食事とは、生物において必要不可欠なものである。
何をするにも食事を取って栄養を補給しなければ、身体は動き出すのをやめてしまうだろう。差し詰め、ブリキ人形のゼンマイ部分とも言える。
そのゼンマイは、なるべくであれば上質な方が良い。だからこそ、食事もなるべく美味しいものを食べたいと思うのだ。
「んー!」
とろとろの玉子の布団に隠されたケチャップが程よいチキンライス、組み合わせが最高だった。口の中に広がる味に満足感しか浮かばない、思わず声をあげた。美味しい、最高だ。
満面の笑みで舌鼓を打っていると、ぷっと吹き出すような音がする。視線を皿から隣の恋人に向けると、彼は口許を押さえながらくつくつと喉を鳴らし、肩を震わせていた。一目見て、笑っているとわかる。
はたと自分の行動を思い返して少し恥ずかしいと思う気持ちと、そんなに笑わなくともいいじゃないかという屈折した気持ちで一杯になる。思わず眉間に皺を寄せるとひらひら片手が振られる、気にするなと言いたいのだろう、しかし気になるものは気になるのだから仕方ない。
「…なんですか、もう」
「いや、うん、君があんまり美味しそうに食べるからね」
言いながら隠しきれていない笑いが漏れている。確かに少し子供っぽい反応だったかもしれないが、美味しいものに対してはいつだってこうなってしまう。それを笑うなんてひどいと思うが、こちらを見る彼の顔があんまりにも優しげで、微笑ましく思われていると感じるから、押し黙ってまたオムライスを一口頬張った。やはり美味しい、不機嫌さはすぐに何処かへ飛んで頬を弛ませる。
「美味しい?」
「美味しくなかったら、さっき笑われてないと思います」
刺々しく返すと、机に頬杖をついた彼はふふと吐息を漏らして一層楽しげに口端をあげる。
「そんな風に食べてもらえると、作った甲斐があるね」
そう、これはスティーブンが作ったオムライスだった。伊達男の彼は料理だって完璧にこなす、エプロン姿は案外可愛らしくてよく似合っていた。手料理をせがむ理由は、彼が作る料理があんまりにも美味しいということ、彼のエプロン姿が見たいということ、これに尽きるだろう。家政婦を雇っている割に器用な彼は、休みの時にはこうして料理をしてくれる。それらが全てあんまりにも美味しいから、女としての矜持なんてものはとっくのとうになくなってしまっていた。勿論家政婦であるヴェデッドの料理もこれ以上ないくらいに美味しい、彼女のローストビーフを食べてからサブウェイのローストビーフが食べれなくなってしまったくらいだ。
部屋着の少しゆったりとしたシャツに身を包み、襟元を緩く寛げた彼に見守れる中で食事を取るなんて、こんな贅沢はそうそうない。その幸せを噛み締めながらもう一度スプーンを口に運ぶ。最高だ、何がなくとも最高だ。満面の笑みは更に深くなる。
「相変わらず、食べてる時は子供みたいだなぁ」
「美味しいものを美味しいと表現しながら食べてるだけですよ」
「君、紐育暮らし長いのにそういうとこだけやけに日本人っぽいね」
仕方ないだろう、両親がそうだったのだから。完全なる日本人ではないとは言え、子供の頃から日本文化に慣れ親しんでいる自分は、紐育で育ったというのに随分と日本人のようだった。東洋人らしい顔立ちが余計に拍車を掛けているのだろう、ちなみに箸だって上手に扱える。
「思い出すなぁ。最初、君と食事した時にびっくりしたこと」
「ヨーロッパ系の方にはない文化らしいですからねぇ、あの時のスティーブンさんの顔は中々に愉快でしたよ」
「…どういう意味かな」
「大丈夫かこいつっていう真意を隠そうと滲んだ冷や汗は忘れられませんねぇ」
くすくすと笑いながら言うと、はぁ、と大きく溜息を吐かれた。ちらりと飛んでくる視線はほんのり鋭くなっている、少しからかい過ぎただろうか。
「君、案外よく見てるよなぁ」
「この見た目ですから、人の顔色疑って生きてないとこんな街だとすぐ食べられちゃうんですよ」
「それもそうだ」
