彼から誘いが来た日は、いつだって忙しなくなる。
仕事だって普段ならば適当に力を抜いてやっているのに、その日だけは残業回避のために文字通りがむしゃらになって処理する。我ながらわかりやすいその行動に後輩同僚は毎度毎度からかってくるが、そんなものは無視してひたすら机に向かう。
何せ恋人である彼は忙しい、自分なんかよりよっぽど仕事を抱えてるし、肉体労働だってある。そんな彼が、わざわざ自分のために時間を作ってくれているのだ、こちらの事情で断るくらいなら死ぬ気になって仕事をする。そもそも、自分だって彼に会いたいのだ。
だから、なるべくはやく仕事を終えていつもより念入りに化粧を直す、待ち合わせまで時間がある日は着替えるために一度自宅に戻るくらいだ。出来るだけ小綺麗にしていたい、少しでも可愛いと思ってもらいたい、今までどこかに隠れていた乙女心が自分を突き動かしていた。
定時になると、挨拶もそこそこに慌てて職場を後にした。デートいってらっしゃい、なんて余計な言葉を背中に受けながら、バタバタと早歩きで待ち合わせ場所へ向かう。本当は今すぐ駆け出したいのだが、汗をかいてしまったらせっかく直した顔も髪もよれるし、何よりそんな姿で彼に会うのは恥ずかしい。楽しみにしていることは別に隠さなくてもいいのだが、何分この歳になってまでそんなはしゃいでいるなんて知られるのは流石に憚れる。
ほどなくして、待ち合わせ場所に辿り着いたが彼の姿はなかった。いつも絶対に自分よりはやく到着しているであろう彼にしては珍しい、いやまだ時間前なのだけれども。
息を整えつつぼんやりと待っていると、不意に携帯電話が彼からの着信を告げる。慌てて受話器に耳を押し当てると、破裂音が響いた。
『…あ、?悪いんだけど、ちょっと、あー15分くらい、遅れそう、だっ』
ドカン、とか、ぎゃあ、とか、色んな音をバックにしながら、普段とそんなに大差ない声が受話器越しの耳に届く。
『ごめん、5分で蹴りをつけるから、どこか店に入っててもらえる、かな!』
どうも、戦闘中らしい。先程から語尾が強いのは、きっと彼の蹴りが炸裂しているからだろう。どうでもいいのだが、戦闘中にこんな電話をしていて大丈夫なのだろうか。
「わかりました、怪我しないように気をつけてくださいね」
『おや、心配してくれるのかい?嬉しいなぁ』
ふふ、と笑い声まで聞こえる辺り、彼は随分と余裕たっぷりだ。戦闘中だというのにそんな無邪気な声が出せるなんて本当に強いんだなぁとぼんやり思うが、自分との電話で怪我でもされたら堪ったもんじゃない。
「いいから、目の前のことに集中してください」
『オーケイ、じゃあまた後で、ね』
手短に電話を終えると、ふぅ、と息が漏れる。連絡は嬉しいが、もう少し落ち着いた時にして欲しい。
何分彼の仕事は予定通りとはいかないので極々稀にこういうことがある、しかし未だに慣れないのは自分が単なる一般市民だからだろう。それでも自分との時間のために奮闘してくれるのは確かに嬉しくて、思わず口許だって弛むというものだ。
さて、時間があることだし、彼のいうとおり適当な喫茶店にでも入ろうか。電話を鞄に押し込んで歩き出したその時、どんっと肩に軽い衝撃が走る。どうやら通行人と肩がぶつかってしまったらしい。
「すみません」
「おぉ、気を付けな嬢ちゃん…って、?」
慌てて謝罪をすると、ぶつかった相手に名を呼ばれる。はて、知り合いだったろうか、伏せた目をあげるとそこには、片目を覆い隠すほどに長い前髪を流し、まるで古い映画でよく見るハードボイルドのようなベージュのロングコートを羽織った男──ダニエル・ロウがいた。
「あ、刑事さん!」
「警部補だ」
「失礼、警部補さん。お久し振りです」
そうそう、警部補だった。へらりと笑って誤魔化すと、やれやれと肩を竦められた。ここで怒らない辺り彼は大人なのであろう。
ダニエルとは以前、異界側の人間が何故か降ってきた隕石にぶち当たってそのまま職場に突撃してきた際、事情聴取を受けたことにより知り合った。場所が悪いのかなんなのか、我が職場は何故か頻繁にそういった不運な事故、もしくはドンパチに巻き込まれて毎度毎度倒壊の危機に瀕しながらも毎日元気に営業していた。その度にわざわざ彼は現場検証にやってくる、極めて勤勉な警部補なのだ。
