日常というのは、まさに日々を送る上で当たり前のように事が過ぎていくというものだ。
それは人によって様々で、例えば娼婦であれば誰と知らない男に抱かれるのも日常、例えば警察であれば違反者やならず者を捕獲しブタ箱に突っ込むのが日常だろう。
まさに平々凡々、この街に住んでいることくらいが少しだけ特殊と言えるだろう自分の日常は、いつだって至って普通だ。書類仕事をして、打ち合わせをして、上司に報告して、時折やってくる何かしらのとばっちりの事後処理を顔見知りの警部補に頼み、忙しい恋人がたまに作ってくれる時間を幸せだと噛み締めながら過ごす。
そんな日々の繰り返しが自分にとっての日常なのだから、爆風に吹き飛ばされたり、その上着地に失敗して足を挫いたり、よくわからないただならぬ面持ちの方々に囲われたりすることは、多分恐らく、非日常と言っても過言ではないのだろう。
、君、一体、どうして」
「スティーブンさんこそ、どうして」
「俺は"仕事"で…というか、君、どうしてそんなことになってるんだい…?」
そんなこと、とは。目の前に現れた恋人の姿に気が動転していたが、そういえばツェッドと呼ばれた彼に抱き上げられていたままだった。慌てて見上げると、ツェッドも困惑した面持ちだった。人類と違って表情はわかりにくいが、雰囲気が困り果てている様子だったので恐らくそうなのだろう。
どう説明したらいいものか、そもそもこちらだって説明して欲しい。一体これは、なんの騒ぎなのだ、と。いや彼の言葉から恐らくも何もこれは世界の均衡を保つための仕事のひとつで、自分は運悪くそれに巻き込まれたのだろう。先程から頭の中だけは妙に冷静で明瞭な考えが降って涌いて出てくるというのに、言葉にすることは敵わない。ただただ、呆然とスティーブンを見返すばかりだった。蘇芳色の瞳は丸みを帯びていて、いつもはニヒルに笑みを作っている薄い唇はぱかりと開いていて実に間抜けで。しかし、彼以上に間抜けな顔をしている自信はある。周囲の彼の"仕事仲間"の人々も、何がなんだかという形で、どうするか考えあぐねている様子だ。
「取り敢えず、」
降ろしてください、そう告げる筈だった言葉は轟音によってかき消えた。響く音に相応しい衝撃が身を包む、砂埃に思わず目を伏せるが、ツェッドに抱えられていたお陰で今度こそ無様に吹っ飛ぶことはなく、なんとかその場に留まっていられた。
しかし、次の瞬間、突如として身体は震え始めることになる。殺気と言うのだろうか、それとも覇気とでも言うのだろうか。兎にも角にも、日常生活ではまず味わうことのない、張り付くような空気に圧倒され、身体は本能に従って震えるしかなかった。カタカタと、歯がかち鳴るのも無理はないだろう、何せ糸目の少年以外の全員から溢れ出る空気が余すことなく全身を包んでいたのだから、生唾を飲み込むことすら敵わない。
「──スティーブン」
「あぁ。話は取り敢えず、奴を仕留めてからにしよう」
赤髪の大きな体躯の男性が恋人の名を呼び、いつも甘くて優しい声で笑う恋人は、至って落ち着いたトーンのまま冷たい声でそう返した。こちらに背を向ける一瞬見えた彼の瞳はぎらついていて、薄い唇は弧を描いていた。いつものようなとろける笑みではない、狂喜にも似た、歓喜にも似た戦士の笑みだった。それに一層身震いしたのは、恐怖からだろうか。いいや──
「K・K、少年と共に後方へ」
「命令しないで。…わかってるわよ」
「少年。、いや彼女を頼めるか」
「え、鋭意努力します!」
「あぁ頑張ってくれ、傷ひとつ付けないように丁重に頼むぞ」
「う、うっす!」
傷ならもう負っていたが、それを知らない彼は、部下であろう糸目の少年にそう命令した。素直に敬礼の形を取った少年は、ツェッドから自分の身体を受け取っていた。今度は負ぶさる形で身を預けることになってしまった。いや、今更だけれども一人で動こうと思えば動けるのだが。そもそも体躯の小さなこの少年に、自分を背負わせるというのはあまりに付加が大き過ぎるのではないだろうか。
「一応、妹抱えて走ったりもしてたんで、貴方くらいなら大丈夫っすよ」
「……それは、どうも」
申し訳ないやら、有難いやら。
心中に潜めていた筈の不安や心配が呆気なく看破されて、顔を俯かせると、少年はけらけら笑った。なるほど、頼り無さそうに見えるがやはり彼の"仕事仲間"なのだろう、こんな空気の中で笑えるなんて自分には到底出来そうにない。ただ、震えは少しだけ収まった、かち鳴っていた歯はなんとか食い縛ることで止まった。そのことに気付いたのだろう、肩越しに振り返った少年はにっと笑った。
「まぁ、大丈夫っすよ。すぐ終わるでしょうし」
「すぐ…?」
「えぇ、はい、取り敢えずとばっちり受けないように離れましょ」
「そうそ、ドンパチ始めたら、あいつらこっちのことまるで考えないんだから!」
ブロンド美人はずばっと言い切るとカツコツとヒールを鳴らしながら先へと進んでいた。その後ろ姿の綺麗なこと。ほう、と場違いにも吐息を漏らしてしまう──そして同時に思い出す、まだ彼とこういう間柄になる前に、彼と二人で歩いていた女性だということを。
「ほらレオっち、はやく!」
「ういっす!」
そうして、風を切りながら少年も駆け出した。自分を背負いながらここまで動けるというのは意外で、人はやはり見た目によらないものだなぁと呑気に思いながら、ふと、後ろを振り返った。
──異界の生物は赤い剣、赤い槍、赤い十字架のようなモチーフによって、ひどくダメージを負っているようだった。それでも生命力が強いのだろう、まだ動こうとする四肢、と表現するべき箇所が蠢いている。そして反撃しようと振りかざされたその鋭利な四肢は一瞬にして動きを止めた。ひんやりと、肌を包む風は少し冷たい。異界の生物はスティーブンの蹴りを食らった直後、氷の槍のようなものに貫かれていたからだ。破片だろうか、粒子のように細やかな氷が霧の中で乱反射しているのが見える。
「──きれい」
ぽつり、呟いた言葉は、紛れもない本音だった。血みどろで、鋭利で、瓦礫だらけの路地裏だった場所で戦う彼らの姿は、ひどく美しかった。その中でも一層目を奪うのは、惚れた弱味なのだろうか、やはりスティーブンで。最早、細胞レベルで牽かれているのでは、そう危ぶむくらいに、どくどくと鼓動が早くなっていた。勿論、恐怖からではない。
「っレオ!」
銀髪の青年が叫ぶと同時に、ざりっと音を立てて糸目の少年はターンをする。異界の生物からは充分に距離を取った位置だ、ぐるりと回った視界の端に、美しすぎる青い光を見た気がする。
「K・Kさん喉元!」
「任せときなさい、レオっち!」
そうして、ブロンド美人が言葉を叫び、構えた銃から稲光りのような銃弾が発射され、異界の生物は呆気なく潰れていった。まるで溶けていくように、さらさらと。