やれやれ、ともう一度溜息を吐いた彼に習って肩を竦めた。出会ってから初めて彼オススメのレストランで食事を取った時、その料理があんまりにも美味しくてついつい声をあげて美味しいという言葉を何度も漏らした。日本人以外にはそうそう習慣にないらしいこの言動に、彼はそりゃあもう大いに驚いたらしい。それでもポーカーフェイスを崩さず微笑みを浮かべていたが、冷や汗がほんのり滲んでいることにうっかり気付いてしまった。慌てて説明をすると納得したように頷いてくれたが、あの時の奇妙なものを見るような視線はきっと恐らく一生忘れないだろう。今でも思い出すだけで面白い、普段は冷静沈着で大人の皮を被った彼の、ふとした人間らしさを見るのは楽しくて仕方がない。普通ならショックを受けてしかるべきなのだろうけれども、好きな人の色んな表情を見たいと思うのは、人として正しい性だろう。
「あの時のスティーブンさんは、中々に可愛らしかったですよ」
「…それは光栄だなぁ」
そんな風に、からかっていたのが悪かったのだろう。けらけら笑っていると、不意に彼がすぅと目を細めた。
これはまずいかもしれない、と思って誤魔化すように慌ててスプーンでオムライスを掬うと、いつの間にか伸びてきた指先が自分の手首を捉えた。そのままぐいと引き寄せられて、乗っかったオムライスが落ちないのが不思議なくらいのスピードで、吸い寄せられるようにして彼の唇にスプーンが運ばれた。薄い唇が少しだけ開くと、スプーンがぱくりと食べられて。もごもごと咀嚼をしたかと思ったら、不意にぺろり、口端についたケチャップを舌先で舐めとった。赤い舌先がちらりと見えて、その間にいつの間にか落ちていた視線はこちらに向いてきて、色っぽいその仕草にくらくらするなという方がどうかしている。
「──うん、我ながら良い出来」
にっこりと、笑みを浮かべた彼は、まさしくしてやったりというような気分なのだろう。ちくしょう、しかしそれに対して目元をほんのり赤く染めてしまっているからもう反論は出来ない。そんなこちらを見てニヤニヤとからかうような視線を投げ掛けてくる彼は、いつだって自分よりも上手なのだ。
「どうかした?頬が赤いけど」
「…野暮ですよ」
「えぇ、なんのことだか僕にはさっぱりわからないなぁ」
白々しい。
「その舌、いつか引っこ抜かれますよ」
「なんだいそれ」
「嘘つきは、閻魔様に舌を抜かれるんですって」
「おや、それは怖い」
くすくすと笑いながら肩を竦める彼は全く信じていないのだろう、悪びれた反応はまるでない。ぐっと唇を一文字に噛み締めて、きっと睨み付けると楽しげな微笑みに少し苦笑が滲んだ。
「そんな顔しなくともいいだろ」
「したくもなりますよ、からかわないで下さい」
「たまにはこういうのも良いじゃないか、最近はご無沙汰だし」
こういうの、とはどういうことだろうか。確かに最近少しばかりスキンシップの時間は減っていたが、ほぼ毎日布団を共にしていただろうに。
言葉を紡ぎながらも腕は掴まれたままで、寧ろなんだか指先が絡まってきたような感じで。ぞわぞわするのは気のせいだろうか、気のせいだと良い。だってまだ、食事中なのだ。
「良い歳した大人がやることじゃないですよ、離してください」
「家なんだから良いじゃない、それに童心に返るのも悪くないさ」
そう言い切られてしまうと、中々どうして反論が出てこない。押し黙ったこちらに対して、彼は至極楽しそうで、にこにこと満面の笑みを浮かべていた。勿論、腕は解放されていない。それどころか絡み付いてきた指先がすすす、と悪戯に手首をなぞるから妙な擽ったさに眉間の皺が深くなった。
不意に、手首に絡み付いた方とは逆の手が、すぅと自分の掌へと伸びた。ゆるりと絡んできた指先は、呆気なくスプーンを捉えて、それを奪っていく。一体何がしたいのだろう、得意気に笑って奪ったスプーンをくるくると掌の中で弄んでいる彼は子供みたいに無邪気だった。
「スプーン、返してくださいよ。ついでに手も離してください」
「まぁまぁ」
まぁまぁ、と言われても。
「オムライス、冷めちゃいますよ」
「うん、大丈夫大丈夫」
「いやだから、そろそろ食事に戻りたいんですけど」
「大丈夫だって」
何が大丈夫なもんか、うろんげな瞳を向けていると、えぇ?なんて笑う彼が目に入る。困った風を装っているが、その実楽しんでいるであろうことは重々知っていた。
