人間とは、何事も予想・予測をして行動する生きる生き物である。
だが、時にはその予想・予測が外れることもある。全てを見通す力がある訳ではないのだから、当然の結果だ。
「あれ、K・Kとチェインは?」
「二人なら今日はもう帰ったよ」
なんということだ。
仕事を終えて執務室に戻ると、そこにはソファーで新聞を読んでいるスティーブンしか残っていなかった。他のメンバーはまだ外回りなのだろうと高を括っていたのだが、彼の言葉からお目当ての女性陣は既に帰宅していたことを知る。失敗した、こんなことだったら出る前にしっかりお願いをしておくべきだった。今日はまだまだ残っているだろうなんて、浅はかな考えだったのだろう。
言葉を失うこちらを前に、スティーブンは不思議そうに首を傾げている。あ、その顔可愛いなぁ、なんて思っている場合ではない。
「じゃあ、レオくんは…?」
「少年なら今日はバイトだろ」
なんということだ。
立て続けに振られてしまう。いや、元はといえば、こんなギリギリになってから言おうとした自分が悪いのだろう。それはわかるが、まさか頼みの綱が3本とも一気に引きちぎられるとは思ってもみなかった。
不思議そうな彼の顔は、ほんの少ししかめられていて、まるでこちらの様子を危ぶんでいるようだ。すみませんね、挙動不審で。
「じゃあザップ!ザップは?」
「…あいつなら、電話一本で女のところにすっ飛んでったよ」
あの野郎。思いきり舌打ちが出るのも仕方ないだろう、いつもはだらだら待機しているくせにこういう時に限って早々と退散するなんて、全くもって間が悪い。そもそも間が悪いのは自分ではないか、と頭の隅でこっそり冷静な自分がそんなことを囁いたが、今は八つ当たりくらいさせて貰いたい。
しかし、ここまで振られるのも珍しかった。大体そのメンバーの誰かしらはいつも残っているというのに。
クラウスやギルベルト、そしてツェッドを連れて行くのもひとつの手段だが、恐らく3人ともあまり当てにならないだろう。そもそも、こんな用件であの3人のうち誰かの手を煩わせるなんて、申し訳なさで穴が掘れそうだった。
そうなると、やはり、必然的に選ばれる方法はひとつな訳で──
「じゃあ、私も帰りますね」
「は?」
「え?」
「…」
「…え?」
すっとんきょうな声をあげたのは、この部屋で一人待機していたスティーブンで。思わず首を傾げると、実に気まずそうに視線をうろうろさせていた。どうしたのだろう、今日の仕事は既に終わらせたし、特別待機するようなこともない筈だ。
なにか問題があっただろうか、そう問い掛けようとした矢先、ふとした違和感に気づく。そういえば、どうして彼は一人で待っていたのだろう。待機するような案件があったのだろうか、いやそんな話は今日ひとつも聞いていない。特別約束もしていないが、なんだかんだ彼のスケジュールは常に頭に入っていた。
もしや、これは、自分を待っていてくれていたのでは──?
都合のいい考えがぐるぐると頭が回る。いやいやまさか、そんな訳がない。こう見えて彼は忙しいのだ、大体のスケジュールを把握しているとはいえ、時折自分が知らないような用件で出掛けていることもあるし。やっぱり何かしらの案件で待機なのだろう、そう決め付けて頷いた時、予想外の言葉が耳に届く。
「君を、待ってたんだけど」
「へ!?」
「そんな慎ましやかな恋人置いて、先に帰るって何事かな」
いや貴方全然慎ましやかじゃないですよね、なんて可愛くない返事は全く出てこない。そういえば、ザップの名を出した辺りから、何処か機嫌が良くないというか、少し不貞腐れているというか、とにかく顔を歪めていた。その彼は今、拗ねたように唇を尖らせていた。えぇ、なにその顔。可愛いですけど。
「で、でも、あの、その、私少し用事がありまして…」
「それ、俺との時間より大切な用事?」
「えぇ…」
なにその反則技。そんな風に言われてしまうと、肯定が出来る訳もなく。
うぅ、と小さく唸り声をあげていると、ゆっくりと彼は立ち上がり、ソファーに掛けていた背広を羽織った。その姿に思わず息を飲む、絵になりますね相変わらず。