:::



「…全く、君の運の悪さには、ほとほと驚かされるね」
「えぇもう、ほんとに」
がっくりと項垂れた彼は、瓦礫に腰掛けた自分の前で跪いていた。あはは、と乾いた笑いを漏らすと、はぁと深い溜息が落ちてくるから中々笑えない。そして、彼越しに見える銀髪の青年がその顔を面白いくらい腫れ上がらせているから尚笑えない。
脅威であった異界の生物が沈下し、事の成り行きを全て話した直後、まずスティーブンが容赦のない蹴りをその顔面に食らわせた。あまりの綺麗な蹴りに思わず息を飲んだのも束の間、次にブロンド美人がその頬を思いきり平手打ちした。バチンッととんでもなく良い音がしたなぁと思ったあとに、止めとばかりに赤髪の青年からの一発が収まって、銀髪の青年の現状が完成したのである。糸目の少年とツェッドは見守っていただけだったが、助ける気はまるでなかったようで、銀髪の青年がなんだかとても憐れに思えてきてしまうのも仕方ないだろう。
「ええと、その、彼は大丈夫なんですかね?」
「あぁ、あのクズのことは気にしなくても良い。そんなことより君の捻挫の方がよっぽど大事だ」
「いや明らかに重症なのは彼の」
「──
「…ちょっと、腫れてるだけで」
「ちょっと、ね」
言うが早いがこちらの体勢などお構い無しにぐいと持ち上げられた足首は勿論悲鳴をあげた。そして、無様にも喉元からもその悲鳴は出るから情けない。
「こんなに赤くなっていて、ちょっと?」
「……面目ないです」
「…怒ってる訳じゃないよ」
ふぅ、と胸を撫で下ろした彼は、確かに言葉通り怒っている様子はなかった。しかし、その眉間には皺が深く刻み込まれているし、いつもは落ち着いているというのにどこか居心地悪そうにそわそわしているように見える。
「どうかしました?」
「…うん、まぁ、明日一体どんな目に合うのかって考えるだけで嫌だなぁって」
ははは、と目が全く笑っていない中、空元気とも呼べるような笑い声が響く。思わず瞬きをひとつしてから首を傾げると、スティーブン越しに今度はブロンド美人の楽しげな笑みと赤髪の青年の穏やかな空気が見えた気がした。一瞬だったので、気のせいかもしれないが。
ふわり、と浮遊感を感じる。普段より数段高い視点、鼻腔を擽るのは嗅ぎ慣れた香水とほんの少しの血の匂い。そしてどくん、どくん、と少しばかり早い鼓動が耳に届いて。
「──悪いけど、後は任せるよクラウス」
落ち着いた、いつもの声が落ちてきて、ようやくスティーブンに抱き上げられているのだと知る。慌てて身を捩ると、予見していたのだろう、膝裏と肩口に力が込められた。これはどうやら、大人しくしておけとそういうことなのだろう、珍しく強引な行動だ。その意味がわからないほど鈍くも子供でもなかったので、そっとその襟足に両手を伸ばして体勢を整える。顔を見上げると、ふっと和らいだ笑みが落ちてきて、思わずこちらの口許も弛んでしまった。
「あぁ、構わない。そちらのレディは、君の恋人なのだろう、巻き込んでしまって申し訳ない」
こいびと。その言葉に、ぶわっと一気に頬に熱が集中するのを感じる。いや、彼とこういう仲になって久しいのは事実で、職場にもそういう間柄の人がいるというのは浸透している。そこまで初ではないと思っていた、しかしながら、改めて言葉にされるとなんだかもう居たたまれなくて、恥ずかしさやら嬉しさやらで一杯になってしまう。
「…うん、まぁ、そうなるかな」
珍しく、歯切れの悪い言葉にぱっと顔をあげると、目許をほんのりと赤くさせて、なんとも居たたまれない表情をしているスティーブンの顔が目に入った。もしかして、彼も同じ気持ちなのだろうか。百戦錬磨であろう彼も、自分と同じ、なんともむず痒い気持ちを抱いているのだろうか。
