嫉妬とは醜いものだ。
恋愛においての嫉妬とは、束縛、独占欲に付随していると思う。自分はそれを、絶対に口にしないと決めていた。そんなの面倒な感情には、蓋をしてしまえば良い。だって、もしその感情をぶつけて嫌がられたら、それこそ死ぬほど辛いだろう。だから、絶対に口にはしないと決めていた。
、この後クラブ行くけど、アンタどうする?」
会社の飲み会に参加するのは、久し振りだった。上司後輩入り乱れての飲み会が一次会で終わる筈もなく、二次会はクラブで行われるようだ。問いかけに答えようと唇を開くと、別の先輩が顔を出す。
「バカ、が来る訳ないじゃない。あーんな素敵な恋人がいるのに」
刺のある言葉だったが、あまり悪い気分にならなかったのは、ひとえに先輩の人柄に他ならない。ひた隠しにしていた彼の存在は、付き合うようになってからしばしば送迎をされるようになったことで呆気なく明るみになってしまった。
「そっかぁ、そうよねぇ、来ないわよねぇ」
酔っぱらっているのだろう、いつもより舌ったらずな同僚は、つまらなそうに吐き捨てた。いやいや、こちらの意見も聞かないで決めるのは早計ではないだろうか。
「…行ってもいいけど」
「え?」
「二次会なんでしょ?」
「いいの?彼は?」
「アンタ怒られたりするんじゃないの?」
「彼も大人だし、別に平気じゃない」
酔いが回っているだろう先輩が、グラスを置いたかと思いきや、わしゃわしゃと頭を撫でてくる。当然ながら髪が乱れてしまって、慌ててその手から逃れると、今度は抱き締められた。うーん、酒臭いが、柔らかな身体は悪くない。
「先輩?なんです急に」
笑いながら抱き止めると、今度はぐりぐりと額が頭に擦り付けられた。地味に痛い、本当になんだと言うのだろう。
「喧嘩でもしてんの?」
「…してないですよ」
「ふぅん?」
どうやら、慰めようとしてくれているらしい。そんなに自分の態度はあからさまだったろうか、少し情けなくなる。
喧嘩はしていない、喧嘩に発展するような大きな問題ではない。単純に、自分が拗ねているだけなのだ。いや、拗ねているというには、少し可愛いげが足りないだろう。これはもっと醜くて、どす黒い感情だ。
先日、彼との約束が急にキャンセルになった。それはよくある話だ、自分だって同じことをしたことがあるし、特別目くじらを立てて怒ることはない。少し寂しかったが、それでもやはり自分達は社会人なのだから、こういうことがあったとしても仕方がないのだ。
そんな風に無理矢理納得をして、家路をぷらぷらと辿っていると、不意に路地裏で絡み合う男女が目に入った。長身の男性が覆い被さり、その腕と壁に閉じ込められていた女性は求めるように首に腕を回していた。別に珍しくもない普通の光景だ、多少は恥じらえとか、若いなぁとか思わない訳でもなかったが注視するようなことでもない──その男性が、自分の恋人でなかったら。
スティーブンは、見慣れたスーツに身を包んでいた。見間違える筈などない、だってそのスーツにアイロンを掛けたのは自分だった。彼は、腕の中の女性の耳許で何か囁いているようで、女性は擽ったそうに身を捩っている。仲睦まじい、恋人同士に見えた。お似合いだ、自分なんぞよりよっぽど。
そう思った次の瞬間、そんな光景などは見たくもなくて慌てて駆け出した。ヒールの音がけたたましく路地に響いてしまったから、彼らも気付いているかもしれない。でもそんなことに構っている余裕などはなかった。それより、この場から逃げ出したくて仕方なかった。
多分、おそらく、きっと、あれは浮気ではない。満身でもなんでもなく、彼の方に甘さはなかったと思う。世界の均衡を守っている彼は、色々と情報を得るための手段が必要らしく、ああいったこともするらしいと以前伺ったことがあった。所謂、ハニートラップというものだ。彼くらいの色男なら、それがどれだけ効果的なのかは痛いくらいわかる。わかっていても、苦しいものは苦しくて。でもそれを素直にぶつけるほど、幼くはなかった。
その日から二週間──彼との約束を、一切拒絶している。
