スティーブン・A・スターフェイズという男は、とにかく忙しい。
朝から書類仕事をしていたかと思えば、緊急要請を受けて出動し、また戻っては領収書等とにらめっこ。夜は会食やら何やら、その他にも"友人"と会ったり、自分の知る限りでもその忙しさには目を見張るものがある。
しかしながら、恋人としての彼はとても優秀で、寂しい想いはさせないと言わんばかりに二人の時間を大切にしてくれている。そんな時間はどこにあるのかと聞きたいくらいに、自分に時間を割いてくれているのは薄々感じていた。美味しいお店に連れていってくれたり、雰囲気の良いバーで普段味わえないようなお酒を堪能させてくれたり、高層ホテルで夜景を見たり、エトセトラ。愛されている、そう実感出来るくらいには、彼はよくよく自分のことを構ってくれている。
今日とて、彼の広い家で惰眠を貪るくらいだ。昨夜のややふしだらな運動からの睡眠は、深くて長い。隣に彼はもう居なかったが、シーツに残る匂いにふにゃりと表情が弛んでしまう。幸せだ、と思う。
あぁ、でもそろそろ起きなければならなかったな。気だるい身体に鞭を打ち、なんとかベッドから這い出る。大きく背中を伸ばすと、ゴキッなんて音がする。どうも凝り固まっているらしい。なんだかんだ一日中書類仕事に追われる毎日だ、それも仕方ない。
薄暗い部屋から飛び出してリビングへと至る扉を開けると、既に支度を終えたスティーブンが優雅にコーヒーを飲んでいた。音と気配に気付いたのだろう、片手間に読んでいたであろう新聞から、顔をあげて微笑む彼は眩しい。しかしその整った口からは、あまり可愛くない言葉が漏れてくる。
「おそよう、
「おはよう、ございます」
「昼まで寝てたらおそようで充分だよ」
返す言葉もない。言い訳が許されるならば、この家のベッドがあまりに心地よいのが原因だと思う。ふわふわのベッドがあんまり気持ちよくて、最近我が家で安眠できないのだ。それと、彼の匂いに包まれていないというのも、なんだか落ち着かなくて。生活のひとつひとつに、彼が侵食しているなと思う。それがまた嫌でないというのが救えない、有り体にいうならばスティーブンにメロメロだということだ。
視線を新聞へ落とす彼は、パリッとしたシャツにお気に入りのスーツをさらりと着こなしていて、今日も今日とて伊達男だった。ネクタイを締めずにいる辺り、少し隙のようなものまで見え隠れしていて、なんというか完璧だ。ちくしょう、今日も好きだ。
「ヴェデッドさんは?」
「買い物。飯なら、君の分も作ってくれてるよ」
「最高ですね」
大袈裟だな。なんて笑う彼は、ヴェデッドの料理に慣れているから言えるのだ。彼女が作る家庭料理は、また堪らなく美味しい。スティーブンの家に来ると無条件でついてくるその料理は、いつだって最高だった。それが食べたくて、この家に入り浸っているといっても過言ではない──こんなこと彼が聞いたら怒りそうだが美味しいものは世界を救うくらいなのだから仕方ない。
「──さて、と」
嬉々として椅子に座ろうとすると、ふとスティーブンが立ち上がる。ちらりと時計を確認すると、成程もう出る時間だった。
「行きますか?」
「うん、君はもう少しゆっくりしてるといいよ。あぁ戸締まりはきちんとね」
「言われなくとも」
背広を羽織る彼に頷くと、くしゃりと髪を撫でられた。その手付きの優しさに思わず目を細めてしまう。スティーブンは忙しい、例え恋人の自分が家に居ても、予定があれば家を出る。そのことに、少し寂しさはあるが、それを我慢出来ないほど子供ではなかった。そもそも、彼はきちんと予定を自分に伝えてくれるし、その分二人の時はしっかり甘く濃密に過ごさせてくれるのだ。そんな彼に我儘を言うのは、それこそお門違いというものだ。
「打ち合わせが終わったら、事務所に戻るから」
「はい、気をつけてくださいね」
「君こそ妙な連中に絡まれないように。真っ直ぐ事務所へ行くんだぞ」
保護者か。いくら戦闘能力が平凡とはいえ、そこら辺のチンピラであれば撒くのは容易い。こう見えてもここから事務所までの道のりであれば、裏路地から猫しか通れないような細いダクトだって把握している。
思わず唇を尖らせるが、
「GPSで確認はしておくけど自己防衛はしっかり頼むよ──君が危険な目に合うかと思うと、気が気じゃない」
なんて苦笑混じりに言われてしまえば、静かに頷く他なく。
満足げに笑う彼は本当にずるいなと思う。でも、忙しいのにいつだって気にかけて貰えている、などと嬉しさを覚えてしまう自分こそずるいのかもしれない。
「よし、じゃあ行ってくるよ」
名残惜しげにまたくしゃくしゃと撫で付けられて、すっとその手は引いていく。どうやらもう出るようだ。見送ろうとその背を追うようにしたところで、ひとつ忘れ物に気付く。
「…あ、スティーブンさん待って」
くるり、背を向けた彼が肩越しに振り返る。何やらニヤニヤとしている気がするだが、もしや自分が寂しがっているとでも思っているのだろうか。いや、確かに寂しいのだが、今はそうじゃない。
テーブルに置かれたままだった山吹色のネクタイを、ひらりと揺らす。いつだってきちんと締められているネクタイは、今日はまだその任務を全うしていなかった。
