人間、誰でも何かしらの癖というものがある。
かくいう自分も癖は多い、しかしながら何故か自分では中々気付けないもので人に指摘されて初めて、あぁそういう癖があったのかと認識することがほとんどだ。
彼、スティーブン・A・スターフェイズも例に漏れず、癖がある。自分が知る限り、これは癖と認識せざるを得ない。本人は気付いているのだろうか、もし気付いているのだとしたら、それは誰か他人に指摘されたということだろうか。だったら、気付いていないと良い。そんな狭量なことを考えながら、目の前の熱い瞳と視線を絡ませる。
するり、輪郭を撫でられたと思ったらそのまま両手で固定される。少し上を向く程度でそんなに辛くないのは、彼が気遣ってくれているから。ぐっと思い切り背中を丸めて屈んでくれる彼の優しさにドキリと心臓を跳ねさせながら、斜めに傾けられた端正な顔が近付いてくるのに合わせてそっと瞼を下ろす。やがて来る、存外柔らかな唇の感触が好きだ。
一度目は触れるだけ。二度目はちゅっと、音を立てて啄んで。三度目になると上唇を舐められるので唇を少し開く。
忍び込んでくる舌に小さく吐息を漏らすと、彼が目を細めるので、それをこっそり盗み見るのが好きだった。
「っは、ぁ」
「、ん」
舌を絡ませて、口の中をお互い貪り合っていると自然に唾液が溢れてくる。それを無視して更に貪欲になるから、口端から漏れ出たりするから、彼はいつも適当な頃合いで唇を離す。息が切れて半開きのままぼんやりとそれを見送っていると、自分の舌と彼の舌が唾液の糸を引いていて、とてもいやらしく感じた。彼は、それをぷつんと切るように次は下唇をぺろりと舐めて、広がる口紅の味に少し眉根を寄せている。ぼんやり見ていると、彼の唇には自分の唇から移っていたであろう口紅の色が滲んでいて、その表情と相まって、どうしようもなく色っぽい。くらくらするのは、酸素が枯渇しているからとかそんな物理的な理由でないだろう──間違いなく、彼に欲情しているのだ。
「──やらしいね」
どっちが、と言える元気も、冷静さもない。
彼の親指は、いつの間にか唾液で滲んでいる唇に添えられていた。ぐっと力を込めて唾液とよれた口紅を拭うから、いつもほんの少し痛いのだけれどもそんなものはお構いなしだ。ちらりと視線を向けるとその瞳に情欲が浮かんでいて、被虐心が煽られる。変態か、こんな趣味などなかったというのに。
唾液と口紅で汚れた親指をぺろりと舐めたかと思うと、次の瞬間には噛みつくような勢いで唇を奪われる。今度の狙いは舌ではなく、唇だ。
ちゅっと下唇に吸い付いてきたと思ったら熱い舌がぺろりと舐めてきて、こちらも負けじと彼の唇に軽く吸い付こうとするとそれを防ぐように離れていって、次は下唇をゆっくりと舌先で舐められる。それを上下で幾度となく繰り返した後、糸を引きながら離れる彼は、それはもう色気がたっぷりに笑っていて。ぞわぞわっと背筋に走るのは寒気ではなく、紛れもない欲望だ。
堪らなくなって自分から彼の後頭部に手を伸ばしてぐっと引き寄せる。抗うことのない彼の唇にかぶりついて、薄く開いた唇の隙間からそっと舌を捩じ込んで思い切り引っ込んだ舌に吸い付いて。そうするともう、彼の領域だ。自分なんかの拙いテクニックでは到底敵わない。でも翻弄されるままに吐息を漏らしている自分に、彼はいつも満足げだからそれでいい。
舌を上に押し上げられたかと思ったら、裏側をつぅ、と舐められて、びくりと腰が跳ねた。快感に思わず目を見開くと、蘇芳の瞳がすぅと細められて、ぞくぞくっと身体が震えた。それと同時に腰を支えている片手の指が、つぅと誘うようになぞりあげるからもう駄目だ。
ぐらりと理性の糸が切れたのをいいことに、彼の後頭部に忍ばせた両手を彼の襟元へ移動させる。きっちりと締められているネクタイを外そうとするも力が入らなくて上手く出来ない。そんな様子に気付いた彼は片手をそっと自分の手に重ねて外すのを手伝ってくれるのだから流石だ。その間も舌先は先程から人を気持ちよくさせようと水音を立てながら蠢いているのだから、だんだん腰が立たなくなる。崩れ落ちそうになる自分の身体を心得たとばかりに添えられた手がしっかりと支えているなんて、用意周到にも程がある。
ようやくネクタイが外れると、彼の手が髪を撫でながら後頭部に添えられて、あ、まずい、なんて思っていたらもう遅い。上顎からぐるりと歯茎を舐められたと思ったら、また舌が絡め取られて裏筋をこれでもかと言わんばかりにめちゃくちゃになぞられるから、震えながら必死に彼の襟を掴んだ。いよいよ腰が砕ける、と思ったすぐ後に、ぷはぁと唇が解放されて、たらりと口端から唾液が溢れる。もう、唇はおろか、口の周り中べとべとだ。はぁ、はぁ、と息も絶え絶えに歪む視界で彼を見つめると、ひどくご満悦そうだった。こつん、と額が合わせられて鼻が重なりあって、射抜くような蘇芳の瞳とかち合うと、
「ベッド、行こうか──」
なんて、周りくどい誘いが降ってくる。息が整わない内に聞いてくるから、頷くのも声を出すのも億劫で、唾液まみれの唇を押し付けることでイエスと返す。どうせこれから嫌というほど喘ぐことになるのだ、喉を温存するくらい良いだろう。そんな無言の誘いに目を細めた彼は、ひょいと自分の身体を抱えあげるから、あとはもうそれこそ為すがままだ──長くて、甘い甘い夜の始まりである。