「こないだ会ったのは…パーキストビルの件だったか」
「ええ、お陰さまで今回は窓が割れたくらいで済みましたけど」
「いい加減職場変えたらどうだ?あんなところじゃいつ死ぬかわかんねぇぞ」
「そんなのこの街に居たら、どこだって一緒ですよ」
「違いねぇ」
けらけらと笑う彼は、職場が何度目かの不幸なとばっちりを食った辺りから、何故か身の安全を気にしてくれているようで、会う度にやれ転職だやれ移転だを勧めてくる。まぁ、知り合った一市民が何かしらで死ぬのは彼にとって寝覚めが悪いのだろう、気持ちだけは有難く受け取っていたが、あまり真摯に聞いていないために、最近では挨拶の常套句となり始めていた。
「ところで、この辺で何かあるんですか?」
「俺がいるところにいつも事件がある訳じゃねぇぞ」
ごもっともである。しかしながらいつも何かしらの聴取で会っているため、ついつい身構えてしまうのだ。それに、今日はこの後デートなのだから、近辺を気にするのは当然だ。せっかくオフになった彼との時間を、事件という自分ではどうしようもない事態に盗まれるのはあまり嬉しくない。こっそり安堵の息を漏らしていると視線を感じる。ダニエルかその三白眼で、自分の出で立ちを上から下まで見つめていたからだ。セクハラ、と訴えられてもおかしくない行為だが、彼がやると純粋に観察しているようにしか感じられないので、騒ぐ方がどうかしているとさえ思う。居心地の悪さで、視線を彷徨わせていると、ふむ、と頷いたダニエルが唇を開いた。
「それにしても、今日は随分めかし込んでるじゃねぇか」
「そうですか?」
「あぁ、いつもとは比べ物にならねぇ美人さんだ」
「そりゃどうも」
軽口に肩を竦めながら礼を言うと、本気だぜ、なんて追撃が来て思わず吹き出してしまった。彼とするこういった軽口の応酬は、出会った当初からのお決まりみたいなものだ。それがまた嫌ではなく、どちらかと言えば楽しいものだから、ついつい自分も乗っかってしまう、どうやらネオンの時間帯はいつも勤勉な警部補殿の口が更に軽くなるらしい。
「お上手ですねぇ、そうやっていつも女の人から犯人に至るまで口説いてるんですか?」
「さぁてね。知りたきゃ、この後付き合うんだな」
「残念、間に合ってます」
「まぁそうだろうな、一体どんな男引っ掛けたんだ?」
「警部補さんよりも、ずーっと男前ですよ!」
「言ったな?」
責めるような視線に、へらっと笑うと肩を小突かれたが痛みはあまり感じない。どうやら手加減してくれているらしい。流石ハードボイルド、女子供には優しくしてくれるようだ。
「しかし相手はまだか?こんな時間だと、流石のお前さんでもナンパされ兼ねないぜ」
「流石のってなんですか、どうせ色気がありませんよ。…んー、もうそろそろ来ると思いますけどね、仕事が押してるらしいです」
腕時計を見ると、先程電話を受けた時刻からもう5分以上経っていて。あと10分少々、それならばどこかへ入るよりこのまま待っていた方が良さそうだ。
「警部補さんはあれですか、事件じゃないならデートですか?」
「生憎とそんな暇はねぇよ。今飯食ってきたところでな、これから署に戻って夜勤だ」
「わー…お疲れ様です」
「なんだ急に、殊勝な態度じゃねぇか」
ダニエルははっはっはっ、と笑ってバシバシ肩を叩いてきた。地味に痛い。そんなに物珍しいのだろうか、こんな時間から仕事の人間を前にしたらいくらなんでも労るだろう。
唇を尖らせていると不意に、肩を攻撃していた手が引いたかと思うとぽんっと頭に置かれた。そのままわしゃわしゃっと撫でられ、慌ててその手から逃れようとするも時既に遅し、せっかくまとめた髪が台無しになっていた。
「ああああ!せっかくきれいにしてたのに!!」
「こっちの方がお前さんらしくていいんじゃねぇか?」
あんまりだ、最低だ。ギロリと睨み付けながら慌ててその悪戯な手を振り払おうとすると、ふわりと嗅ぎ慣れた香水の匂いが香る。あれ、と思っていると、自分の頭をこれでもかと乱していたダニエルの手が動きを止めた──いや、正確にはその手首に掴んだ割と無骨な手によって止められていた。
「──やぁ、こんなところで会うなんて奇遇だなぁ、ダニエル・ロウ警部補」
