけだ。
車は緩やかなスピードで駐車スペースへ入っていく。この人は駐車も上手いので、すぐ停めるだろうと思ったら、どうやら両隣の車がややこしい停め方をしているようだ。珍しく、座席に肘を置いて身体を反転させて、後ろを確認しながら慎重に停車させていた。思っていたより近くにある顔に、胸が高鳴る。
ギアがパーキングに入り、車がようやくその動きを止めたその時──ふと、目が合った。
事故のような視線の絡み合いだ。しかし、その蘇芳色の瞳に自分の姿を映っているというだけで、胸がざわざわとうるさいくらいに動き出して、まるで金縛りにでもあったかのように動けなくなってしまう。恋とは、全くもって御しがたい。
「、す」
てぃーぶんさん、と続く筈の言葉は、彼の唇によって飲み込まれてしまった。存外柔らかで薄い唇が、優しく押し当てられる。それが心地よいと思ってしまうのは、この人にどうしようもなく惹かれているからで。
一度、二度、ふわりと重なった唇は思っていた以上にあっさりと離れた。ちゅ、なんてわざとらしく音を立てて離れていくそれに、釣られるように追い掛けてふと理性がそれを止める。自らの行動に、頬が熱くなるのを感じながら、目一杯しれっとしている彼を睨み付けた。
「急に、なにするんですか」
「うん?」
「スティーブンさん!」
「いや、そこにあったから」
つい、なんて飄々と言われても全く納得は出来ない。いや、結局のところ嬉しいものは嬉しいのだから怒る必要はない。しかし、どうにもこうにもこの人のすることは、自分をからかっているようにしか思えないのだ。
「こういうこと、助手席に乗せた人みんなにしてるんですか?」
苦し紛れの小さな刺を孕んだ言葉に、彼は一瞬きょとんとした。そういう隙のある表情がもっと見たいが、彼はすぐさまその目を優しく細めて笑うのだ。このいとおしい表情に、何度も何度も恋に落ちる。
「妬いてるの?」
「妬いちゃ悪いですか」
「──まさか」
可愛いよ、と耳許で囁かれてしまえば、ぼっと明かりが灯ったように真っ赤になるのは当然じゃないだろうか。くすり、と笑い声と共にその吐息が耳許を擽ってきて、ふるりと身が震える。
そんなこちらの反応が面白いのか、くつくつと喉の奥で笑いながら彼は身を引いた。その鮮やか過ぎる潔さが本当に憎らしい。いつだって、彼の掌で踊るのは自分なのだ。
「さて、仕事しようか」
「…ハイ」
「怒った?」
思ってもいないくせに、そんなことをいう彼が憎らしい。それと同じくらい、いとおしい。
「スティーブンさんのバカ、人たらし、女たらし、気障男」
「ひどい言い種だなぁ」
「でも、好き」
「──君はほんとに、かわいいね」
微笑む彼の姿は、どこまでも素敵で。いつだって自分は、彼の掌で転がるように踊らされている──だったら、どうせ踊るなら、美しく、滑稽に、これ以上ないくらい鮮やかに、踊ってやろうじゃないか。

ハンドルはそのままで

15/06/10