久し振りの一人で過ごす休日、ブラブラと一人で買い物に出た。好きなブランドを転々と歩いて、行き着いた化粧品店でぼんやり棚を見ていた。
「何か気になる商品はございますか?」
不意に店員に声を掛けられて、そういえば香水がもう底をつく頃だなぁと思い至る。同じものでも良いのだが、少しばかり飽きてきたのも事実で。渡りに船だ、せっかくだから店員に選ぶのを手伝って貰おうと唇を開く。
「香水がもうないんですが、新しい香りにでも挑戦してみようかなって」
「それなら、こちらは如何でしょう?」
笑顔の店員はオードトワレを何種類か提供してくれたが、甘ったるい匂いの少し若々しいものばかりだった。思わず苦笑が滲んでしまうのは仕方ないだろう。
東洋の血を色濃く引いた自分は、どうにもこうにも欧米人と違って実年齢より幼く見えるらしい。それは良いことだ、是非見た目通りの格好をすれば良いなんて言ってくれる人もいる。しかし、見た目に合わせた格好や化粧をして、いざ年齢を告げて、とんでもない若作りだと言われたらどうするのだ。そんな訳で常日頃からなるべく年齢に沿った格好や化粧、そして香りを纏うように気を遣っているのだが、傍目には背伸びしたい年頃にしか見えないのだろう。勧められるものは大抵、自分の年齢より大分若いものばかりだった。
Noと返すと、店員は全く違った香りのものを三つ出してくれた。ひとつはシトラス系のもの、ひとつはグリーン系のもの、ひとつはオリエンタル系のものだった。チョイスとしては悪くなかったが、いまいちぴんと来ない。ムエットをぱたぱたと振りながら、うーんと唸っていると、不意に店員がもうひとつ奥から、黒いボトルのオードトワレを出してきた。いやにシックで、香りも重厚そうだなぁなんてぼんやり思いながら、出されたムエットを鼻に寄せると、予想外な香りが鼻腔を擽ってきたから驚きだ。柑橘系の少しスパイシーな香り、なるほど、これならば良いかもしれない。
「これは、時間が経つと甘さが出るんですよ」
そう声を掛けられて、ムエットをぱたぱたと揺らして暫く待ってみると段々と心地よい甘さが出てきた。しつこすぎず、良い香りだ、加えて品もある。
「メンズですが、割と女性にも人気なんです」
確かに、言われてみればほんの少し男性的だ。しかし、そうと言われなければ気付かない程度だろう。うん、と小さく頷いた。中々良い買い物だろう。
「じゃあ、これひとつ下さい」
「ありがとうございます。せっかくですし、付けて帰られますか?」
「あー…お願いします」
にっこり笑った店員は、まるで自分がこれを買うとわかっていたような雰囲気だ。言われるがままに手首に付けてから、会計を進める。ふわりと香る新しい匂い、頭の隅で彼も気に入るといいなと考えて小さく笑みが零れた。



:::



