なんとも言えない生暖かい空気が身を包む。じわじわと肌にまとわりつくようなそれは、ひどく気持ちが悪い。たらり、と首筋をつたって汗まで流れる始末だ。
霧に包まれた街ヘルサレムズ・ロットでは、クーラーというものが欠かせない。何せ空気中の水分が多いから、気温が上がると湿度も上がる。蒸した部屋では活動も限られてしまうし、何よりやる気も何もかもがなくなってしまう。今更ながらクーラーを、除湿という機能を作った人間というのは素晴らしい。
しかし、その人類の叡智とも呼べるクーラーが、除湿という素晴らしい機能が、今唐突に、なくなってしまった。いや、正確には壊れただけで、クーラーという存在がなくなった訳ではない。明日には業者がやってきて直してくれるらしい、と恋人である彼が教えてくれた。
要するに、今現在ヘルサレムズ・ロットという霧に包まれた湿度が非常に高い街にあるこの部屋が、ものすごく暑いと、ただそれだけだ。
「…うぁー」
そう、気温は高くないのに湿度が高いとかなり暑い、何故だか詳しくは知らないがとにかく暑い。日差しはないのになんということだろう、一応窓は開けてあるものの風がほとんど無いため、空気の通り道がなく部屋が蒸していた。
「あついー…」
「うん、暑い暑い」
後ろから飛んでくる声が、白々しいことこの上ない。肩越しに振り返ると、確かに汗で前髪やらが張り付いているものの、爽やかな微笑みを浮かべているから疑わしいものだ。思わず眉間に皺を寄せてしまうが、断じて睨み付けている訳ではない。そう、一人だけ随分涼しげだなぁと思っている訳ではないのだ。
「…ちゃんと暑いよ」
心でも読めるのだろうか、それとも自分がわかりやすいのだろうか、彼は苦笑を滲ませながらそう呟いた。そうか、暑いのか、それならばこちらにだって提案がある。
「じゃあ、この体勢やめません?」
「え、なんで?」
なんでと言われても。理由なんて明白だ、何が悲しくてわざわざこの湿度の高い部屋の中、ぴったりとくっついていなければならないのか。スティーブンの足の間に座らせられ、腹回りには意外と武骨な腕が回っているこの状況をどうして維持しなければならないのか。確実に部屋の湿度を、特に二人の体感温度をあげている。暑いのであれば離れて窓側にでも行くのが得策だ、例え風がなくとも通気性がよくなれば少しはまともになるだろう。
それなのに。ぎゅっと回された腕が自分を拘束していて、ここから逃れられない。先程からずっとこんな調子だ。つぅ、と服の下で汗が垂れる。暑い、本当に暑い。
「たまにはスキンシップをとらないと」
「今じゃなくても良くないですかね…?」
「駄目だよ、君明日から出張じゃないか」
不貞腐れたように唇を尖らせる彼の表情は、普段執務室では見れないような子供っぽいものだ。甘えるように擦り寄ってこられるというのは、中々悪い気がしない。むしろ可愛がりたくて仕方ない、その端正な顔中に思い切りキスをしてやりたくなる。だが、それも時と場合によるだろう、普段であればメロメロになるその行動も今はただ暑苦しくて仕方なかった。
「帰ってきたら、いくらでも、飽きるくらい出来ますよぉ…」
「今が良い」
子供か。
普段であれば、こんな風に甘えられたらなんでも言うことを聞いてしまう。しかし今は違う、暑い、とにかく暑い。しかもただ暑いのではなく、じめじめとしていて暑苦しい。そんな中、いくら恋人といえども、ぴったりくっついていられるだろうか──否。
