「スティーブンさんって、手冷たいですよね」
夜の帳が降りきって、もうすぐ夜明けも近いのだろう時間。掠れた声でそんなことを呟くのに、理由なんて特にない。しいて言うなら頬を撫でる指先のせいだろう、言葉通りの冷たさは驚くほどに心地よいのに、眠気は何処かへ飛んでいってしまったようだった。
彼は、そんな言葉にほんの少し瞳を丸くして、緩く首を傾けた。重力に逆らうことなく垂れ下がった髪がふわりと揺れて、シャンプーの爽やかな香りが少し漂う。濡れた髪が、ぺとっと頬の傷跡に沿って張り付いていた。頬杖をつくようにして寝転がっている彼の姿は、普段別の女性相手に見せているようなピシッとした優美さがなく、だらしない。だけど、濡れたままの髪の香りだとか、ゆるりとしたリネンのシャツに身を包むその不用意さだとか、そういったものは、自分だけが知っていれば良いと思う。これもある種独占欲なのだろう、誰にも言えない秘密の恋──という訳でもないが、それでもやっぱり大っぴらな間柄にはならないだろうから、心中でこっそり思うくらいは許してもらいたい。
「なんだい、急に」
スティーブンは、そう言いながら頬を撫でる手を止めることはなかった。するりと撫でてくる指先は、やっぱり冷たくて心地好くて、思わず目を細めてしまう。彼と同じように、濡れた髪をそのままにシャツ一枚ひっかけただけのだらしない姿でシーツにくるまっていた身体は、彼の胸元に寄せられていた。もう少し近寄ろうと身を捩るとふわりと香る匂いに、目を細めて笑うのは、同じ香りに包まれている安心感のような、独占欲が満たされているような、そういったふわふわとした感情のせいだ。勿論、こういう時間を彼と二人で味わえるというのも、理由のひとつではあった。
「手が冷たい人は、心があったかいってよく言うじゃないですか」
「…あぁ」
聞き慣れた、と言わんばかりの顔だった。ほんの少し寄せられた眉間の皺は、今まで何度もこういった問答を繰り返したからだろうか。ちりっと焦げ付くような胸の痛みは、紛れもない嫉妬だ。見ての通りの伊達男、そして一部の女性には腹黒男と呼ばれる彼が、その浮き名が轟かせていることは言うまでもない。夜、シーツに包まれながら"こういったこと"をするのには、慣れっこなのだ。今更妬くのも馬鹿馬鹿しいだろうが、いらつくものは仕方ない。それでも、それを素直に口に出すのは自尊心が許さなくて、彼同様に眉間に皺を作るくらいしか出来ないのだから、全く厄介だ──優しく撫でていただけだった指先が不意に頬を掴んでくるから、すぐさまその眉間はすぅと消えるのだけれども。
その指先から痛みが発せられることはない。これは所謂、ご機嫌取りのようなものだ。蘇芳の瞳を覗くと、ちらりと見え隠れするのは、呆れと少しの不安。これを感じ取れるようになるまでに、月日がどれだけ必要だったろうか、もう少しわかりやすくなって欲しい。要するに彼は、君以外とこんなピロートークは交わしていないよ、という抗議をしているのだ。それを直接的に口にしないのは、彼との歳の差、ではなく──こうして構われてしまうとすぐに弛む自分のせいだろう。彼の瞳に自分の姿が映っている、それだけで心跳ねるくらいには溺れている。それに、彼のこういった子供っぽい仕草がいとおしくて仕方ないのだから、これはなるほど、理に叶っているのである。
「よく言うね、だから?」
「気のない返事ですねぇ…だから、スティーブンさんの心はあったかいんだなぁって思ったんですよ」
ぱちり、瞬きをひとつした蘇芳の瞳は次の瞬間には丸くなり、口がうっすら開く。少し間抜けにも見える表情だ、こういった姿を見れるのも中々に珍しい。頬をふにふにと掴んでいた指先も、ぴたりと動きを止めていた。その顔を形容するのに一番相応しい言葉は、驚愕か戸惑いのどちらだろう。
一体どうしたことなのか、そんな妙なことをいった覚えはないのだけれども。というか、掴んだまま動きを止められると喋りにくいのだが、これはどうにかならないのか。
流石に指を離して貰うべきか、そう考えた矢先に、ぽつりと言葉が落ちてくる。間接照明の微かな明かりだけが確かな部屋のせいだろうか、やけに近く聞こえてきた。
「俺の心が、あったかい?」
「ふぁい」
「……君、なんでそんな気の抜けた声出してるの」
「すてぃーぶんさんのせいです」
まるで幼子みたいな喋り方がおかしいのか、スティーブンはすうと目を細めて笑った。楽しげだ、無防備なその微笑みにどくんと胸が高鳴るのは、いつだって彼に恋をし続けているからで。この微笑みは今自分だけのものだ、なんて程度の低い優越感すら覚えるのは、それだけ恋をし続けているからで。とどのつまり、彼にいつまでも首ったけなのだ。