「香水、変えた?」
その日の晩、いつものようにスティーブンの部屋にお邪魔すると、先に帰宅していた彼は開口一番にそう聞いた。まだ挨拶もしていないというのに、随分と性急な、そして随分と鼻が効く。
「あ、おかえり」
遅い。
「随分と早かったんですね」
「うん、君が待ってるかもと思ったら、はやく帰りたくなってね」
悪戯っぽく片目を瞑って言われてしまうと、胸がきゅんと高鳴る。合鍵を貰ってからもう随分と時が過ぎたというのに、どうも彼のそういった仕草に逐一ときめいてしまう。我ながら、いい加減慣れても良い頃合いだとは思うが、中々どうして難しい。
逸る鼓動を誤魔化しながら、荷物を置いてソファーに腰掛けるとふわりと香るシャンプーの匂い。そういえば、彼の髪は少し濡れていた。もうシャワーを浴びたのだろう、いつも纏っている品の良い香水とは違って随分と爽やかな香りだった。ぼんやり良い匂いだなぁなんて思っていると、ずいと彼が顔を近付けてくる。思わず仰け反ると、端正な顔が少し歪んだ。
「それで、香水変えたの?それとも誰かに絡まれた?」
「絡まれたって…」
そんなに分かりやすくメンズの香りなのだろうか、店で嗅いだ時はそこまで男性的だと思わなかったのだが。腕に鼻を寄せるが、品の良い甘さがあるだけで女性とも男性とも判断しにくい香りが広がるばかりだった。
「そんなに男っぽいですか?確かに今日新しく買いましたけど…」
「いや、普通だったら気付かないと思うよ」
つまり彼は普通じゃないのだろう、確かに前々から常人のそれより匂いに敏感だなぁなんて思ってはいたが。
すんすんと自分の匂いを嗅いでいると、彼もすんすんと匂いを嗅いでいた。犬みたいなその仕草に思わず口許を弛ませていると、不意に首回りにも鼻を寄せられる。慌てて後退りしようとするが、何分ソファーの上だからすぐに背凭れが道を阻む。それならばと空いている左側へ逃げようと腰を浮かすと、とん、と彼の腕が背凭れについて行く手を阻む。困り果てて見上げると、にこにこと楽しげな笑みを浮かべた彼が自分に覆い被さっていた。
「逃げるなんて、悲しいな」
「悲しそうには見えませんよ」
「そう?そんなことより、もう少し新しい君の香りを堪能させて欲しいんだけど」
「じゃあ貰ってきたムエットを…」
「君の香り、って言ったよな?」
ぐう。気障ったらしい言い回しだ、それなのに反論が出来ないのは惚れた弱味か雰囲気に飲まれたか。
渋々と頷くと、彼は満足そうに笑って身を引いた。てっきりこのままかぶりついてくるかと思っていたが、どうも違うらしい。不思議に思って首を傾げていると、にっこり笑顔の彼は、珍しく大きく膝を開けて座り直し、ぽんぽんとそれを叩く。
「…え、」
まさか。
「はやくおいで」
そのまさかだ、と言わんばかりの追撃にかあっと頬に熱が集中した。この人は、この三十代を過ぎた良い歳をした男性は、同じくもう恥を捨てられないところまで年齢を重ねた自分に、膝の間に座れと言っているのだ。なんという恥ずかしいことを、そんなのティーンくらいしか今時しないだろう。それとも自分の知らない間に二十代も行うようになったのだろうか、しかし、それにしても。
「…それは、流石に」
恥ずかしさで死んでしまう。酒に酔っているのならまだしも、素面で。しかもまだネオンが灯り始めたくらいの早い時間に、そんな甘ったるい行為を出来る筈がない。
ゆるゆると首を振って断ろうと唇を開くと、彼は首を傾げて、
「──ん?」
なんて可愛らしく問い掛けてくるから敵わない。ちくしょう、可愛い。普段は伊達男だ色男だと浮き世を流しているスカーフェイスの異名を持つ彼が、こんなに愛らしく小首を傾げる様を、自分以外の誰かは見たことがあるのだろうか。ないと良い、と思いながらも、この愛くるしさを誰かと分かち合いたい気持ちでいっぱいになる。
、」
はやく、と言いたいのだろう。ぽんぽんと膝を叩いていた両手は広がって、自分を受け入れようとしている。まさに、おいでと言わんばかりだ。それがまた首を傾げた状態のままされるから一層可愛くて、胸がきゅっと締め付けられる思いだ。
ごくり、生唾を飲んで、ゆっくりと立ち上がる。居たたまれない、しかしこんな彼のおねだりを断れるほど自分は強くない、結局のところめろめろなのだ。のろのろと、恐る恐る彼の膝の間にお尻を乗せると、ぎゅっと大きな腕に抱き締められた。心地良い、優しい腕だ。思わず目を細めてしまう。
「…あれ、こっちは付けてないんだ?」
「あぁ、はい、手首だけですね」
すん、と鼻を鳴らした彼が指し示すのは首筋。そういえば付けて貰ったのは手首だけだった、今更だがこの体勢になる必要性は全くなかったと思う。まぁ、時既に遅し、なのだけれども。
案の定、彼は腹の辺りに回した腕を弛めることはない。そのまま空いた片方でこちらの腕を取って鼻に寄せる。その姿すら様になっているから、きっと彼は何をしたって様になるのだろう。
「うん、良い香りだね」
「気に入りました?」
小さく頷く彼に、ほっと胸を撫で下ろす。これで気に入らないと言われたら、即座にお蔵入りするところだった。良い値段がしただけあって、それは流石に避けたいと思っていたがどうやら杞憂に終わったらしい。
むずむずと嬉しさが込み上げてきているから、今の自分はきっと緩みきった顔をしているのだろう。気に入った香りを、好きな相手が気に入ってくれるというのは存外嬉しいもので。だからかもしれない、普段ならば言わないようなことをついつい口走ってしまったのは。
「…よかったら、スティーブンさんも使います?メンズだし」
肩越しに振り返ると、彼は珍しく驚いたように目を丸くしていた。すおうの瞳がいつもより大きく見える、可愛い表情だった。
言ってから、はたと少し調子に乗りすぎてしまったことに気付く。スティーブンにだって愛用の香水はある、その香りは彼にとてもよく似合っていて魅力をふんだんに引き出している。彼だってその香りに満足しているだろう。それなのに、なんてことを口走ってしまったのか。
慌ててぱたぱたと手を振りながら口を開く。
「あ、いや、あの、すみません、よかったらって話なんで別に強制じゃないんで」
「──いいの?」
「え?」
「俺が使っても、いいの?」
不思議そうに、本当に不思議そうな顔をした彼に二度尋ねられて、今度はこちらが驚いてしまった。いいも何も、勧めたのはこちらなのだけれども。
「え、えぇ、勿論、嫌じゃなかったら…」
こくこくと頷きながら返すと、彼はくしゃりと嬉しそうに笑った。目を細めたせいだろう、目尻に皺が出来ている。その皺すらも愛しいと思うのは、きっと溺れている証拠なのだ。
「嬉しいよ、さっそく明日付けていってもいい?」
嬉々として問い掛けてくる彼は珍しく、子供のようだった。もう一度頷くと一層嬉しそうに笑った。どうしたのだろう、と思わなくもないけれど、幸せそうな彼を見ていたら、もうなんだって良いかなぁと思った。
それに、同じ香りをまとえるなんて、自分だってなんだか嬉しくなってしまう。頬を弛ませて笑いながら、少し甘えたように背中を彼の胸に擦り寄せると、腹の辺りに回った腕がぎゅっとなる。幸せな休日だ、本当に良い買い物をしたと心底思った。