それでも、強引にはね除けられない辺り、どうしようもないくらい惚れ込んでしまっている自覚はあって。取り敢えず今はこの腹に回った腕の拘束を緩めることから始めたい、そう思って何度かその腕をぺちぺち叩いているのだが、逆に指が絡み付いてきて拘束が更に強まってしまった。なんだこれは、別にいちゃいちゃしたい訳ではない、ちょっと嬉しくて口許が弛んだのは内緒だ。
「あーつーいー…」
「暑いなぁ」
「だから、暑いんだったら」
「却下」
取りつく島もない。
なんとも言えずに溜息を吐いていると、不意に彼がその顎を肩に乗せてくるから困った。慌てて身を引こうとするが、絡み付いた腕でぐっと引き寄せられて逃げられない。暑い、いくら氷を操る血の持ち主と言えども体温は人並みだし、汗ばんだ身体が寄せられると更に湿気は強まる。どうしてやろうか、と考えているとぐり、と顎が肩を刺激する。凝り固まった肩への攻撃は実に効果的だ、地味に痛い。
「痛い!その上暑くるしい!」
「君が逃げようとするからだろう」
「だから暑いって何度も言ってるじゃないですか!」
「うん、我慢して」
あんまりだ。
しかし、ピシャリと言い放たれてしまうと唇をつぐむ他なく。恐らくこれは、彼が満足するまで離して貰えないのだろう。最近そんなにスキンシップが不足していただろうか、それとも一週間以上確実に会えないことがそんなに尾を引いているのだろうか、理由はさっぱりわからない。しかし、いくらなんでもこのまま引き下がることなど出来やしない、離れるのが嫌ならばせめて。
「…せめて、顔離してくれませんかね」
「なんで?」
言ってる傍から更に近付けてくるから困ってしまう。思わずふいと顔を背けると、絡まった指先が手の甲に爪を立ててくる。先程から彼の攻撃は完璧だ、逃げることも背くこともを一切許してくれない。そういうのは本当の戦闘の時だけで良いと思うんですけどね!
「な、ん、で ?」
一音一音区切って、耳に熱い吐息と同時に滑り込んできた囁きにびくりと思わず肩を震わせると、くすっと笑い声までついてきて憎らしい。
それでも黙ってると、今度はまた一層腹回りにある腕の力が強くなって、ぐえなんてかわいくない呻き声をあげる羽目になった。
「色気ないなぁ」
誰のせいだ。
「で、なんで顔近付けたら駄目なのかな、君は結構俺の顔好きだろう?」
「好きですけど…」
そこだけは素直にならざるを得ない。何せ彼の顔はかっこいい、かなり好みだ、その顔で迫られたらついついなんでも言うことを聞いてしまうくらいには好きだ。それを告げる度に、顔だけ?と苦笑されるが、そもそもこの顔がスティーブンについてなかったら、あぁかっこいいなぁ程度で終わることを、彼はもう少し理解するべきだと思う。
そんな訳で、好みの顔が近付いてくるというのは照れるけれど嬉しいと思う。だが今は別だ、今はどんな好みの顔であろうと傍に来て欲しくないと思う時はある、正確には好きな人だからこそ、なのだが。
「──だって、今の私、すごく汗くさいから」
そう、先程から何度も繰り返しているが、今はとにかく暑いのだ。じんわりと滲んだ汗はだらだらと服の下や、米神、首筋を伝っている。そんな中、大好きな人に傍に来られて、汗くさいなんて思われるなんて嫌に決まっているじゃないか。
「あんまり、傍に来られるのはちょっと…」
なけなしの乙女心が泣いてしまうのでやめて貰いたい。そう続けようとしたら、ふっと肩が軽くなる、彼が頭を引いてくれたらしい。ようやくわかってくれたのか、と安堵の息を漏らそうとしたその時──項に、熱い感触。どうも垂れた汗を拭われているようだった、それが指だったらどんなによかっただろう、この感触は紛れもない彼の舌だった。
「ちょっ!」
「しょっぱいなぁ」