微笑みついでに、ようやく掴んでいた手を弛めてくれた彼は、指先で撫でるように頬のラインをなぞりだした。その指先はやっぱり心地よくてするりと頬を自ら寄せる。節立った指、少し硬い掌、そして何よりその温度。好きだと思う、愛しいと思う。このまま時間が永遠に止まればいいのに、そんな陳腐なことを考えては、すぐに馬鹿馬鹿しいなと打ち消した。そんな限られた時間のスティーブンを独り占めするより、もっといろんな彼を見ていたい。強がりなんかじゃない、だって彼は、いつだって大勢の中から、自分を選んでくれたのだから。
「それで、あったかいって?」
飛んできた言葉に、現実を思い出して、伏せた瞼を持ち上げる。視線の先には首を傾げたままの彼の姿があり、かち合った瞳は質問の答えを求めているようだったので小さく頷く。
「誰が?」
「スティーブンさんが」
「俺のなにが?」
「心が」
ポンポンポン、小気味良いリズムで進む言葉の応酬は、理解が出来ないと言わんばかりに頭を振ったスティーブンによって止められる。なんだその反応は、こちらはきちんと答えたというのに。
「なんですか」
「そういうの、嫌というほど聞いたけど」
頬を撫でていた指先が、するりと額へ向かう。
「最後はいつも、"でも貴方は違うわ、本当に冷たい人"って言われてたからさ」
「……なんです、モテ自慢ですか」
「違うよ、だからびっくりしたってだけ」
深い皺が刻まれるのを予見していたのだろう、眉間に移動した指先がぐりぐりとその皺を押し広げていた。ちくしょう、こんなので誤魔化されると思うなよ──そんな風に言えたらいいのだが、気持ちとは裏腹に眉間の凹凸はなくなった。
「君は、俺があったかいって思うの?」
頷くと、彼の唇はへの字に歪んだ。珍しいその顔も可愛いなぁとぼんやり思いながら、唇を開く。
「スティーブンさんは、冷たい人なんかじゃありませんよ。ぶってるだけですもん」
「は?」
「ほんとは痛いのに、痛くないって言ってるだけなんです」
そう、彼は案外かっこつけなのだ。
我々の仕事、ライブラの一員として動くために一体どれだけのプライベートを犠牲にしたのだろう。好きでもない女にハニートラップを仕掛けて、そんな言葉を山程聞いて、それでもなんでもないですよ、なんて態度を取る。それは見た目通りの言動なのかもしれない、そういうところに女性は心惹かれるのかもしれない。
「わたし、スティーブンさんのそういうところがすごく好きです」
痛いのに痛くないって、悲しいのに悲しくないって、そうやって他人を騙し続けて、いつしか自分すらも騙してしまったかっこつけ。伊達男、腹黒男、スカーフェイス、そんな彼の呼び名なんてものは、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げつけてやる。
意外と笑いの沸点が低いところとか、笑った時の目尻の皺とか。かっこつけちゃうところとか、かっこつけ過ぎてそれがデフォルトになって苦しんでるところとか。こうやって、信じられないものを見るような瞳だとか。そういった全てが愛しい、人間味の溢れる彼が、愛しくて愛しくてたまらない。
「スティーブンさんは、あったかいんです。私の前ではかっこつけて、氷の男ぶらなくても良いですよ」
「──まいったね」
ふにゃっと、驚きに見開かれていた瞳が細められる。ほら見ろ、冷酷男がこんな風に、どうしようもなく嬉しそうに笑うものか。瞳をほんのり潤ませて、へらへらと笑うものか。
は、俺が思っていたよりもかっこいいみたいだ」
「スティーブンさんは、私が思っていたよりもかわいいみたいです」
「なるほど、俺達は相性が良いらしい」
「そうじゃないと困ります」
ふふふ、笑みを浮かべて、額を撫でる手に指を絡める。すぐさま応じた彼の指先はやっぱり冷たいけれど、どこまでもあたたかいのだと思う。このあたたかさを自分だけが知っていれば良い、そう思うけれどもう遅い。何せ、既に騒がしい面々には知られているのだ。それを知らないのは、彼本人ばかりという皮肉は、かっこつけの彼にお似合いなのかもしれない。教えてあげたらきっと彼は驚いて、それからとても嬉しそうに笑うのだろうけれど──あと少し、もう少しだけ、このかわいい姿を独り占めさせてもらうとしよう。



指先をひとりじめさせて

15/10/30