:::



「あれ?、香水変えた?」
「ほんとだ、昨日と違う香り」
翌日、さっそく新しく下ろした香水を二人でまとってそれぞれの職場に向かった。挨拶もそこそこに、仲の良い先輩と同僚からそんな言葉が降ってくるから、少し驚いてしまう。そんなに以前と違う香りだろうか。
「えぇ、昨日買ったんです」
「へぇー良い匂いね、大人っぽい」
褒められて、ついつい嬉しくなって昨日の一部を話した実はメンズだということ、彼にも気に入って貰えたこと、そして一緒に使っていること。
話している内に、興味津々だった同僚の表情はどんどん曇っていく。代わりに先輩の表情はどんどん悪戯っぽくなっていった。あれ?と思った時にはもう既に、同僚の顔はげんなりとしたような、少し呆れたような顔になっていた。
「朝っぱらからごちそうさま…」
「え?」
予想だにしていなかった言葉を返されて首を傾げていると、ニヤニヤと笑みを浮かべた先輩がぽんぽんと肩を叩いてきて。
「香水でマーキングとは、もやるじゃない」
マーキング、とは。
耳に届いた言葉を反芻して、考えること十数秒。ぶわっと熱が広がって、頬どころか顔が真っ赤になる。まさか、いや、そんなつもりでは。
「彼も喜んでくれたみたいだし、控えめなあんたにしては良い作戦だったんじゃない?」
からかうような言葉に、せんぱい!と声をあげるとけらけらした笑いに誤魔化されてしまった。
彼は気付いているだろうか、気付いていないと良い。というか、狙ってもいないそんな効果に誰が気付くというのだろう。
しかし、マーキングというにはあまりにも陳腐だが、確かに彼が自分と同じ香りを纏っていると思うと胸の奥底に潜んでいた小さな小さな独占欲が、確かに満たされていくのを感じる。
まいった、自分でも知らない内に、どんどん深みにハマっている。まるで溺れているようだ、でもそれも悪くないと思うから、結局自分は控えめなんてものではないのだろうと思い知る。
「気付いていないと、いいなぁ…」
こんな浅はかな、みっともない独占欲。気付かれていたらと思うだけで恥ずかしい。熱くなった頬を冷まそうと掌で仰ぐと、ふわり、彼と同じ香りが鼻腔を擽った。
──ところ変わって。
「あれ?スターフェイズさん香水変えたんすか?」
「ん?あぁ、まぁね」
「…なんかめちゃくちゃ機嫌良いっすね」
「まぁ、ね」
「……ところでぇ、給料の前借りを」
「却下」
秘密結社、ライブラの執務室では鼻歌でもしそうなくらい上機嫌な彼がこんな会話を繰り広げていたことを、今の自分は知る由もない。

移り香よりも、情熱的な

15/07/12