「仕方ない、じゃあ君の用事に付き合ってあげるから、その代わり俺の用事にも付き合ってくれるよな」
誰も頼んでない、とか。なんで用事に付き合わなくちゃいけないのか、とか。そんな言葉が出てくることはなかった。
にっこりと世の女性を虜にする微笑みを浮かべて、NOという言葉を一切許さないであろう彼に、頷く以外の手段があるというのならば誰か教えて欲しい。最早、諦める他に道はないのだ。
「──ハイ」
この返事に、余所行きでない満足そうな笑顔を浮かべた彼の顔を見て、少しの安堵とときめきを感じてしまう辺り、自分は相当やられているのだろう。
「で、一体なんの用事?」
「いやぁ、あの、その単なる買い物なんですけど、今日はもういいです」
「──は?」
「え?」
本日二度目のすっとんきょうな声に驚くのはこちらばかりと思っていたが、彼も目を丸くしていた。そのままじっと見つめられてしまって、照れるどころか後退りしてしまう。
「…ちなみに、何を買いに行く気だったのかな」
「え、服ですけど…」
「は?」
「え?」
そんなに何度も聞き返されると、自分の使う言語が間違っているのかと不安になってしまう。先程は驚き色が広まっていた彼の表情に不満がありありと乗っかっているのは、まさかそういう理由ではないだろう。一応公用語はきちんとマスターしてると思っていたのだが。
「服って、あの服だよな」
あ、よかった、通じてた。
「はい、あの、お出掛け用に何着か買おうかなって、あ、でも別に後日でもいいんですけど」
「……それ、なんでザップや少年と買いに行こうとしてたのかな」
いや、そもそもはチェインかK・Kと一緒に選ぼうと思ってたのだが。と、口にすることは敵わなかった。何せ立ち上がった彼が、威圧感たっぷりに近付いてきたからだ。
「いや、あの、レオくんはああ見えて結構冷静な判断をしてくれるし」
「へぇ?」
いつもよりワントーンどころかツートーンくらい低い相槌だ。なんで急に不機嫌になってるんですかね。
「ざ、ザップはまぁ、最終手段というか、一人だけで選ぶよりは参考になるかなって…」
「ふぅん?」
じりじりと近付いてくる彼に合わせて、じりじりと後退りしてしまう。このまま後退していったらいつか壁にぶつかってしまうとわかってはいたが、何故か急に不機嫌になった恋人を宥める方法がひとつも思い浮かばないのだから仕方ない。
どうしようどうしよう、と脳をフル回転させている内に、懸念していた距離はいつの間にか縮まってしまっていて。気が付いた時にはもう遅く、とん、と壁に背中がついた──やばい、逃げ場がない。
「仕事でもないのに、男と二人で出掛ける"それ"が一般的になんて言うか教えてあげようか」
「な、なんでしょう…?」
ダンッ──と肩の横辺りから音。隣の部屋からうるせぇぞと壁を叩かれた、訳はない。
ギギギ、と錆び付いたボルトのようにゆっくりと首を捻ると、彼の武器である靴がそこに収まっていた。パキリ、靴底の辺りから聞こえてくる音に、この人が力までも使った事を知る。恐る恐る、彼の方に視線を戻すと笑顔で片足をあげて立っていた。わぁ、相変わらず股関節柔らかいですね、なんて小粋な言葉を口にするほど、今の状況が明るいものではない。
「──デート、って言うんだよ」
時にぐずぐずに甘やかし、時に愛を囁く低い低音は、優しさなんていうものとはかけ離れたくらい刺々しくなっていた。
「い、いやいやいや!デートって、そんな大袈裟な…」
「大袈裟?恋人である俺がいるにも関わらず他の男を選んでおいて?これがデートじゃないならなんだろうな浮気かな!」
「はぁ?!」
浮気だなんて、とんでもない。この人だって、どれだけ自分が愛してるかなんてわかりきってるだろうに、何を言い出すのだ。大体、服を買いに行くくらいでデートだ浮気だといわれたら、もう何回もスティーブン以外とデート、浮気をしてしまっていることになる。それはいくらなんでも言い掛かりというものだろう。
「…大体服くらい、俺と買いに行けばいいだろ」
吐き捨てられるように言われた言葉に、ぴくりと肩が震える。恐怖からではない、もっと下、そう腹の辺りからくる感情によってだ。
