いつもの、ありふれた昼下がりのことだった。
「童貞クンは黙ってろよバーカ!」
「うっせーこのヤリチン!!いつか病気にかかっちゃえばいいんだよアンタなんか!!!」
多少下劣で、多少子供っぽいやり取りもいつものことだ。何が切っ掛けなのかは知らないし知りたくもない、いつも通りお気に入りのマグカップでギルベルトの淹れてくれたコーヒーを啜った。バサッと開いた新聞に視線を落とすと、相変わらず訳のわからない事件がてんやわんや並んでいる。いつも通りの光景──の筈だった。
「……そういやザップさん、最近さんのこと、例の呼び方してないっすね」
「あ?」
例の呼び方、その表現の仕方は彼女に気を遣ったのか、それとも単に気恥ずかしかったのか。どちらにせよレオナルドらしい表現方法だった、だが何故その話題になる。頼むから、何が言いたいのかさっぱりわからないままでいてくれ。そう心中で願っていたというのに、度しがたいクズはこういう時ほど頭が回る。
「…あー、処女か?」
「それっすね」
レオナルド、お前さっきは恥じらったくせにそこはあっさり肯定するのか。
「いやぁ、もう言えねぇだろ〜」
見なくともわかる。恐らく奴は、ニヤニヤと下品な顔をしているに違いない。その顔に出る癖なんとかしろって何度言ったっけな、多分奴はその度に忘れているのだろう。鳥頭か、いや三歩過ぎるまで覚えている辺り鳥の方がよっぽど賢いかもしれない。
「なんでっすか?ザップさんもようやく大人になろうと思ったんすか」
「てっめこの陰毛頭!俺はいつだって立派な大人だボケ!」
「人のこと陰毛頭だ童貞だ言ってる時点で全っ然大人じゃねぇよ!!」
全くだ。大いに頷きたい、がしかし、いくら執務室で開けっ広げに話されていることとはいえ、聞き耳を立てているということを知られるのは憚れる。これは恐らく下らないプライドなのだろう、下らない、大いに結構じゃあないか。プライドをなくしたらきっと自分のような人間は生きていけないかもしれない。そう、かっこつけはかっこつけがデフォルトで装備されているのだ。
「…ま、アイツの場合は事情が変わったから仕方ねーよなぁ」
ふっ、と笑いながら言うクズの声はやけに艶が乗っている。ハスキーな声に乗せられた低音は、恐らくそれなりに女性を喜ばすのだろう。奴の女性関係が、言葉にするのも恐ろしい程にぐちゃぐちゃと糸が絡まり合っているにも関わらず、五体満足で生きている理由はそういう所以なのかもしれない。全く、女とは不可解な生き物だ。その不可解な生き物と付き合っているという事実にはそっと知らんぷりを決め込んで、そんな勝手なことを考えた。男とは、どんな環境で育ったとしても身勝手なものだ。我らがリーダーも案外身勝手な男なのだから、これは男というDNAに刻み込まれているに違いない。
「事情?」
「そりゃおっ前、スカーフェ」
ダンッ──と、大きな音がして、途端に静まり返る執務室。持っていたお気に入りのマグカップを、叩き付ける勢いで執務机に置いたせいだ。机が多少傷つくかもしれないと一抹の不満を覚えたが、そこは流石ラインヘルツ御用達、ひとつの傷も残っていなかった。マグカップも欠けることなく、残り少なくなっていたコーヒーが揺れている。先程まで騒がしかった二人は、びくりと肩をいからせたまま凍りついていた。その姿は滑稽だ、しかし笑えない。
「…ザップ、レオナルド」
びくり、跳ねた肩は脅えからだろうか。自分でも驚くほどに低い声が漏れていると思った、だが和らげる気持ちは毛頭ないからして。
「随分と暇そうだな、それならこれ、届けてくれるかい」
こくこく、と内容も見ずに首を縦に揺らす二人に口端が上がっていくのは満足しているからだろうか。カチコチと言わんばかりに固い動きでこちらに来た二人にぽんと手紙を五通ばかり投げ渡す。その行き先を見るや否や青くなる顔がふたつ。
「あの、これ、場所が正反対なんすけど…」
「頼めるよな?」
「ヨ、ヨロコンデー…」
ひくひくと、口端を震わせながらなんとか笑みを作った二人は、まるでブリキの兵隊のようなカチコチとした動きで執務室から足早に出ていった。滑稽だ、しかしやはり笑えない。
一人取り残された部屋で、漏れるのは溜め息ばかり。
「──処女、ね」
ぽつり呟いた言葉は、クラウスが聞いたら首を傾げ、ギルベルトが聞いたらほっほっほと笑い声をあげ、K・Kが聞いたらハァ?と銃口を向けられ──つい先日恋人になったばかりの彼女が聞いたら、きっと頬を赤くさせるのだろう。
彼女と所謂"そういう間柄"になってからはや一月、我々は一度も"そういう雰囲気"になったことがなかった。
