広いベッドは柔らかい。二人分の体重が掛かっても軋むこともなく受け入れてくれていた。
どっどっどっど、鼓動がやけにはやくてうるさいのは、先程した口付けの深さのせいかもしれない。それとも、この後を期待しているからだろうか、どちらにせよ余裕たっぷりな彼の前では恥ずかしい話だ。
柔らかな唇が、顔中に降ってくるのは心地よかった。思わず目を細めてその擽ったさに身を捩ると、腕が伸ばされて逃げ場を塞がれてしまう。駄目押しとばかりに鼻が触れ合わさるけれども、このまま流されてはいけない。
「スティーブン、さん!」
「…ん?」
うっかりそのまま唇を受け入れそうになるのをなんとか堪えて声をあげると、不思議そうに彼は小首を傾げた。間近で見る可愛らしい表情に、ぐらりと意志が揺らぎそうになる、そんな顔今まで見たことがなかったからだ。そのまま口付けたくなる衝動をなんとか堪えて、ずるずるとシーツの上を後退りして距離を取る。少し空いた空間に、身を屈めていた彼は少しばかり眉間に皺を寄せた。
「どうかした?」
「あの、えっと…そう、シャワー!」
「は?」
「シャワー、浴びませんか、ほら、私今日結構汗かいちゃって…」
ギシッ。一歩、彼が四つん這いに進むと同時にベッドが軋む。ぼんやりそれを見守っていると、当然のように距離は詰まってしまって、またその端正な顔を至近距離で拝む羽目になってしまう。
「大丈夫、これからまた汗かくんだから」
「あ、そ、そうですね…」
とろけるような甘い声音に、頬の熱が集中するのが自分でもわかる。その言葉の意味するところを考えて、また一層鼓動がはやくなるのを感じた。それすらも見越しているのか、くすりなんて笑い声まで落ちてきたと思ったら、色っぽい視線まで飛んでくるから思わず視線を落とす。どうにもこうにも、落ち着きがないのは自分だけのようだった。
「…緊張してる?」
「え、えぇ、まぁ」
「かわいい」
あまいあまい囁きが、耳許を襲う。その低くて心地のよい声に、ぞわりと腰の辺りから何かが這い上がってくるのを感じる。それから逃れたくて伏せた視線を彼に向けると、待ってましたとばかりに情欲に満ちた瞳に絡めとられた。蘇芳の瞳が、いつにも増して光輝いているように感じるのは、ベッドサイドの間接照明がほんのりと灯っているからだろうか。吸い込まれそうな瞳に見つめられてしまえば、逸らすことなど出来やしない。
不意に、彼の手が伸びてきて、頬をするりと撫でられた。指先で下から上へとなぞるような動きは、擽ったいというには余りに色が乗りすぎていて。すぅ、と細められた瞳の奥で、彼が確かに欲情しているのだと知る。
次に悪戯な指先が向かうのは、油断しきっていた耳だ。輪郭を擽るようになぞられるから、思わず肩が跳ねてしまう。その反応を楽しむように耳朶、裏筋、そしてまた輪郭、穴の付近など、絶妙な力加減で遊ばれる。その擽ったさの中に、妙な感覚が生まれたところで、慌ててその手から逃れるようにまたずるずると後退りをすると、とん、と背中に硬い感触。どうもヘッドボードの辺りまできてしまったようだ。嘘だろう、こんなに広いベッドなのにもう行き止まりなんて。
、」
「は、はい…」
「どうしてさっきから逃げるのかな」
楽しみを奪われたはずの彼は、怒るどころかにっこりと笑顔が浮かべていた。きれいな笑顔だ、流石色男は違う、きっとこの笑顔で何人もの女性を虜にしてきたのだろう、それくらい完璧な笑顔だった。それなのに、ひんやりと背筋が凍るのは何故だろう。
あはは、と誤魔化すように乾いた笑いを漏らしていると、彼は腕をヘッドボードに伸ばしてきて、ずい、とまた身を寄せるからせっかく取ったはずの距離は台無しだ。その上、今度は逃げ場がないときた。身体の両横に彼の腕があり、完全に閉じ込められてしまっている。
「…
もう一度名を呼ばれた、今度は耳許で吐息と共に。びくっと身を震わせると、ふっと笑い混じりの吐息が吹き掛けられるから益々肩が跳ねる。
「え、えっと、その…」
「嫌…な訳ないよな、ベッドに行きたいって言ったのは君だし」