耳に響く声は、よくよく聞き覚えがあった。なんならつい5分程前に聞いたような、でもいつもよりなんだか張り詰めているような、威圧感のある声だった。
振り返ろうとすると、ぐっと肩を掴まれ、そのまま引き寄せられて、一、二歩後退してしまう。とん、と後頭部と背中が何かにぶつかってしまったかと思いきや、優しい声が耳を擽った。
「お待たせ、。遅れて悪かったね」
「あ、え、スティーブンさん?」
ばっと上を向くと、そこには待ち焦がれた愛しい恋人が立っていた。いつの間に、というか随分とはやい。ちらりと腕時計を見ると針は丁度待ち合わせ時刻を示していて、遅れるどころかぴったりの登場だった。
「…お前、」
「え?」
「千兄弟のパーティー以来かな?久し振り」
「え?え?」
混乱していると、見上げた彼はくすりと笑って額にキスを落としてきたから驚きだ。いつもだったら、こんな街中で、しかも人前でこんなことなど絶対にしないのに。羞恥と嬉しさと驚きで頬を染めていると、不穏な視線がビシバシと飛んできて、慌ててそちらを見ると、スティーブンに腕を掴まれたままのダニエルが顔を歪めていた。
、お前が待ってた相手は、もしかして"それ"なのか?」
"それ"とはあんまりな言い種だ。
「あれ?、もしかして君、"これ"と知り合いだったのかい?」
あんたもか。
頭の上で繰り広げられる不穏な視線と言葉の応酬に、すっかり尻込みしてしまう。それでもやっぱり答えない訳にはいかないようで、おずおずと唇を開く。
「えっと、あの、私の待ち合わせの相手はスティーブンさんだし、警部補さんとは確かに知り合いだけど…」
それが、一体なんなのか。心底聞きたかったが、言葉に出ることはなかった。何故だか知らないが、自分を挟む二人の空気が一、二度冷えたような気がしたからだ。
というか、この二人こそ知り合いだったのか。言われてみれば警部補と秘密結社の副官である二人は、方法は違えども街を守るために日夜奮闘しているのだから、知り合いでもおかしくない。しかし、だとしたらこの雰囲気は一体なんなのだろう。不穏だ、実に不穏だ。
「へぇ、あのライブラの重鎮ともあろう方が、こんな一般人引っ掛けてたとは驚きだな」
「引っ掛けるなんてとんでもない、引っ掛けられてるのは僕の方だよ、なぁ?」
話題を振るのをやめて欲しい、と彼に思うことになるとは思わなかった。というか、引っ掛けるとは何事なのだろうか。
困惑しているこちらに気付いたのか、スティーブンは掴んだままだったダニエルの手首をぱっと離したかと思うと、ぐしゃぐしゃにされた自分の髪をそっと撫でてきた。その手付きの優しさと来たら、今までの不穏な雰囲気はどこへやら、甘ったるい視線と共にゆっくりと髪の感触を楽しむように乱れを直していた。
頬が益々熱くなる、急にどうしたのだろうか、こんな街中でこんなことをするような人ではないと思っていたのだが。それでも振り払えないのは嬉しいからで、困ったように視線を逸らすとくすり、と笑い声が落ちてきた。
「髪、乱れてるの珍しいね?」
「あぁ、さっき警部補さんが悪戯してきて…」
「へぇ?」
あれ、さっきの甘さはどこへやら。 張り付けたような笑みを浮かべたスティーブンの空気は冷えきっていて、優しい手つきは相変わらずだったが確かに怒っているようにも見える。
何かまずいことを言ってしまっただろうか、おろおろと自分の行動を思い返していると、不意にぶっと何か噴き出したような音が耳に届く。ぱっと視線をそちらに向けると、ダニエルが顔を俯けて肩を震わせていた。
「警部補さん…?」
「いや、悪い、なんでもない…くくくっ」
とか言いながら、笑っている。何が可笑しいのか、三白眼を細めてダニエルは実に楽しげだ。
呆然と見つめていると、ひらひらとダニエルが片手を振る。一体なんなんだ、今日何度目かの不可解な対応に眉間の皺が深くなった。
「いやいや、まさか、あのライブラの伊達男が、なぁ?」
「…何か?」
「なんでもねぇよ、そんな睨まなくても俺ぁそんなちんちくりんに興味ねぇから安心してくれ、番犬」
「ちんちくりんとは何事ですか!」
「ちんちくりんはちんちくりんだろ」
ぐう。確かにちんちくりんだが、そこまで言わなくても良いのではないか、思わず唇を尖らせるとぐいっと顎を持ち上げられて強引にスティーブンの方向を向けさせられる。