「少年だけだったらまだしも、よりにもよってザップと買いに行く?冗談だろ、馬鹿も休み休み言ってくれ」
冗談?馬鹿も休み休み?それは──それはこちらの台詞だ。
「──だってスティーブンさん、そういうの嫌いだって言ったじゃないですか!」
「は?」
「随分前に、女の買い物は長くて飽きるって!ああいうのに付き合わされるのはもう二度とごめんだって!誰と行ったか知りませんけど!!」
「ちょっと待て、…」
「だから私、今までずっと我慢してたのに!なんなんですかもう!!」
ぜぇ、ぜぇ。急に怒鳴り声をあげたからだろう、息が切れてしまった。目の前の不機嫌な恋人は、まさかこんな反撃がくるなんて思ってもみていなかったようで。先程までの不穏な雰囲気はどこへやら、瞬きを繰り返しながら間抜けな顔でこちらを見つめていた。
自分だって、服を選ぶのを手伝ってもらったり、冷やかしがてらブラブラショッピング通りを歩いたりしてみたかった。しかし、まだ彼と恋人関係になる前に、どんな美人と行ったのか知らないが随分くたびれた姿で執務室に戻ってきたスティーブンがこう愚痴を溢していたから、今までずっとその要望を口にすることなく黙っていたのだ。だから、彼としたデートなんて、ディナーを食べたりお互いの部屋を行き来するくらいという、実に味気ないもので。それでも、忙しい合間を縫って、自分の為に時間を作ってくれている彼に嫌な想いはさせたくなくて、ずっとずっと我慢してたというのに、この責められ方はあんまりだろう。
「……えぇっと、」
ぽりぽりと、頬の傷辺りを指で掻く彼は、どうやら怒りを終息させてくれたようだった。すっと、その長い足が引かれて、少しの冷気が肩口を襲った。
「なんか、その──ごめん」
「いや、いいです、別に…」
謝られてしまうと、ムキになったこちらが恥ずかしい。ふいと視線を逸らすと、彼は居たたまれない様子でまた頬を掻く。
「…言い訳をしても、いいかな」
申し訳なさそうな声に、こちらが居たたまれなくなって視線を戻して促す。彼はほんの少しほっとしたように息をついて、それでもやっぱり気まずそうに視線をさまよわせて呟いた。
「なんだ…その、女の買い物は長くて飽きるっていうのは…まぁ、素直な感想で」
「…」
「でも、なんていうのかな、君だったら別に気にならない、と思う」
「…無理しなくて、いいですよ」
「いや違う、そうじゃない、そうじゃなくて…」
ガシガシ、と頭を掻いたかと思ったら、あぁもう!と呟いた彼の顔が不意に近付いてきて──こつん、と可愛らしい音を立てて、彼の額が自分の額に重なった。
「君だったら、長い時間付き合わされても良い…っていうか、寧ろ大歓迎ってことなんだけど」
わかる?と、気恥ずかしそうに問い掛けてくる姿は、ひどく可愛くて。あぁもう、単純だ、こんなことくらいで怒りとか気まずさとかが全部吹っ飛んでしまうなんて。
「…私、買い物長いですよ」
「うん」
「試着一杯するし、色で悩むし」
「うん」
「優柔不断だから、何軒も回って結局初めの店に戻るとかざらだし」
「うん」
「結局何も買わずに帰ったりとか、お店の人に失礼なこともするし」
「…それは流石に店員が可哀想かな」
「……飽きずに付き合ってくれますか?」
「そんなの、」
ふわっと、彼の匂いがしたなと思ったら、鼻につんと柔らかな感触があって。
「──言われなくとも、そっちが飽きるくらい付き合ってあげるよ」
鼻が重なりあって、そのままあと数センチだった唇の距離もゼロになる。ちゅっと子供だましみたいなキスをして、視線を絡ませてまたひとつ。
このあと、彼が気に入る服を、彼に選んで貰って、それこそ際限なしに買ってやろうと思う。今まで出来なかった分、思いきって買い漁ろう。上から下まで、出来れば使い回しが出来るようなものを選んで貰って。今月はまだまだ始まったばかりだけど、どうせ大して使う訳でもないのだからたまには思い切って使ってやる。でも、今は──今は、この子供だましのキスを楽しもう。全く、人生とは予想外のことばかりである。

きみが選ばない理由

15/06/17