物珍しさというのは、それだけで心を踊らせるから不思議だ。
任務帰り、送らせようというスポンサーの有難い好意を角が立たないように丁重にお断りして一人街中を歩いていた。本来であれば、ご好意に甘えてそのまま近場まで送って貰うのだが、今日に限ってはそれもいらない。何せこれから、デートなのだから。
向かう足取りは、なんだかふわふわしていた。それもそうだろう、彼と待ち合わせなんて滅多にしたことがないのだ。仕事の合流はあれど、プライベートでの待ち合わせというのは初めてだった。それは中々に自分の心を踊らせた、理由はなんてことはない、より恋人らしいからだ。
普段、世界の均衡を保つために日夜奮闘している我々ライブラ一員は、中々どうして"普通の恋人"らしくはいかない。デートだって、お互いの時間が空いた時に帰りがてら、というのがほとんどで、それこそデート目的で待ち合わせしたことがないのだ。いや、自分だってライブラの端くれだ、彼がどんなに忙しいのかは重々承知しているし、そんな中時間を作ってくれているのも知っている。そもそも家に入り浸っている自分が望むのも烏滸がましい話なのだろうけど、それでも、まぁ、憧れはあるもので。恋人らしく、待ち合わせ。その単語だけで浮かれてしまうのも仕方ないのだろう。例え、その後どこぞの店内に戻るまで腕すら組めないとしても。
余所行きのスカートの裾を翻しながら、待ち合わせ場所へと急ぐ。つい先程、もう着いたよとメールが入っていたから、恐らく彼はもういるのだろう。最後の曲がり角の手前、ウィンドウに映った自分の姿が視界に入り、ぴたりと足を止めた。少し乱れた髪を直して、どこか妙なところがないかとその場でくるくる回りながら確認する。大丈夫なことをしっかりと念入りに確認してから、よし、と一息つく。ふにゃりと口許を弛んだ自分の顔は楽しげで、幸せそうだった。
「──確認は済んだかい?
その時、ふと耳に馴染んだ声が降ってきて、慌てて角へと視線を向けると、そこには見慣れた姿があった。やれやれ、と呆れたような、でも少しはにかんでいる恋人の姿を捉えた瞳は、驚きで丸くなる。
「スティーブンさん!」
「俺のためにおめかしするのは良いんだけど、長いよ」
「その帽子、どうしたんですか?」
「…君、人の話聞いてないだろ」
はぁ、と溜息を吐いたスティーブンの頭には、いつもと違い、麦わら帽子が鎮座していた。珍しい、普段は帽子なんて被らないというのに。目を丸くしたまましげしげと見つめていると、居心地が悪いのか彼はぽすっと帽子に手を乗せて被り直す。仕草ひとつが妙に様になっているから、この人は本当に伊達男だなぁと逐一感じるのはいつものことだった。
「さっき、買ったんだよ」
「はぁ、スティーブンさんが…」
「任務でうっかり、隣の帽子屋に被害が及んでね。流石にそのままだと夢見が悪いだろう?」
だから、適当に選んで買ってきたと。そう告げた彼の眉尻は下がっていて、困り果てた挙げ句の策だったことがわかる。
しげしげと、麦わら帽子の天辺からいつもの靴先に至るまでしっかりと見つめてから、言葉を紡ごうと唇を開く。居たたまれなさそうな、なんとも言えない表情は無視だ。
「それにしても…」
「言うな」
「スーツにそれは、どうなんですかね」
「……なんで無遠慮に続けるのかな君は。俺、今言うなって言ったよな」
「いやぁ、ついうっかり」