驚いて瞬きをしていると、正面には少し不貞腐れたような、子供っぽい表情を浮かべる愛しい恋人が。え、どうしたんですか、と聞く前に、やはりダニエルの笑い声が邪魔をしてくる。
「こいつは傑作だ、まさか本当に"それ"が引っ掛けられてるとは!」
「…うるさいな、はやく行ったらどうだい?仕事があるだろう、警部補殿」
「言われなくとも、これからお前らの尻拭いだよ」
先程より、ほんの少しだけ和らいだ空気だったが、ダニエルの顔を見ることは敵わない。何せ顎を固定されたままだ、眼前に広がるのは、ネオンといつもより可愛らしい表情の端正な顔立ちだけで。それはそれで悪くないなぁなんてぼんやり考えているから、自分は相当やられているのかもしれない。
「それじゃ、またな、
「あ、はい、また」
「…」
「うるせぇな、なんもねぇから安心しろって」
「…なにも言ってないよ」
「目は口ほどに、ってな──おー怖ぇ、じゃあな」
そんな言葉を残して、ダニエルは去っていった。固定されたままの視界では見送ることは敵わず、適当にひらひらと片手を振るのが関の山だったが。
はぁぁあ、と深い溜息が落ちてきたと思ったら、彼と目が合う。蘇芳の瞳は、いつも以上に熱い視線を向けていた。
「……ダニエル・ロウ警部補と、知り合いだったんだ?」
「えぇ、まぁ、うちの職場が何故かとばっちりを受けやすくて…」
あぁ、という彼は覚えがあるのだろう。何せテレビにもよく出演するくらいだ、全く嬉しくないが。
はぁ、とまた一つ溜息が落ちてくる。一体どうしたのだというのか、ぼんやり見つめていると、少し気まずそうな彼はふいっと視線を逸らした。その割に顎を持つ力は緩んでないから、見られたいのか見られたくないのか。よくわからないが、物珍しいからそのまま見ておくことにする。首の痛みは、まぁあとでなんとかして貰おう。
「……やれやれ、俺もまだまだ若いね」
「はぁ…なんの話ですか?」
「──の前では、君を愛するただの男だってことだよ」
言われたことを、理解するがはやいが、ぼっと火が灯るように真っ赤になったのはこちらで。彼も気恥ずかしいのか、少しばかり目元を赤くして顔を少し逸らしていた。
なんだそれ、なんだそれ可愛いぞ。ぱかっと思わず間抜けに開いた唇をなんとか閉じて、押し寄せてくる感情に堪える。目の前の彼が、可愛くて仕方なくて、逸らされた視線を真っ直ぐ見つめたくて、すっと両手を伸ばして彼の後頭部に指を這わす。大した力ではないから、本当に嫌だったら振り払えるだろうに、彼はされるがままに逸らした顔を正面に戻し、拗ねたような表情で自分を見下ろした。その顔の、可愛さと来たら。
「……もしかして、」
まさか、とは思う。そんな馬鹿な、とも。それでもこれまでの行動を考えるとその気持ちの名前はひとつしかなくて、期待に胸を震わせながら、そっと、唇を開く。
「もしかして──妬いてますか?」
否定の言葉がない沈黙は、何よりの肯定で。口許がだらしなく弛むのを確かに感じながら、じっと愛らしいその顔を見つめた。なんて、なんて可愛い人なのだろうか。この態勢でなければ今すぐその顔中にキスを落としてやりたいくらい愛しい。それでも態勢を変えない理由は、この珍しい表情の彼を一秒でも長く見ていたいから。瞬きする時間すら惜しい、見れば見るほど愛しくて胸がときめきで一杯になる。
「…そんなに見られると、穴が空きそうだよ」
「空いたら埋めてあげますよ」
「そうじゃなくて、」
恥ずかしいからやめてくれないかな、という素直な言葉は珍しいが聞こえない振りをする。ぐっと一文字に引き締められた唇は愛しい。一挙一動が愛しくて堪らない。
きっと、今の自分はすごくだらしない顔をしているのだろう。でもそれも仕方ない、だってこんなに可愛いのだから。
ニヤニヤと弛みきった表情のまま、じっと見つめていると、耐え兼ねた彼が誤魔化すためにそっと顔を近付けてくる。人前でスキンシップを滅多に図らない彼が、こんな街中でキスしてくるくらい恥ずかしくて居たたまれないのだろう。きっと自分は今日の日を忘れない、ずっと覚えててやる。そんなことを考えながら、そっと目を瞑った。意外と柔らかい唇が、優しいキスを落としてくるから、これでからかうのだけはやめてあげようかな、とぼんやり思った。

きみのかわいいところ

15/07/02