「ならば、すぐに落ち着く場所に行って安心させてやるべきだろう。こちらのことは心配ない」
「すまない、明日…うん、きちんと後処理するから」
「明日、ちゃんと来なさいよ」
「…わかってるよK・K」
最後は、吐き捨てるような投げ捨てるような、そんな言葉だった。くるりと背を向けて歩き出す彼の表情は、珍しくも大人の仮面が剥がされたような気がしてならない。隠し事が見つかってしまって、でもそれはそれで悪くないと思っているような、まるで思春期の少年のような少し恥ずかしそうな表情──そんな顔されてしまうと、こちらの恥ずかしさはどこかへ吹き飛ぶ。そして、とてつもなく可愛らしい彼を、ただひたすらに見つめていたくなってしまう。でも人間、欲望は尽きないもので。そんな可愛らしい表情の彼をもっともっと見ていたいと思う訳で。それでも理性を振り絞って、まずはこうするべきなのだろう。
「…スティーブンさん」
「ん、なに」
「お仕事の邪魔になって、すみません」
「不可抗力だろ、それにあれはザップ…あのクズが悪い」
どうやら銀髪の青年はザップというらしい。いやはや、お互い不幸な事故だったと思うのだが、周囲から見るとどうも彼が悪くなってしまうらしい。余程日頃の行いが悪いのだろうか、しかしながら流石に寝覚めが悪いので彼づてに何かしらお詫びをしたいなぁとぼんやり思う。それがザップに届くかどうかはさておき、このままだとこちらの気が済まないのだから仕方ない。
そして、ここからが本題だ。むくむくと湧き出てくる悪戯心にも似た欲望が抑えきれないのは、やっぱりまだまだ子供なのかもしれない。
「あと、」
「うん?」
ぐっと、襟足に伸ばした指先に力を込めて上体をあげると、自然と顔を近付くことになる。いつもはその端正な顔立ちにひたすら鼓動を跳ねさせてめろめろになってしまうのは自分だが、今回は少しばかり目的が違うのでそのドキドキとやらは忘れることにした。
「ちょっと、照れてます?」
「…まぁ、それなりに」
珍しいくらい素直な返答に、それがどうしようもない事実なのだとわかって、顔が弛むのが止まらない。そんなこちらを見て、困ったように眉尻を下げる彼の瞳には先程のようなぎらつきもなく、ただ甘さだけが残っていた。
「お仲間さん、素敵ですね」
「そうかい?いつも大変なんだよ」
「戦ってるスティーブンさん、初めて見ました」
「…危険な目に合わせてごめん」
「そんなの、ヘルサレムズ・ロットに居たら自業自得ですよ。たまたまツいてなかっただけです」
「──君、ほんと男前だなぁ」
「まぁ、それなりに?」
先程の彼の言葉を借りて返すと、ぷはっとスティーブンはようやく笑った。
破顔する彼は本当に珍しい、その上次はワーカーホリック気味の男から出るとは到底思えない言葉が出てくるから驚きだ。
「あーあ、明日は仕事に行きたくないなぁ」
「おや、珍しい」
「君のことで質問攻め確定だからね、主に二人から」
「そんなの、私はもう数ヵ月前に済ませましたよ」
「…なるほど、通過儀礼か」
「えぇ、だから観念してください?」
「……でもやっぱり嫌だなぁ」
への字に曲がった唇に目を細めて笑った。またいつか、こんな偶然が起きて、こんな風に巻き込まれて彼の仲間と顔を付き合わせてる日が来るかもしれない。何せ彼との出会いさえもそうだったのだ、偶然に偶然が重なればそれはもう偶然とは呼べない。そう、陳腐な言い方をすれば──そうなる運命だったのだ。
だからまぁ、そんな非日常がまた起きたら、その時はやっぱり今日はツいてなかったなぁと笑うしかないのだろう。