へらりと誤魔化すように笑うと、スティーブンの眉間に皺が刻まれた。伊達男の彼のことだ、身嗜みに気を遣っているし、自身に一番似合うものも承知している。だからこそ、そんな彼が今の姿には少し不釣り合いな麦わら帽子を選んだのは何かしらの理由があるのだろう。そう察することは簡単だったが、ついつい口がついて出てしまった。
へらへら笑っているこちらに対して、言及するのも疲れたのだろう、彼は帽子を手に取って溜息混じりに呟いた。
「これしか無事な商品がなかったんだ」
「わぁ」
不運な人だ。いや、店を破壊した原因なのだろうから、自業自得なのか。
納得したようにひとつ頷いて見せると、胡乱げな視線が飛んでくるから両手をあげる。白旗宣言だ、そもそも彼を口で負かすことが出来ないことは嫌というほど理解していた。
ごほん、とわざとらしい咳払いをひとつして、本題というか一番に思った感想を告げた。
「まぁ、似合ってますよ、やっぱり」
「嫌味かい?」
先程の指摘が尾を引いているのだろう、案外ねちっこい彼は肩を竦めながら言った。こちらも自業自得なのだけれども、なんというか、信用がないなぁとは思う。紛れもない本音で、こういったことでこちらは一切嘘を吐いたことなどないと言うのに。そもそも好かれている自覚は十二分にあるだろうに、この人は極稀に卑屈になるから性質が悪い。そういう面倒臭いところも、勿論愛しているのだけれども。
「いやいやまさか。相変わらずスティーブンさんはかっこいいなって、なんでも似合うなぁって、やっぱりいつ見ても、どんな姿でも好きだなぁって」
「…そりゃあどうも、後半関係ないけどね」
「あ、信じてませんね?本気ですって」
「わかったわかった」
ぽん、とせっかく直した髪を帽子を持った手とは逆の方で撫でられる。これは、どうやら真剣に信用されていないらしい。あれだけ愛を囁いてきた女の言葉を信用しないとは何事だ、と遺憾に思う。眉間の皺が深まるのも仕方がないだろう。しかしまぁ、信用されていないのならば、信用して貰えるまで続けることが一番だ。
嘆息しつつも、言葉を続けようと彼の顔を見上げると、その苦笑にふとした違和感を覚える。なんだろう、これは。どこかで覚えがある違和感だ、既視感と言ってもいい。一体いつ、この違和感を覚えたのだっけ。答えにたどり着いた時には、もう既に唇が動いていた。
「……スティーブンさん」
「ん?」
「もしかして、照れてます?」
「…なんのことだい?」
完璧な笑顔で、首を傾げる彼。恐らく想いが成就してすぐの頃合いだったら、気付いていなかっただろう。あの頃の自分は若かった、いや大して昔の話でもないけど、それだけ浮かれていたから仕方ない。しかし、自分がどれだけスティーブンを見てきたのか、この人はそろそろ自覚するべきだと思う。そんな笑顔で誤魔化されてやるほど、優しくも大人でもなかった。
「今、間があった、やっぱり照れてるんだ」
「照れてないよ」
「今更照れなくても、私がスティーブンさんにめろめろなのはわかってるでしょうに」
「君本当に人の話聞かないな!」
強めの言葉も、全く怖くない。ふふふ、と弛む口許をそのままに笑みが零れた。伊達男らしくなく、がじがじと髪を乱しながら頭を掻いた彼は、可愛い。普段はあまり見れない表情だ、カメラがあれば今すぐに撮影したいくらいだ、勿論嫌がるだろうけど。
「本当に素敵ですよ」
「わかったから」
「だいすきです」
「…ここが外なの、忘れたか?