ぐう。先程、ソファでの口付けにめろめろになっていたことを持ち出されるとどうにも何も言えない。不意に伸びてきた指先が、震える唇をつぅと撫でてきたりするから余計だ。
「本当に嫌ならやめることも出来るけど…」
そう言いながら見つめてくる視線は熱い。細められたその蘇芳の瞳を見るだけで、ざわざわと腰の辺りが騒ぎ出す。その上、唇の感触を味わっていた指先が引いたかと思うと、ぺろりとそれを彼が舐めるから堪らない、なんて色気だ。
「──どうする?」
やめる気なんてさらさらないだろうに。わざわざ聞いてくる辺り、彼は狡猾だ。
黙ったままのこちらに焦れたのか、彼は額をこつんと重ね合わせてくる。そのまま鼻先を合わせられ、そのまま自然に唇が近付いてきて──
「っま、待って!」
あと少しで触れ合ってしまう、その時になってようやくポンコツだった身体が動いた。
「…これは、何かな?」
不機嫌そうな声だ、そりゃあそうだろう。何せもう少しで重ね合う筈だった唇が、今掌によって塞がれてしまっているのだから。
「あの、えっと、その、」
「そんなに嫌?」
「いいい嫌じゃない、です!」
嫌だったら、そもそも呑気に家まで来たりしないしベッドに行きたいなんてはしたない願いを口にすることはない。慌てて首を振ると、憮然とした視線が飛んでくるから困ってしまう。矛盾していると責められても可笑しくはない、自分でもそう思う。だがやっぱりこのまま流される訳には行かなかった
「じゃあなに?怖い?」
くぐもった声は、少しこちらを心配するような色が含まれて。揺れた瞳は、不機嫌というよりは不安も見てとれて。
「じ、自信がなくて…」
うっかり本音が出てしまう。
「…は?」
「だ、だって私、色気もないし、そもそもそこまで若くないし、こういうことにも慣れてないし」
そう、自分の身体に自信がないのだ。予想外過ぎる愛の告白に浮かれて、先程の深い口付けにすっかり欲情してベッドまで来たものの、ふと我に返ってしまった。自分の身体に大した魅力は詰まっていない、今日だって彼をロリコン扱いさせてしまうくらいにはみすぼらしい身体付きで、色気とは縁遠い。だったらせめてテクニックで満足させようにも、そもそもこういった場面に慣れていないものだから、そんな手札は切れなかった。対して彼は、見るからに経験豊富だ。きっと色々な女性とこうやって夜を共にしているだろう、そんな彼を、こんな自分が満足させられるのか──不安が頭を過るのも当然だろう。
「がっかりさせたら、どうしようって」
恥ずかしい本音だ。それでも彼を、落胆させるのは忍びなかったし、それで燃え上がった熱が冷めてしまったらどうしようとも思った。自分だっていい大人だ、部屋に来た時点ではこういう展開になることはわかっていたけれど、一度嫌な予感を覚えるとどうにもこうにも抗いたくなってしまう。先伸ばしにしたところで、一朝一夕で色気やら経験やらが得られる訳ではないのだが。
「め、面倒くさくて、ごめんなさい」
そもそも始まりが予想外だった。まさかこのような形で想いが成就するなんて微塵も思っていなかった、こうなることがわかっていたら下着だって一番色気があるものを選んできたのに。それでも貧相な身体では彼を満足させることは出来ないかもしれない、心の奥でこっそり落ち込んだ。
「…君ね」
溜息と共に出された言葉に、びくりと震えるのは情欲からではなく、単なる脅えだった。呆れられてしまっただろうか、もしや始める前からがっかりさせてしまっただろうか。彼の前では一生懸命背伸びをしていたが、案外中身は子供のままなのだ。
「本当にわかってないんだな」
「す、すみません」
ムードが台無しと言いたいのだろう、それについては申し訳ない。確かにここまで持ってきておいて、はいやめましょうなんて、そんな展開になる訳がないのは少ない経験の中でも充分理解していた。だから、なんとか理由をつけて、せめて時間を稼ごうと思ったのだけれども。
視線を落としたのは、このまま彼の瞳を見つめていられる自信がなかったから。きっと呆れられてしまった、落胆させてしまった、こんなことなら色気が出るように色々と画策しておけばよかった。
「…俺が今、どんなことを考えているか教えてあげようか」