そりゃあ、汗ですからね、涙とおんなじ成分ですからね!そう続けられる訳もなく、間抜けにも顔を真っ赤にさせてぱくぱくと唇を開く他に為す術などなかった。今、この男、人の汗なめやがった。信じられない、慌てて身を捩ると更に拘束が強まる、逃がさないということだろう、本当に信じられない。
「なに、して!」
「え?舐めただけだよ」
「な、なめ…!」
「うん、汗くさいのが気になるっていうから、それなら全部舐めてあげようかなって。そうしたら、気にならないだろう?」
どういう頭をしていたらそんな発想に至るのか、全くもって論理的じゃないし合理的じゃない。そもそも汗くさいのが気になるのは相手がスティーブンだからで、そのスティーブンが舐めてくるとか元も子もないんじゃないだろうか。というかそれセクハラ親父みたいですよ、変態くさいですよ。
言いたいことはどんどん湧いて出てくるというのに、自分ときたらもう口をぱくぱくさせる以外になんの役にも立てなくて。また彼がそんな間抜けな自分を見て一層満足そうに笑うから、どんどん頬の熱が加速していく。
「そんなに照れなくても、これよりもっと恥ずかしいことをいつもしてると思うんだけどなぁ」
そういう問題じゃない。
「大体、君も君だよ。汗くさいから傍に来ないで欲しい?なんだそれ」
呆れたように嘆息している割に、その瞳は熱を帯びている。加えて先程舐めた項に、そっと歯を立てて甘噛みしてくるから肩が跳ねるのも仕方ない。妙な声が出そうになるのはなんとか堪えたが、それが気に入らないのか、腹回りの拘束が緩んで指先を絡めて遊んでいた指が離れたと思ったら今度は服の裾から侵入してきた。ちょっと、待て、なんだこれは。どういう状況だ。
「す、スティーブンさっ」
「うん、なに?」
「いや、あの、これ」
なんなんですかと続ける筈が、項に噛み付いていた彼の唇によって溶けてなくなってしまう。そのまま舌を貪られるのかと思ったら、一度引いた唇が狙いを定めたのは自分の唇で、べろべろに舐められてようやく彼のスイッチが入ってしまったことを知った。
えぇ、いつ、なんで。そんな問い掛けが出来るほど自分はキスに慣れていなかったし、そもそも唇がふやけるほど舐められたと思ったら今度こそ舌を貪られるのだから口を挟む隙などない。その間も、服の下に侵入した指先が不穏な動きを始めるから余計だ。腹回りの拘束が緩んでいる今ならば逃げられるかと思ったが、そんな隙を許すほど彼は優しくない。もう既に、腰砕けなのだ。それまでなんとか自立していた背中はもうすっかり彼の胸に預けられているし、足をもじもじと擦り寄せて、彼の腕を掴むくらいしか出来なかった。
ようやく唇が離れたかと思ったら、それはそれは楽しげに目を細めた彼が米神を伝う汗をぺろりと舐めた。
「…ん、ほらまた汗かいてる」
キスに夢中になっている内に、また一層身体の熱が上がったのだろう、ぼうっと熱が籠ってしまった。それと同時に、胸の奥底に確かな欲が生まれてしまって。はぁ、はぁ、と荒くなった息の中、ぼんやりと彼を見つめると、彼は小さく笑ってから今度は耳許に唇を寄せた。熱い吐息と共に吹き掛けられる甘い甘い声にびりびりと身体が震える。
「──どうしたい?
どうしたいも何も、全部わかってるくせに。こういう時に限って人の意見を聞くなんていうのは優しさなんかではない、ただのいじめだ。それでもそんないじめにさえもきゅん、と胸が高鳴るから。唾液で濡れた唇を開いて、はしたない言葉を紡ぐ他に為す術などないのだ。
「…ぜんぶ、舐めて、ください」
なけなしの乙女心は、彼の舌によって、呆気なく舐め取られてしまった。

舌先で遊ばれる

15/07/05