:::



「スティーブンさん、唇舐めるの癖ですよね」
「…なんだい、急に」
くたくたの割に、小綺麗になった身体をベッドに預けつつそんなことを呟くと、シャツを羽織った彼にくしゃりと濡れた髪を撫でられる。その手つきに先程までのいやらしさはなく、ただひたすらに甘さだけが乗ってくるから、心地よさに思わず目を細める。
「いや、だって、よく舐めてくるから」
「まぁ、確かにそうかもね」
「…自覚あったんですか」
「そりゃあるよ。お陰で君の唇はカサカサだ」
伸びてきた指先が、ふに、と唇を押してきた。彼が舐めるせいでいつだって乾燥している。彼のいうとおり、今だって少しばかりざらついているのではないだろうか。女性としてどうなんだ、と思わなくもないが、それでも彼は舐めるのをやめないし、自分もそれほど強く止めたことはなかった。だが、指摘するのはどうなのだろう。思わず睨み付けると、肩を竦められた。
不意に、親指が唇の輪郭をなぞってきたと思ったら、ぽつりと彼が呟く。
「…君の唇は、口紅要らずだよな。赤くて、飴玉みたいだ」
「はぁ」
急になんの話だ。確かに、唇の発色は良い。血の気が多いのか、口紅をしたところで色合いが大して変わらないから、化粧をしてるときはたまに虚しくなる。
「だから、ついつい舐めたくなってね」
「…理由になってませんよ」
「そうそう、知ってた?」
聞けよ、人の話。
「舐めるとまた、色付きが良くなるんだよ、それこそ本物の飴玉にも負けないくらい」
まぁ、以外にはそう思わないけど──と付け足された言葉に視線を逸らす。僅かな嫉妬心も見抜かれているのかと思うと、恥ずかしくて仕方ない。それと同時に、彼の言葉が嬉しくて堪らなかったから困ったもので。なんの理由にもなってないし、全く納得出来ないというのに反論がまるで出てこない。惚れた弱味だ、いつだって自分はスティーブンに敵わない。
「あぁ、あとは…そうだな」
何の気なしに呟かれた言葉に、ちらりと視線を戻すと、いつの間にか、ちゅ、と耳許に寄せられた唇が落ちてきて、どうしようもないくらいに甘い声が吐息と共に襲ってくる。
「唾液の濡れた、君の唇が色っぽくて仕方ないから、欲情する──だから、つい、ね?」
何を恥ずかしいことを。と言いたい気持ちだけは目一杯なのに、唇をなぞられているから声が出せない。というのは言い訳だ。ドキドキうるさい鼓動を押さえるのに必死になっていて、そんな余裕はまるでなかった。
「君も、気付いてたんじゃない?」
なんの話だ、と返せるくらい自分はもう純粋ではなかった。
そう、彼が唇を舐めた時、必ずと言っていいほど、自分はそのまま抱かれる。特に、余すところなく唇を唾液まみれにされた時などは、ぐずぐずになるまで甘く抱かれる。それは、いつの間にか暗黙の了解というか、二人だけの合図のようなものになっていた。
なにも言えず、押し黙っていると追い討ちのように彼は唇を開く。
「──もう一回、舐めようか」
誘うような言葉が耳に吹き込まれて、頬が急激に熱くなる。くすっと吐息混じりの笑い声が耳を刺激して、びくりと肩が震える。
先程唾液まみれにされたばかりでぐずぐずになるまで抱かれたばかりだ、文字通りくたくたの身体だ、もうこのままはやく寝たい。その筈なのに。
つぅ、と唇をもう一度なぞられて、ついつい薄く開いてしまう。蘇芳の瞳には、いつの間にか色が蘇っていて。彼の薄い唇が美しい弧を描いたまま、見つめてくるから。誘われるままに、舌先を出して、その指を舐めてしまった。
吸い寄せられるように、落ちてきた唇。一度目は触れるだけ。二度目はちゅっと、音を立てて啄んで。三度目になると上唇を舐められるので唇を少し開いて。案の定舌が忍び込んできたかと思ったら、今回は口内を貪るのもそこそこに離れる。どうしたのだろう、と怪訝に思っていると、意外に熱い舌先にべろりと唇を舐められる。かさついていて、口紅も乗っていない唇が一瞬で、彼の唾液によって色付いた。それを見て、満足そうに笑みを深める彼を見て、ぞくりと身体が震えるには仕方ないだろう。
明日は遅出だったろうか。休みではないことは確かで、それでも彼を拒めないのだから、自分の唇が唾液まみれになるまで時間はそんなに掛からない──くたくたの身体が、悲鳴をあげながらも彼の欲の全てを余すことなく受け止めるのは、もうすぐだ。

濡れた唇に誘われて

15/06/27