酒は飲んでも飲まれるな、というのが信条だった。
夜遅く、もう眠ろうかと考えていた時分、不意に訪問を告げる呼鈴が鳴り出した。
こんな時間に誰だろうか。不審に思いながらインターフォンを操作しようとすると、対応が待てないのか、ピンポンピンポンと連打される。本当に誰だ。迷惑な来訪に思わず眉間に皺が寄る、このまま無視してやろうかとさえ考えたがそれはそれで騒音に悩まされそうだ。仕方なしにボタンを押して液晶を覗き込むと、そこには見慣れた人物が、頬を赤くさせながら呼鈴を何回も押す姿が写されていた。
慌てて玄関へと駆けて扉を開けると、ぼんやりと伏せられた蘇芳の瞳をまるで星のように輝かせながら満面の笑顔を浮かべた彼は、脇目もふらずに抱き着いてくる。不意の突撃に、思わず数歩後退りしてしまう、転がって尻餅つかなかったのが奇跡なくらいだ。
「ただいまぁ」
普段から甘い声は更に甘ったるく、そしてボリュームがいつもより大きくなっている。抱き着いてきたと思ったら、頬擦りまでされる始末だ。普段だったら絶対に有り得ない甘えたような態度、これはもしかしなくとも完全に、
「…酔ってますね、スティーブンさん」
「えぇ、そんなことないよ」
酔っ払いの常套句だ。はぁ、と溜息を吐きながら、よっこいしょと支えるようにして抱き締め返す。
「お帰りなさい、取り敢えず寒いんで中入ってください」
「んー…連れてって」
「いや無理ですって」
身長差がどれだけあると思ってるんだ。
「駄目なの?」
「いや駄目っていうか無理なんですって」
は俺のこと愛してないんだ…」
えぇ、なにそれ面倒臭い。
すんすん、と肩口でわざとらしく鼻を鳴らすスティーブン、可愛らしいけど面倒臭いことこの上ない。はぁ、と思わず溜息を吐くと、先程まで泣き真似をしていたスティーブンは素早く顔を上げる。その表情はいかにも不満ですと言いたげで、普段だったら見られないそれに物珍しさすら感じる。
じとり、玄関先で感じる視線は痛い。しかしながら、物理的に彼を一人で運ぶのは無理だ。困ったなぁと思わず眉を下げると、不意にぬくもりが消える。
「スティーブンさん?」
「いいよ、どうせ面倒臭いとか考えてたんだろ」
ぐう、バレたか。酔っ払っていても、世界のために日夜働く男だ。その詳細はよく知らないが、なるほど人の機微には鋭いらしい。
不貞腐れたように、拗ねたように、唇をちょんと尖らせたまま彼は自分を置いてスタスタと中へ入っていった。歩けるなら歩けるって先に言ってくれ。
スティーブンを追って、部屋に戻るとまた溜息が漏れた。いや、これは誰だって溜息の一つも吐きたくなるだろう。何せ彼は靴も脱がずに、小さなベッドに突っ伏して寝転がっているのだから。
「スティーブンさん、ほら、起きて」
「やだ」
「寝ても良いですから、取り敢えず靴とか脱ぎましょうよ。スーツも、皺になっちゃいますよ」
「別に良い」
子供か。思わず出そうになった言葉を飲み込む、これは間違いなく拗ねた子供だ。
先程の対応がよっぽど癪に触ったのだろう、シーツに顔を埋めてこちらを見ようとしない。それどころか、抵抗するように顔の横辺りのシーツを両手で掴んでいる。
面倒臭い、けれども恋とは異なもので。いつもは完璧な彼が、こんなだらしない姿を自分の前に晒してくれるという嬉しさもあって。やれやれと溜息を吐きながら、そっと傍に座り込む。
「じゃあ私が脱がせるんで、そのままでいいですよ」
「…えっち」
「はいはい、えっちです。ほら靴から行きますよー」
