はちみつのように自分を甘やかす恋人は、日中に外へ出ると、それをあまりしない。
腕を組むことも、肩や腰を抱かれることもないし、手だって繋がない。車の中でキス程度したことがあるくらいで、基本的に日中外出したらそういう雰囲気を一切出さないのが暗黙のルールになっていた。
人前で、わざわざ見せつけるようにすることもない──というのは、建前で。本当は、仕事上の付き合いがある人物に見られてはまずいから、敢えてそういう姿を見せないようにしている。色を使って情報や有益に事を運ぼうとするのは彼のよくやることで。それによって、彼に恋い焦がれている女性は多い。そんな女性達が、もしもそんな自分達を見てしまったら──人の目は無数にあり、その口に戸は立てられない。見つかってしまえばすぐさま広まっていくだろうし、それを覆すのは結構時間が掛かる。そんな面倒は起こさない方がお互いの為であり、ひいてはライブラの為なのだ。
「スティーブン!」
珍しく徒歩で要人へ会いに行く手筈になった今日、街中で掛かったそんな声に足を止める事となる。
くるり、振り返るとそこにはブロンド美人が立っていた。大人の女性らしい魅力的なボディを一番効果的に見せる服装に身を包んだ彼女は、少女のように頬を染めて彼を見つめていた。こんな色っぽいお姉さんに、艶っぽくそれでいてどこか愛らしい表情で見つめられたら、男でなくともドキッとする。現に、今うっかりドキッとしてしまった。とても魅力的な女性だ。
「やぁ、偶然だね」
しかし、そんな熱っぽい視線を一心に受けている筈の隣の男はしれっと返すから本当に不思議だ。普通であればもっとこう、なんかあっても良いだろうに。
「久し振り、最近会えなくて寂しかったわ」
「僕もだよ」
素敵な偶然の出会いに相応しい、まるで映画のような会話だった。すらりとした長身の男女、うん、絵になる。それこそ映画のワンシーンと見間違うくらいだ──自分が男の隣に立ってさえいなければ。
嫉妬くらいした方が良いだろうか、と思うがもう何度目かのこういう出会いに今更驚くこともないだろう。というか、こないだとまた違う相手じゃないか、一体何人引っ掛けてるんだこの人。
駆けてきたブロンド美人は、愛しい彼の隣にいるちんけな娘に気付いて、少女のような愛らしさを歪めた。
「……その子、誰?」
怖い。鈴が転がるような甘えた声は、低くて重くなった。そりゃあそうだろう、恐らくこのブロンド美人はスティーブンに恋をしている。自分が焦がれている男と久しぶりに会えたと思ったら、隣にこんなちんちくりんがいるのだから不機嫌にもなるだろう。自分で言っていて少し虚しくなってきたが、やはりこんな美人と比べたらちんちくりんはちんちくりんだ。
彼は、そんな美人の表情を気に留めることなく、何処までも爽やかに微笑みながら、何処までも爽やかに嘘を吐く。
「あぁ、職場の後輩だよ。今から一緒に打ち合わせに行くんだ」
「なんだ、後輩ね」
正確には、嘘ではない。嘘ではないが、真実を隠している。
ちらり、と彼の表情を盗み見るだけですぐにわかる。にっこりとした、爽やかな微笑み。これはよく見る他所行きの顔だ、薄っぺらくて、K・K辺りがおえーと嫌がる笑顔だった。それでも端正な顔を彩るには充分なようで、目の前のブロンド美人はほっと安堵したように、その豊満な胸を撫で下ろした。
「初めまして、後輩ちゃん。あんまりこの人を信用しちゃダメよ?すぐ嘘吐くんだから」
「ひどいなぁ、僕は思ったことしか言わないよ」
白々しい嘘だ。
「嘘ばっかり。今度ウチに来てくれるって言ったくせに、いつまで経ってもホテルのレストランばっかりなんだもの」
「へぇ、それはひどい嘘ですね」
当たり前だろこの野郎、と口汚い本音は上手な笑顔で隠すに限る。
にっこり笑って返答すると、どうやらブロンド美人は"対象外"と認定したようで、するりと彼の腕に絡み付く。うーん、見事だ。惚れ惚れするくらい素敵なアピールだった。ふわりと香る匂いには覚えがある、先週末彼がまとっていた香りだ。へぇ、この人だったのか、こないだの案件の情報元。
「おいおい、こんなところで困るよ」
「いいじゃない、その子だって気にしてないようだし?」
「仕事中なんだけどなぁ」
とか言いながら、振り払わないのはどういうことなんですかねぇ。そう言いたいのを一心に堪えて、にこにこと笑みを深めた。
傍目にはいちゃいちゃする先輩を微笑ましい気持ちで見ている後輩、というように演出がなっているだろう。本心は腸が煮えくり返るくらい面白くないが、それをここで出すほど愚かではなかった。だって、あくまで目の前のブロンド美人は仕事の道具なのだから。彼女の機嫌を下手に損ねてハニートラップの時間が上乗せされるなんて、それこそ冗談じゃない。