いや、正確にいうとある。しかし、それも全てキス止まりだった。柔らかな唇を子供みたいに重ね合わせるだけの戯れのキス。時折唇を舐めたり、舌を絡ませ合う深い口付けはあれど、そこまでなのだ。
本音をいうと、もういっそ掻き抱いてしまいたい。最初は優しく、どこまでも甘く、まるではちみつみたいにとろとろにしてやりたい。それから頃合いを見計らってやらしく揺らめくだろうあの細い腰を抱いてめちゃくちゃに揺さぶってやりたい。もうだめ、そう言い出してから今まで味わったことのないような快楽に溺れさせてやりたい。
そんな本音とは他所に、また別の気持ちがある。優しく、何処までも優しく、ゆっくりと、側にいてやりたい。戯れみたいなキスをして、自分の浅はかな情欲に巻き込むのではなく、穏やかに愛を育みたい、そう思うのだ。壊したくない、というのが本音なのかもしれない。自分の浅はかな欲望のままに掻き抱いて脅えられたくないというのが、本音なのかもしれない。
しかし、まぁ、自分も男である訳で。
「…まだまだ、俺も若いね」
最近二人きりで側にいると、どうしようもなく、欲望の方が強くなってしまう。だから彼女を部屋に招いた時はリビング以外はキッチンとトイレにしか足を進めないし、彼女の部屋に招かれた時は食事もそこそこにそそくさと部屋を後にするのだ。キスだって前より短く済ませて、誤魔化すようにテレビや新聞、料理へと逃げるのだ。情けない話だろう、ああ情けない。いっそK・K辺りに撃たれたい気分だ、自ら氷付けになるのも悪くない。
溜息を漏らしていると、ガチャリと扉が開く音がして、自然とそちらへ視線を向けてしまう。ザップやレオナルドの忘れ物だろうか、それともギルベルトさんがコーヒーのおかわりをくれるのだろうか、そんなぼんやりと考えていた頭は次の瞬間、思考を止めることになる。
「戻りましたー…って、スティーブンさん、だけですか?」
まさに、今さっき、頭の中を一杯にしていた彼女がひょっこりと顔を出したからだ。きょろきょろと辺りを見渡してから、こてんと小首を傾げる姿にむらっと来るのは、欲求不満だからだろうか。おかしいな、彼女と付き合い出すまではそういう欲が薄れつつあった筈なのだが。
一瞬、ほんの一瞬虚をつかれてしまったが、そこはやはり年上の威厳、いや男としての威厳を守りたい。ふっと口許を緩めて、唇を開いた。
「おかえり、俺だけだと不満かい?」
自分でも驚くほど、甘ったるい声。
彼女はへらりと笑みを浮かべて、ぱたぱたとこちらへと足を伸ばす。ふわふわ揺れる髪、風にのって鼻腔を擽る柔らかな香り──むらっと来るのは、やはり欲求不満だからなのだろう。
「まさか、嬉しいです」
いじらしい答えだ、可愛くて仕方ない。ここがライブラの執務室でなければ、プライベートな空間であれば今すぐその柔らかな髪を指先に絡めながら撫でて、細い腰を抱いてそっと身を寄せるのに。
しかし、これでもやはり、番頭と呼ばれる立ち位置の男な訳で。公私混同は許されない、何より自分の矜持が許さない。加えて、彼女とのことを公に知っているのは、今のところ度しがたい人間のクズことザップだけなのだ。
K・Kとギルベルト、そしてレオナルド辺りは察しているのかもしれないが、今のところまだ交際宣言はしていない。このご時世、わざわざすることでもないし、何より生暖かい視線に晒されるのは居たたまれない。そういう理由で二人で当面は秘密にしようという方向に決めたのだ。だから未だに、スティーブン・A・スターフェイズに片思いしているの構図は崩れていない。まぁ、その内、何処かで公にすることになるのだろうが、今はまだその時ではない。
そういう訳で、例え他に誰もいない執務室だと言えども、特別手を伸ばすことは出来ないのだ。
「お疲れ、随分早かったね」
「先方に急用が出来まして…あ、でもちゃんとしっかり援助は念押ししておきましたよ!」
「流石、助かるよ」
えへへ、嬉しげに目を細める姿の可愛さたるや。思わずその柔らかな髪を撫でようと手を伸ばして、理性でその手を止める。こんなところでこの子の髪を撫でたりなんかしたら、そりゃあもう嬉しそうに笑う彼女の顔なんか見たりしたら、欲求不満な自分はまた劣情を走らせるに違いない。大事にしたいんだ、優しくしたいんだ、自分の浅はかな情欲に巻き込みたくないんだ。ここが執務室であることが、更に理性に拍車を掛けていた。
「スティーブンさん?」