「へ?」
降りかかってきた言葉は、予想外で。弾けるようにして顔をあげると、蘇芳の瞳が細められていた。
「あの、それってどういう…」
「はやく君にキスがしたい、さっきみたいにとろとろになった顔をはやく見たい」
言うがはやいが、突然ちゅ、と音がして、掌に柔らかな感触。彼の唇だ、と認識する頃にはちゅ、ちゅ、ちゅ、と何度も何度も啄むように口付けが降ってきていた。思わず手を引こうとするが、いつの間にか、彼の手が覆っていて離せない。
「ブラウスのボタンをひとつひとつ外して、その肌に吸い付きたい」
「ひ、っ」
思わず息を飲んだのは、口付けに飽きたらしい彼に指の間を舐められたから。つぅ、となぞるように掌を舌先で擽られて、ぞわぞわとする。慌てて引こうにも、彼が優しく拘束しているから逃げる術がない。その間も蘇芳の瞳が甘く見つめてくるから逸らせる筈もなくて、赤い舌先がちらりと見えるのはひどくいやらしかった。
その内に、掌から狙いを変えたらしい彼は、ぱくりと指先を食んだ。力が抜けてしまっているせいで、もうすっかり彼の為すがままで。そのままねっとりとねぶられて、ぞくりと背筋が震える。寒気?まさか、だってこんなにも──熱い。
「色気がない?がっかりする?冗談だろ」
すぅ、といつの間にか伸ばされた手が頬を撫でる。優しい手付きの筈なのに、何故か彼が触れているというだけで、びくりと肩が跳ねた。
「──こんな、欲情しきった顔をしてるくせに」
責めるような言葉だ、貶めるような言葉だ。それなのに、何故か熱に浮かされたような気分になる。甘い声で囁かれているからだろうか、それとも蘇芳の瞳がいつも以上に艶っぽいからだろうか。
ぐいと引き寄せられて、また額が重なって、鼻先が触れ合う。囚われたように逃れられない。いや、違う、自ら囚われに来たのだ。
「もうそんな余計なことは考えなくていいよ」
細められた瞳に誘われるように瞼を下ろすと、そっと唇が落ちてきて。一度目は触れるだけ、二度目は啄むように。はあ、と息を吐くと狙い澄ましたように舌先が滑り込んでくる。濡れた音が、やけに近くで聞こえてくるのは、彼の舌が先程よりもずっと性急に蠢いているからだろうか。
いつの間にか力が入らなくなった腰のせいか、それとも覆い被さっている彼の勢いに飲まれたせいか、ずるりとヘッドボードに凭れたところで、ようやく唇が解放された。
「ほら、こんなに色っぽい」
濡れた唇が弧を描く。それはこちらの台詞だと、返せるくらいの冷静さは、もうない。きっと今の自分は彼の言う通りの表情なのだろう、半開きになったままの唇は決して酸素だけを求めているのではない。
掴まれたままの手を返して、彼の大きな掌を指先で擽るようにして、存外武骨な指に絡ませる。ゆるく絡めたそれを、握り返されてしまえばもう何もかもがどうでもいい。
ぎゅっと握り返してから、ぐいと引き寄せる。勢いのまま近くなった彼の首筋に唇を押し当てると、ふはっと彼は更に愉しそうに唇を歪めた。
「煽ってるの?──自信がないんじゃなかったっけ」
囁かれた声に矛盾をつかれて頬がまた熱くなる、自分から持ち出したくせに、もうそんな意地悪を言わないでと噛み付きたくなる。浅ましいと笑われてもいい、はしたないと嘲けてくれていい。我ながら勝手だ、自分から止めようと、先伸ばしにしようとしたくせに。今はもう、はやく彼が欲しくてたまらない。ねだるようにもう一度唇を押し付けて、ついでとばかりに喉仏を舐め上げると彼の喉がくつくつと鳴る。
「…やらしいな、
ぞわり、身体が震える。最高にいやらしい声が自分の名を、こんなにもいとおしそうに呼んでくれるなんて。
ぐるりと視界が揺れて、衝撃を受け止めたベッドがふわりと揺れる。馬乗りになった彼の顔がまた近くなって、唇が触れる直前に最後の最後で駄目押しが降ってきた。
「──今、最高に欲情してるよ」
どっちが、なんて聞かなくても答えは明白だ。自分も彼もお互いに、乱したくて仕方ない。そのまま落ちるように、そっとシーツに二人で沈んだ。

全部まるごと愛してる
(だからはやく、溺れないか)


15/07/08