「今度また連絡するよ、素敵な夜を過ごそう」
「とか言いながらベッドまで連れて行ってくれないくせに」
「家で大事な子が待ってるからね」
何を言い出すんだこの人。
思わずばっとその顔を見上げてしまう。なんの為に、自分が外出中その服の裾すら掴まないようにしていると思っているのだ。
予想外の言葉に驚いたのは自分だけではない、猫のように腕に魅力的な身体を絡ませていたブロンド美人も同じで、その言葉の意味に気付いて思い切りショックを受けていた。
「…大事な子?」
「あぁ、大事な大事な、それこそ誰にも見せたくないくらい大事な子」
ハニートラップを仕掛けて尚誰にも背中を刺されずに生きてきたスティーブンとは思えない言葉で。どうしたんですか、この霧で頭可笑しくなったんですか。そう問いかけたい気持ちで一杯だった、だってバレたら困るのは彼だけではない。
「………どんな子なの」
驚きに何も発言出来ない自分より、回復の早いブロンド美人は流石にたくましい。ギラギラと熱の籠ったその瞳は、誰ともわからない大事な子よりも絶対に自分の方が魅力的と信じて疑わないと言わんばかりだった。残念ながら、それは真実なのだけど。
「うーん、そうだね、小柄で元気だ」
「ふぅん?」
「あと香水の匂いに敏感でね、君と会ったあとは一発でバレるんだ。嫉妬してるのか、宥めすかすのが大変なんだよ」
やかましい。大体わざと落とさないで帰ってくるくせに、よく言う。そもそも自分が彼の部屋にいる時に限って、ハニートラップを仕掛けてくるんだから自業自得だろう。
「そういうところも、可愛くて仕方ない」
ぶっと吹き出さなかったこと、ぼっと真っ赤にならなかったことを誰か褒めて欲しい。そんなこと、それこそベッドの上でくらいしか言わないくせに。
黙って聞いているブロンド美人はどんどん歪んでいく。そりゃあそうだろう、今まで狙っていて、しかもそこそこ"いいところ"までこぎ着けていた筈の男が、ぺらぺらと他の女のことを話しているなんて面白い筈がない。今すぐひっぱたかれたって可笑しくないくらい、スティーブンは彼女に対してひどいことをしている。そのひどいことを、嬉しく思ってしまう自分は、多分彼よりもっとひどい女だ。
「あとは、そうだな。ベッドの上に乗ってくると、結構大胆でね」
馬鹿か。危うく出かかった言葉を唇を噛み締めてなんとか堪える。本当に、なにを、言い出すんだ!
「キスをせがんでくるくせに、いざこっちがすると逃げ出しそうになるから、あわてて抱き締めるんだよ。そうすると途端に大人しくなる。可愛いだろ?」
絶句しているのは、ブロンド美人だけではない。これ、本当に何プレイなんだ。
「それに、僕が帰ると待ってましたと言わんばかりに、奥から急いで駆けてくるくらい従順で素直で……可愛くて仕方ないよ──餌が欲しいだけかもしれないけど」
餌、とは。
「きゃんきゃん吠えながら出迎えてくれるんだよ。可愛いだろ?」
「──なんだ、犬?」
にっこりと、スティーブンは否定も肯定もせずにその薄っぺらい笑みを深めた。なるほど、犬ですか、確かに貴方に従順な犬ですね。きゃんきゃん吠えた覚えはありませんけど。
ブロンド美人は安心したようにその豊満な胸を撫で下ろして、またその腕に擦り寄った。先程よりもっとずっと甘えているようなその行動は、本当に安心したからだろう。可哀想に。
「貴方が犬を飼ってるなんて知らなかった!一人寝が寂しかったらいくらでも付き合うのに」
「君のような素敵な女性を独占したら、どんな目に合うかわからないよ」
「やだもう」
きゃっきゃ、と先程までの不穏な空気はどこへやら。面白くないを通り越して、いっそ滑稽なくらいブロンド美人はスティーブンの掌の上で華麗に転がっていた。
このままその様子を眺めているのも中々愉快なのだが、そろそろ時間が押している。ちらり、と腕時計に視線を落とすと、彼も同じことを思っていたようで。
「すまない、そろそろ行かないと」
「アン、残念」
「また時間作るよ、君の為に」
「楽しみにしてるわ」
ちゅ、とその頬に唇を寄せるブロンド美人は、彼の薄っぺらい笑顔がほんの少し歪んだことに気付いていない。よしんば気付いたところで微々たるものだ、恋する彼女の瞳にその違和感は霧散してしまうことだろう。
ひらり、と色っぽく手を振って別れを惜しむように艶っぽい視線を向けられているにも関わらず、さらっと背を向けてスティーブンは歩き出した。慌てて後を追って裏路地に入ったところで、深々と溜息が落ちてくる。
「──やれやれ、会食前に疲れたな」
わぁひどい。
「あの女は切るか。しつこい、品がない、その割に大した情報も出てこないし」