今日だって本当は、仕事終わりにご飯でも、と誘いが来ていた。普段であれば、会社の飲み会などすぐに断って飛び付く誘いだ。しかし、今自分は彼とディナーをせずに、会社の飲み会で安い酒を煽っている──つまりは、そういうことだ。ここ二週間、全ての誘いを体よく断り、連絡も適当な理由をつけて控えめにしている。声だって、あの日以来一度も聞いてなかった。
彼に、会いたくなかった。それは怒っているからとかそういう可愛らしい理由ではなく、会ってしまったらもう止まらなくなってしまうからだ。そんな無様な姿は見せたくない、案外自分は見栄っ張りなのだ。
「はーい、じゃあそろそろ移動しましょー!」
そんな号令を聞くや否や、ぞろぞろと移動を始める面々の多さたるや。暫く参加しない内に、結束が強まっていたようである。普段からランチを共にする先輩同僚について外に出ると、少し肌寒かった。酒のせいで火照った身体には丁度良い。心地よい風に目を瞑ったが、ぐい、と服を引っ張られてしまう。
「なんです、先輩」
「あれ、アンタの男じゃない?」
「はぁ?」
いる訳がない。きちんとメールにはキャンセルの連絡だっていれたし、そもそもどこの店で飲むかなんて教えてないのだ。
胡乱な目で先輩が指し示す方向を見ると、さぁっと酔いが一気に覚めた。見慣れた車に腰を預けて、時計を見ている姿の絵になること。久し振りに見たその姿にドキリと胸が高鳴り、同時にぐわっと腹の奥から暗くて重い感情が顔を出す。まずい、このままではまずい。
どうせ、仕事相手を待っているのだろう。まさか自分を待っている訳がない、それにまた腹の奥が暗くて重いものが広がりそうで慌てて視線を逸らそうとしたその瞬間。
なんてタイミングが悪いのだろうか、バチリと目がかち合ってしまった。蘇芳色の瞳は相変わらず綺麗で、一度絡まってしまうともう抜け出せないのだ。まるで縛り付けられたようにその場で固まっている自分とは違い、彼の足取りは軽かった。ずんずんこちらに向かってきたかと思えば、ぱっと腕を取られてしまう。その時の自分を見下ろす瞳の、冷たさと来たら。
そのままスタスタ歩き出されてしまうと、勢いに呑まれて続く他はない。助けを求めようと先輩や同僚を振り返ると、ひらひらと笑顔で送り出されてしまった。おいこら、さっきの慰めは一体どこへ言ったんだ!
「す、スティーブンさん」
「黙って」
どうやら聞く耳持たないらしい。名を呼んだが、振り返りもしない彼は、どうも怒っているらしい。強制的に助手席に押し込まれて、バタンと扉を閉められてしまったら、もう何も言えなかった。
彼が運転席に座ると、嫌な沈黙が車内を支配する。久し振りに会えたというのに、嬉しさより気まずさが上回っているなんてあんまりじゃあないだろうか。
「最近、」
静かな車内に、彼の声が響いて、思わず息を飲む。
「全然連絡をくれないし、どうもつれないけど」
いきなり確信から付いてくる彼は、あまり余裕がないらしい。苛立ちを孕んだ声に、びくりと身が震えるのは仕方ないだろう。
「──この間のことが、関係ある? 」
ない、と明るく言えていたら、今日自分は会社の飲み会なんぞに顔を出していない。思わず唇を噛み締める、そうしていないと何もかもぶちまけてしまいそうだった。
「やっぱり、君だったのか」
人の職場の帰り道であんなことをしておいて、やっぱりとは何事だろう。やれやれと溜息を吐く姿は苛立ちを隠せていなくて、嫌な予感と嫌な汗でいっぱいになる。
「あれは、仕事だ。何の気持ちもない、ただの仕事」
わかっている。
「君と付き合ってから、俺は君しか抱いてないんだ。嘘じゃない」
知っている。
「だから、彼女とのことは浮気でもなんでもなくて……誤解しないで欲しい、俺が愛しているのはだけだよ」
それでも、
「それでも、嫌なものは嫌なの」
言うつもりはなかった。言いたくなどなかった。でも、彼の顔を見たら否が応なく感情が膨れ上がる。だから、会いたくなかったのだ。
ぼたぼたと、いつの間にか溢れてきた涙が止まらない。頬を伝って顎まで到達した涙は、スカートにいくつもの染みを作っている。視界が滲んで、何もかも見えない。見たくなかったから、都合が良いのかもしれない。こんな子供じみたことをいう自分に、幻滅している彼の顔なんて。