こちらの行動が不思議なのだろう。丸い目を更に丸くして、こちらの顔を除き込むように上目遣いで首を傾げる姿は控えめに言っても可愛らしかった。こんな当たり前の行動にくらっと来るくらいには、我慢と理性の限界は近いのだろう。それでも、始まりがあんなだったから、やっぱりどうしてもきちんと順序立ててやりたかった。スマートに、逃げられないように怖がらせないように、自分と同じくらいにはくらくらな状態になって貰わないと男として立つ瀬などない。
「いや、なんでもないよ。それより疲れたろ、コーヒーか何か淹れようか?さっきギルベルトさんが持ってきてくれたお菓子もあるよ」
お菓子、という言葉にぱぁっと瞳を輝かせた彼女は子供らしくて実に可愛い、あどけない表情はいつだって自分の心を穏やかにさせる。
「じゃあ、スティーブンさんも休憩にしませんか?」
貰った相手を放って一人で食べるのはさぞ居たたまれないのだろう。その提案にいいよと頷くと、彼女は先程よりも明確に顔を輝かせる。嬉しげに目を細めながら、執務机に置いてある先程八つ当たりをしたマグカップを取り上げる姿は、鼻歌が出そうなくらいに浮かれているようだった。
「それなら、私コーヒー淹れてきますね」
「うん、頼んだよ」
「お任せください!」
ピシッと敬礼してみせた彼女は、その行動と相反してふにゃりと笑みを浮かべていた。軽い足取りで給湯室へと足を進めている後ろ姿は可愛くて仕方ない、本当にここが執務室でよかった。プライベートな空間であればあるほど、理性の崩壊は早くて困るのだ。
「あ」
不意に、彼女が足を止めた。なにかと思って思わず首を傾げると、くるり、その場で振り返る。色付いた頬を弛ませて、にっこりと微笑む姿はそれはそれは可愛くて、でも何処かに色っぽさを残してあって。
「スティーブンさん、あの──今日もだいすき、です」
恥じらいがちにぶつけられた言葉には、どれだけの威力があると思うだろうか。見開いた目はそのままに、気の利いた言葉も返せずに、きっと自分は今間抜けな顔をしているのだろう。それでも彼女は満足げに笑みを深めて、ほんの少ししてやったりと言わんばかりに唇を震わせて、くるりと背中を見せて去っていく。ふわり、また彼女の香りが鼻を擽った。
彼女が給湯室へと姿を消してから、ようやく出来たことはといえば、溜息を吐くくらいで。深く漏れたそれは、悪戯な彼女の不意打ちの攻撃に堪えられた自分への労いかもしれない。
「…やられた」
そういえば今日はまだ聞いていなかったっけ。いつもだったらカモフラージュ代わりに、皆の前で言うくせに。よりによって、今なのか。
彼女はわかっていないのだろう。いつだって、今だって、その柔らかな唇を満足するまで堪能したいと思っている男の浅はかさを。それだけじゃ飽きたらず、場所も時間も考えずにきっちりと止めてある釦を強引に開いてその滑らかな肌を晒してやりたいという男の乱暴さを。知らないのだろう、だからあんなことを出来るのだろう。
これから何も起きなければ、恐らく一時間はこの状態が続く。ザップとレオナルドは嫌がらせに遠方へと送り付けたし、クラウスやギルベルトは園芸サークルへと足を運んでいる。K・Kとチェインはそもそも今日は出勤日ではないし、ツェッドも今頃は広場でパフォーマンスしている頃だろう。額に手を当て、思わず天を仰いでしまうのは仕方ない。無防備な彼女に、年甲斐もない自分の二人きりで過ごす時間は、どれだけ甘美で、どれだけ手酷いものだろう。
「やれやれ、まいったね」
そう言いながらも口許が弛んでいるのは、この時間に対して自分も浮かれているからだ。しかしながら、やられっぱなしというのは性に合わない。君がそのつもりなら、こちらにだって考えがある。理性をギリギリまで総動員させて、大人として、いや男として、目一杯の手管を披露してやろうじゃないか。そうだな、手始めに、戻ってきた彼女には感謝と共にそっと──愛の言葉でも返すとしよう。



落ちた先にあるそれの名前を知ってるかい

15/11/18
リクエスト企画【「愛の言葉より雄弁に」の続編】
以下、リクエスト主様へ私信



まずはじめに、リクエスト誠にありがとうございました!!
続編、とのことで付き合ってその先に進む…つもりだったんですが、怯えれるのが怖いだけのスティーブンさんになってしまいました。
平気な顔をして、案外むらっと来ていたところをヒロインが知ったら、きっと可愛いなぁと思うことでしょう。 ご期待に添えられているでしょうか?苦情などなど受け付けております。ほんの少しでも楽しんで頂ければ幸いです。これからも、よかったら当サイトにいらして下さると嬉しいです。
それでは、繰り返しになりますが、リクエスト頂き、誠にありがとうございました!