「忘れ物、ですよ」
「あー…」
一本取られた、と言わんばかりだ。割と格好つけたがりのこの人のことだ、少し悔しいのかもしれない。こういう一面はひどく可愛くて、思わず口許が弛んでしまう。それに合わせるようにして、彼は気まずそうに視線を彷徨わせる。珍しい、可愛い。益々口許がふにゃりと弛んだ。
「…ありがとう、うっかりしてた」
「スティーブンさんが、珍しいですね?」
「……からかうなよ」
鬼の首を取った気分だ、不貞腐れたように唇を尖らせる様は普段と違って愛らしい。へらへら笑っていると愛用のネクタイをひったくられてしまった、そんなに照れなくとも。寧ろ自分は、もっともっとこういう一面も見たいのだ。今更こういう姿を見るくらいで嫌いになどなりはしない、逆にどんどん深みに嵌まっていくように好きという気持ちが強まるのだ。
襟元にネクタイを通したかと思えば慣れた手つきで結ばれていく様をみて、ふと思い付く。その手を掴むと、予想外だったらしい彼は首を傾げた。
「今度はなに?もう忘れ物はないだろ」
「結びたいです、私」
「は?」
「ネクタイ。結びたいんですけど、」
いいですか?と、甘えてみた。危ぶんでいるらしい彼の怪訝そうな視線が少しばかり痛かった、どうやらからかったことが尾を引いているらしい。案外根に持ちますね、何も考えてませんよ。
じ、と見つめてみると彼は溜息を吐いた。時間が迫っている中、こんなことをいうのはちょっとまずかっただろうか。
す、と向けられた視線に気圧されて掴んだままの手を離すと、彼は途中まで結んだネクタイを解いてわざわざその上体を屈ませてくれる。
「──綺麗に結んでくれよ?」
「っもちろん!」
この人は案外自分に甘い。嬉々として首から垂れているネクタイを手に取って、昔覚えた通りに結び始める。久し振りにやるが、存外覚えているものだった。その手つきが意外だったのか、間近に口笛がひとつ聞こえてくる。
「手慣れてるね」
「えぇ、まぁ。昔よくやってたので」
「へぇ?」
先程までの甘い雰囲気はどこへやら、声がワントーン下がったような気がするのは勘違いだろうか。ちらりと視線をあげてみると、不穏そうに細められた瞳とかち合う。あれ、なんで怒ってるんですか。
「…誰にやってたの?」
「は?」
「どんな男に、結んでやってた?」
思いがけない言葉に間抜けな顔をしたのも束の間、すぐに顔が弛む。これはまさか、嫉妬だろうか。
自分とは正反対に歪んでいく顔の、可愛さときたら。男の嫉妬は醜いなんてよく聞くが、この人に限ってはいとおしさで胸がいっぱいになってしまう。単純だと笑われるだろうか、不謹慎ながら嬉しいのだから仕方ない。
、」
低く名を呼ばれて、慌てて顔を引き締めるがやはりふにゃりと弛んでしまう。へらへら笑っているばかりで答えない自分に、いい加減焦れたらしい彼は眉間の皺を更に深めた。おっと、そろそろ答えないとご機嫌ななめになってしまう。あまり言いたくはなかったが、不機嫌になった彼を宥めるよりはましだろうと考えて唇を開く。
「あ、いや、その──昔、自分で勝手に練習してただけなんですけど」
いつかまだ見ぬ旦那様の為に。幼稚な考えだ、その時はまだこのHLも紐育と呼ばれ、平穏な日々が続いていたのだから仕方ない。
からかいの言葉が飛んでくるかな、と危ぶんでいたがどうもそこまで頭が回らなかったらしい。
「…あぁ、そう」
拍子抜け、と言わんばかりの間抜けな表情はとても愛らしい。それから気まずそうに視線を逸らす姿の可愛さといったら。思わず笑いそうになったのを堪えた自分を褒めてやりたい、今日ばかりは自分の勝ちだろう。いつだってやられてばかりではないのだ。
小剣を引っ張って形を整えると、我ながら久し振りにやったとは思えない出来映えである。いつも通りの完璧な出で立ち、伊達男の完成だ。幼い憧れがほんの少し実現して、かなり満足だった
「はい、出来ました!」
「ん、ありがとう」
「じゃあ今度こそ、いってらっしゃい」
うん、と頷いた彼はすくっと佇まいを直し、玄関へと向かった。その背中をなんとなく、そのまま見送っていると、不意に彼は立ち止まる。どうかしたのだろうか、ちらりと時計を見ると出発時間を大分オーバーしていた。
くるり、振り返ってずんずんと近付いてくるその表情は、なんだかちょっと怖い。もしや怒られるのでは、と警戒していると、目の前来た彼はぐっと先程のように身を屈める。
「スティーブンさん、あの、何か?」
「いや、ちょっと忘れ物」
「へ?」
言うが早いが、唇がひとつ降ってきて。ちゅ、ちゅ、ちゅ。額、鼻、唇。可愛らしい音と共に降ってくる口付けに、目を丸くするのは仕方ないだろう。
「──うん、それじゃあいってきます」
満足げに頷いてから、颯爽と歩いていく彼を呆然と見送る。なんて、なんて恥ずかしい人なんだろう、と思う。ぶわっと頬が熱くなるのも仕方ない、口付けられた箇所にそっと指先で触れてみるとまた恥ずかしさが込み上げてきた。
これは、もしや、いってきますのちゅーというものではないだろうか。玄関の扉を開けた彼が肩越しに振り返ると悪戯っぽく片目を瞑ってきた──どうやら、お察しの通りらしい。

忘れものにご用心

15/06/14