「面倒、くさいでしょ、知ってる。でも、わたし、仕事だって、そこになにもないってわかってても、ゆるせないの、いやなの」
一度堰切ってしまった気持ちは、もう止まることを知らずにするすると溢れだしていく。こんなこと言い出して、こんな風に泣くなんて、ひどいにも程がある。泣いたら負けだと思っていた、だから気持ちが落ち着くまで彼を避けていたのに、向こうから来られたら避けようがないじゃないか。
「──許さなくて、いいよ」
ふわり、と髪を撫でられた。どこまでも優しいその手付きに、目を見開くとまたぼたっと涙が落ちた。思わず彼の方を見ると、嬉しそうなでも少し辛そうな、なんとも言えない表情の彼がハンドルを持った片手に頬をつけている姿が目に入った。
「泣かせて、ごめん。でも、俺は多分あれをやめることは出来ない」
痛いくらい、わかっていた。だから、やめて欲しいとは言えなかった。
「俺はひどい男だから、今嬉しいと思ってる。待ち合わせ場所で逆ナンされてても平然としてる君が、こんな風に泣いてくれるなんて、愛されてるってわかって、すごく嬉しい」
それはひどい男だ。こんな風に、年甲斐もなくぼろぼろ泣いている女を見て喜ぶなんて特殊な性癖としか思えない。
「ひどいことをしてる自覚はある、でもやめてあげることは出来ない。だから、は──許さなくて、いい」
残酷な程に、優しい言葉だった。神様だって、懺悔に対してここまで優しくはないだろう。怒って良い、拗ねて良い、泣いて良い、妬いて良い。普通であれば宥めている時にそんな言葉が出てくる訳がない。それを、彼は認めてくれると言うのだ。許さないで良いと、許可を与えてくれるのだ。
それは同時に、宣言でもあった。これからも、怒らせるし拗ねさせるし泣かせるし妬かせると、そういう宣言でもあった。ひどい、あんまりだ。でも、それでも離れていこうと、幻滅だと、思えないからもうだめだ。見栄を張っていた自分が馬鹿みたいだ。
「ひどい、よ」
「うん、ごめん」
「ずるい」
「うん、知ってる」
「許さないよ」
「いいよ、許さないで」
どこまでも優しくて残酷な甘い声。なんとも言えない表情は、喜びの色がどんどん強まっている。そんなふにゃりとした笑顔に心打たれている自分は、多分本当にもう駄目なんだろう。だって、彼を失うくらいなら、この辛さを味わう方がもっとずっとマシだと思っているのだから。
「──本当に、一生許さないから」
まるでプロポーズのような、でも本来のそれよりもっと、どす黒くて暗くて重い感情からの言葉に、彼は一層嬉しそうに笑う。
「それは、光栄だな」
多分この人は、失うことを何より恐れているのではないだろうか。だからこそ、今回糾弾されることも覚悟の上で会いに来たのではないだろうか。泣いた自分を見て嬉しそうだったのは、まだ想いがあるとわかったから。
そんな風に確かめなくたって──自分は、もうとっくのとうに捕まっている。
「好きだよ」
「うん」
頷くと髪を撫でていた手が涙で濡れた頬を優しく撫でる。心地よい指だ、思わず目を細めると、親指がそっと目元の滴を拭った。
彼はそっと身を起こしたかと思ったら、こつんと額を合わせてくる。近すぎるその距離は、ひどくいとおしかった。子供みたいにぐりぐりと返すと、彼は楽しげに笑った。ハンドルを持っていた片手が、空いてる頬から耳裏を擽るようにするりと撫でてくるから思わず笑うと彼は一層笑みを深める。
「愛してる」
「…うん」
「君は?」
「知ってるくせに」
「うん、でも聞きたいな」
その口から。言いながら、一つ優しい口付けが落ちてくるから、もう堪らなくなって、涙が乾いてパリパリになった頬を無理矢理綻ばせて、一つ口づけを返してからそっと囁いた
「あいしています、だからゆるしてあげない」
語尾は、彼の唇に溶けて消えた。でも十二分に伝わっていることは、入り込んできた舌が教えてくれた。それに吸い付いて、そっと首元に腕を滑り込ませる。久し振りの口付けは、涙が滲んでしょっぱくて、でもやっぱり──幸せなものだった。

きみの許し

15/06/22