それまで弄んでいたスプーンが動き出し、ようやく返してくれるのかと思いきや、迷うことなくそれは皿へ向かう。程よいサイズの量を掬ったスプーンが今度向かう先は、彼の唇ではなく。
「……なんです、これ」
「え、食べたいんじゃなかった?」
食べたい、食べたいがそうじゃないだろう。口許に寄せられた一口サイズのオムライスとスプーン、そしてそれを差し出す楽しげな彼を交互に見つめては、なんと返したらいいか迷っていた。
「結婚式でよくやるらしいよ、これ」
なんの話だ。しかもそれはウェディングケーキでやる奴だし、少なくとも部屋着のままオムライスでやるような話ではない。
「今関係ないですよね」
「こんなファーストバイトもどきも悪くないだろ?」
「…いやいやいや」
「ほら、はやく食べないとオムライスが冷めるよ」
「いや、あのですね」
「ん?」
ぐう。ここで首を傾げられると、どうにもこうにも反論出来なくなってしまう。悪い癖だ、惚れた弱味だ、こうして何度彼の手管に振り回されたことだろう。この人は絶対に、自分がこれに弱いとわかった上でやっている。それがわかっているのだから従わなければ良い話なのだけれども、この可愛さの前にそんな理性が敵うだろうか、少なくとも今までは全戦全敗だ。
しかし、これは所謂「あーん」という奴ではないだろうか。もうそんな風に甘ったるいことをして喜ぶ歳でもないし、何より恥ずかしい。先程スティーブンに無理矢理奪われた時だって少し恥ずかしかったというのに、今度はこんな堂々と。
唇を噛み締めて躊躇っていると、焦れた彼は手首に絡めた指先を動かして誘ってくる。するすると、案外無骨な指先が掌へと移動して、指の間に忍び込む。擽るような手つきの割には目的地ははっきりしていたようで、自然に手を繋ぐ形となった。そして、ぎゅっと握られてぐっと寄せられる、思わず上体を少し前傾させてしまうのは仕方ないだろう。
、」
落ちてくる声は、いやと言うほど甘くて。
「──あーん」
とろけるような微笑みが、傾げた首の上に乗っていた。ちくしょう、もうこれは今回も白旗をあげる他に方法などないのだろう。
はぁ、と小さく溜息を漏らしながら、ゆっくりと唇を開く。こちらの様子に気付いたのだろう、彼はそれはそれは楽しそうに笑ってすぅとスプーンを放り込んで来た。狙い済ましたように口のサイズにぴったりな量は、呆気なく収まった。しかしこれだけで終わるのは、流石になんというか、悔しくて。
頬張ったオムライスを飲み込んでから、ちらりと、彼に視線を向ける。ん?と言いたげな彼をずっと見つめたまま、既に口許から引かれたスプーンに向かって首を伸ばして舌先を出した。意味は、ない。だってスプーンにはもう何も残っていない。丸みを帯びた背の部分に舌先を這わせて舐め上げる、言い訳はもう頭にあった。出来るだけいやらしく、なけなしの色気を総動員して舐め上げる。効果の程は、絡まった指先に力が込められたことによって明らかだろう。
「……急に、どうしたのかな?」
「いや、ケチャップが残っていたものですから」
べー、と舌先を出して悪戯っぽく笑ってやると、彼はスプーンごと手を引いて、そのまま顔を覆って大きく溜息を吐いた。
「全く、君って奴は…」
「先に仕掛けて来たのはスティーブンさんですからね。ほらもう、スプーン返してくださいよ。本当にオムライス冷めちゃう」
ぷらぷらと空いてる片手を差し出すと、悔しげな色を滲ませてるスティーブンがそっとスプーンを置いてくれた。どうやら今回はこちらの勝利ということらしい。
口許を弛ませてにんまりと笑みを浮かべながら、戻ってきたスプーンをくるりと回して、さぁ食事に戻ろうかと思ったその時。
ぐい、と絡み合ったままだった手が引かれ、そのまま勢いに抗えず身を寄せられた。いつの間にか腰を浮かせていた彼が目の前にいて、あ、と思った時にはもう遅くて。
「──ケチャップ、ついてたよ」
舌先で唇を舐められたかと思ったら、こんな言葉が降ってきて。ちくしょう、これは痛み分けだななんて思いながら、今度は自分から唇を押し付けてやった。

ファーストバイトはまた改めて

15/07/19