:::



「いやぁ、スティーブンさん、あんな顔もするんですねぇ」
「それだけ彼女が大事なのだろう」
「しかし、あの女性、割と冷静でしたね。普通だったらもっと脅えてもおかしくないと思いますが」
「そりゃあ、あの腹黒男があーんな顔するくらいだし?一体どこで捕まえてきたのかしら、明日とっちめてやらないと」
「…ところでザップさん、生きてます?」
「急所は外れておりますので、大丈夫かと」



またの機会に、どうぞよろしく

15/08/05
リクエスト企画【事件に巻き込まれたヒロイン、うっかり巻き込んでしまったライブラメンバー。それを見て大慌てのスティーブン※一般人設定】
以下、リクエスト主様へ私信



まずはじめに、リクエスト誠にありがとうございました!!
いつかやりたいなぁと思いつつも、一般人ヒロインであるが故に踏み出すのに迷っていたライブラ陣との絡みが書けて非常に楽しかったです!
あまりスティーブンさんが大慌てしてなかったり、うっかり巻き込んじゃったライブラ感が薄くて大変申し訳ないんですが、こんな形に仕上がりました。そしてまた前後編になったにも関わらず、間が空いてしまってすみません!
苦情などなど受け付けております。ほんの少しでも楽しんで頂ければ幸いです。これからも、よかったらこっそりでも堂々とでも当サイトにいらして下さいませ!
それでは、繰り返しになりますが、リクエスト頂き、誠にありがとうございました!