おっといけない。慌てて口を両手で覆うと、はぁと深い溜息が落ちてきた。
暗黙の了解とでも言うべきだろうか、我々は外では決して恋人らしい接し方をしない。今日はデートだし、室内だと人目もあまりないし、そもそも彼が連れていってくれる店はいつだって個室のところばかりだからあまり気にしていなかったが、待ち合わせをしているということはここが外であるということで。三十六番街に程近い待ち合わせ場所だ、いくら路地裏と言えども、どこで誰に見られるかわかったものではない。だったらデートなんてしなければ良い、と思うのだけれども、それでは流石に味気ない。こういうのも、中々スリルがあって楽しいのだ。ハニートラップの相手に会う度に、腸が煮え繰り返りそうにはなるけれど。
「すみません、ついうっかり。スティーブンさんがあんまり可愛らしいので」
「…」
「怒らないでくださいよ」
えへへ、と笑いながら言い訳をすると、鋭い視線が沈黙と共に突き刺さってくるから恐ろしい。おお怖い、と思わず肩を竦めて両手をあげると、不意に影が落ちてくる。
ふわり、香るのはいつもの香水と麦の匂い。そして唇に柔らかな感触が重なって、キス、されたのだと実感する。驚きに目を丸くしたまま、呆然と彼を見つめていると、間近でふんと鼻を鳴らした。これはまさか、堕落王が仕掛けた罠とかで実は今まさか立ったまま幻覚やら夢やらを強制的に見せられているんじゃないだろか。しかし、頬に当たるちくちくとした感触が、これは現実なのだと教えてくれる。
「──減らず口は、塞ぐに限るな」
ぼそり、呟くと同時に彼は身を引いた、それと同時に頬に走る感触も引く。ぼんやりと見つめていると、目の前でゆらゆらと麦わら帽子が揺れていた。
「こういうアイテムがあれば、外でだってこういうことも出来る。君のその減らず口も早急に閉じれる。案外、麦わら帽子も悪くないなぁ」
なるほど、気障な男だ。つまり今、彼は帽子で口許を隠してキスをしてきたと、そういうことなのだろう。そんなの口許が見えないだけで体勢でほぼバレるんじゃないのか、と言いたかった。こんな子供じみた仕返ししなくとも、と言いたかった。しかし、それは叶わない。ぼっと顔が赤くなり、わなわなと唇が震えているからだ。視線だけは、いつも通りきっと睨みつけられたが、それもこの顔では大した威力もないのだろう。彼は先程から、楽しげに笑みを浮かべていた。
「この俺をからかおうなんて、二十三年はやいよ」
そう言いながら、彼は手に持った帽子を、こちらの頭にぽすんと乗せた。妙にリアルな数字に押し黙りながら、その帽子の縁を握りしめて悔しさを味わう。ちくしょう、とはやくなる鼓動を無視しながら唇を噛み締めていると、不意に彼が屈んでこちらの顔を覗き込んできた。こんな子供だましみたいな行為より、もっとずっと浅ましい行為を何度も繰り返しているというのに。まるで少女のように赤面して、うるさいくらい心臓が高鳴っているのは、きっと全部ここが外だからだ。
「──あぁ、俺より君の方が似合ってるね。あげようか」
こんな、明らかにサイズオーバーな帽子が似合うはずもないというのに、そう言って微笑む彼が、あんまり可愛くて、あんまりかっこよくて、あんまり心を踊らせるから。せっかく整えた髪が乱れるのも厭わずに、がばっと帽子を脱いで、先程彼がしたようにお互いの口許を隠すようにして頬に当てる。少しばかり背伸びして、ちゅっと音を立てて、唇を奪った。多分、周りから見たら内緒話でもしてるように見えるのだろう、そうだと思いたい。
驚きに丸くなった瞳は、どこか楽しげで嬉しげで、きっと多分こうなることを予測していたのだろう。何もかもがお見通しの恋人は、偉く満足げだから、ちくしょうとまた歯がゆさを覚えた。
唇を離して、先程の彼同様ふんと鼻を鳴らして、屈んだお陰で近くなった頭にぽすっと乱暴に麦わら帽子を乗せた。
「確かに、便利ですね」
「気に入った?」
「でも、やっぱりスティーブンさんの方が似合いますよ」
「そう?」
「だって、穴があるように見えて、抜け目ないですからね」
皮肉めいた言い回しになったのは、少しでも意趣返しをしたかったからだ。目を丸くした彼を無視して、ふい、と顔をそらしながらパタパタと乱れた髪をもう一度整え直す。くつくつと、間近で聞こえてくる笑い声は無視だ。
「今度から、外では帽子を被ろうか」
「スーツに麦わら帽子とか、正気の沙汰じゃないですね」
「──もう一回使う?帽子」
「…それ、聞くんですか」
にぃ、と口端をあげて笑った彼がまた身を屈める。頬に当たるちくりとした感触には、だんだんと慣れてきた。今度は目を丸くしたりなんかしない、瞼を下ろしてただ待つだけだ──愛しい人からの、隠れた口付けを。

秘め事は隠してしまえばいい

15/07/20