女の敵だった。あんな美人を本当に道具としか思っていない彼は、そっとハンカチで頬のグロスを拭ったかと思いきや、ごみ捨て場に投げ捨てた。ひどい男だ。
「だから、安心していいよ、
「──なんです、それ」
「口許、ニヤニヤしてるけど?」
ぐう。ひどい男よりも、自分はもっとひどいようで。あんまりな言い種にも思わずニヤニヤしてしまうくらい、自分はあのブロンド美人に対して面白くないと思っていたらしい。最低だなと我ながら感じるが、正直言えばざまぁみろと舌を出したくなるくらい気分は爽快だった。
「スティーブンさんのせいで、性格歪んだんですよ」
「俺のせいにするなよ、君は元々そんな感じだったろ」
盛大に否定出来ない。 ぺろっと舌を出してみせると、彼はふっと笑った。先程のような薄っぺらい笑顔なんかじゃない気が弛んだ笑顔は、彼が浮かべる表情の中でも一、二を争うくらい好きなものだった。
「妬いた?」
わかってるくせに、敢えてこういうところはあまり好きではない。
「…妬きましたよ」
「おや、素直だね」
てっきり否定の言葉がくると思っていたのだろう。意外そうに目を丸くされから困ったものだ。たまには素直になりますよ、たまには。
「妬いてる君の顔って、本当にそそるよ」
そんな最低な言葉も、耳に息を吹きかけながら甘く囁かれてしまうともう駄目だ。ここが外でなかったら、今すぐその首に腕を回して抱き着いて、意地悪を言う唇を塞いでやるのに。
「…スティーブンさん、今日ってこの後の会食が終わったら、空きますよね」
「どうだったかな」
「じゃあ、私のために空けてください」
「いいよ。でも、なんで?」
わかってるくせに、敢えて言わせたいのだろう。この人は本当に意地が悪い。
「──今日はなんだか、スティーブンさんと一晩中抱き合っていたい気分なので」
覚悟しておいてください。と言外に伝えると、彼はそれはそれは楽しそうに目を細めて、意地悪くその口端をあげた。薄い唇がまた一層色っぽく彩られて、じわり欲望が込み上げてくる。
「明日も早いんだけどなぁ」
「嫌ですか?」
「まさか」
大歓迎だよ、と楽しげに笑う彼は、自分だけが知っていればいい。
多分、彼は今までのハニートラップはたくさんの女性を抱いてきている。それによって持たされた情報で、何度もライブラの危機を救っている。嫉妬しないと言えば嘘になる、もう二度と女の人を手込めにしないでと言いそうになったことは数えきれないくらいで。それでも毎度、口をつぐむのは、彼の本意は自分にあると思わせて貰えるから。
全部上手に隠そうと思えば、きっと彼は一切気付かせずに出来る。でもそれをしないというのは、後ろめたいことは一切ないよという意味で。自分と付き合ってから、スティーブンは恐らくハニートラップで女を抱くことはしなくなった。それは、義理立てなのかもしれないし、本当に興味がないからかもしれない。
ある意味信頼されているのだろう、ある意味自惚れているのだろう。自分が絶対に、スティーブンから離れていかないと、そう確信しているのだろう。
仰る通り、離れていく訳がない、今更離れていける訳などない。それが、痛いくらいお互いわかっていた。
だけど、まぁ、面白くないものは面白くないので。こういう時は、翌日のことは丸っきり考えずに彼を求めるに限る。はしたない、なんて言葉に躊躇うほど純情ではいられない。
「スティーブンさん、今日の会食、早めに終わりませんかね」
「鋭意努力しよう」
今夜は手酷く抱いてあげるよ、なんて耳許で囁かれてどくんと鼓動が跳ねていく。期待してしまうのは、浅はかだろうか。離れていく顔を見上げる表情に熱を込めると、彼はまた楽しそうに笑うからもっと心臓がうるさくなる。
ハニートラップの相手と街中で会うのは、これが初めてではない。スティーブンは数多の女性を、その甘さで騙して利用している。繰り返しになるが面白くはない、でもそれをお互いの情欲を盛り上げるひとつの材料にしているのは事実で。
多分、二人とも歪んでいるのだ──そして、どうしようもないくらいに、お互いに溺れている。
裏路地を抜けて、また素知らぬ顔をして、会社の、組織の先輩後輩に戻った。あぁ、はやく帰りたい、どこかのホテルでも良い。手酷くと言った言葉通りに、乱暴に、強引に、それこそ貪るように抱かれたい。はしたない、浅ましい、そんな言葉は今は知らない。そんなことよりはやくベッドでその肌を堪能したかった。
まだ熱が覚めないまま見つめていると、それに気付いた彼は片目を瞑って正してくる。それさえも、ひどくそそられてしまって。
「はやく、帰りたいなぁ」
そんな呟きに、吹き出した彼の唇を今すぐ塞いでやりたい。

いびつなはちみつ

15/06/20