かぱっと、思っていたよりすぐに脱がせられたのは、彼が抵抗どころか協力してくれたからだ。流石に人の家のベッドを汚すのは忍びないとでも思ったのだろう、酔っていても気遣いの出来る優しい人なのだ。
靴下を丸めて靴の中に放り込むと、今度はスーツだ。彼の身体をぐるり、反転させると、思わず息が詰まった。
潤んだ蘇芳の瞳、半開きな唇、酒のせいで蒸気した頬に、少し緩められている襟元。男性で、三十路を過ぎている癖に、なんていう色気だ。これから自分がこの人を脱がせようとするなんて、なんという背徳感だろう。
なんだかもう恥ずかしいし、胸の鼓動はうるさいからこのまま寝かせてしまおうか。そんなことを考えていると、こてん、と緩く首を傾けた彼はこんなことを言うから堪らない。
「…脱がせてくれないの?」
いつもより数倍も、甘ったるい声。生唾を飲み込んだのは、どうしようもなくこの人に焦がれてしまっているからで。酔っ払いの癖に、なんていう色気なんだ。なんでこっちが、なんだかいけないことをしている気分にならなくちゃいけないんだ。
、」
甘えるように名を呼ばれてしまえば、あぁもう、為す術がない。
「っやりますよ、やりゃあいいんでしょ!」
「ん、宜しく頼んだよ」
目を細めて、ふにゃりと笑う彼は、それはそれは可愛くて色っぽくて。くらっと来ているのを自覚しつつも、なんとか無視してベッドに腰掛ける。一人用に買ったそれは、その重さに耐えきれないと言わんばかりにギシッと大きく鳴いた。泣きたいのはこっちの方だ、ばか野郎。
すぅ、と襟元に手を伸ばす。緩められたネクタイは、思っていたよりも簡単に外れた。次に彼を起こそうと手を伸ばすと、腰の辺りに不穏な動きを感じた。
「…なんですか?」
「んー?」
「いや、んーじゃなくって」
「だって、ムラムラするじゃないか」
「…スティーブンさん」
「だめ?」
また、甘えるように首を傾げてくる。あぁもう、仕方ない人だ。腰を撫でる手は無視をしつつ、スティーブンの脇に手を忍ばせて、抱き着くような形でなんとか起こそうとする。が、しかし。
「お、重い…」
「ははっ、そうだろうねぇ」
そう、自分の身長を遥かに越えた成人男性はかなり付加が大きかった。なんとか踏ん張って起こそうとしても起きたがらない、なんてことだ。スティーブンは、手助けする気などないのだろう、けらけらと笑いながら弛緩した彼は楽しげにこちらを見つめていた。しかし、いつまでもこうしている場合ではなくて。
「…スティーブンさん」
「ん?なぁに」
「起きてくれませんかね」
「どうしよっかなぁ」
「お願いですから」
んー、と口許に人差し指を立てて悩んでる姿は実に絵になる。取り敢えず起きてさえくれれば、ぱぱっと脱がせて、後は適当に寝かしつけてしまえるのだ。ね?と再度促すように視線を送ると、彼はにっこりとそれはそれは美しく笑った。
がキスしてくれたら、いいよ」
「なんだ、そんなこと。良いですよ」
こんな簡単なお願いで起き上がってくれるなら安いものだ、そう思って彼の脇から顔の横へと手を移動させる。はらり、落ちてくる髪を押さえながらそっと唇を落とした──のが悪かった。
「んんっ!?」
触れるだけのキスをするつもりだった、筈なのに。唇を触れ合わせた瞬間、彼は素早く舌を滑り込ませて来て、奥の方へとやっていたこちらの舌を手早く見つけ出して絡み付いてきた。逃れようにも、いつの間にか後頭部に大きな掌が押さえ付けてくるから堪らない。そうこうしている内に、ちゅうちゅうと舌先に吸い付いてくる彼は更に口付けを深くしてくる。歯列をなぞり、上顎を擽り、舌の裏筋をなぞりあげられ、そのまま舌先を甘噛みされる。
犯し尽くす、とはこのことだろう。こちらの消極的な態度なんて異にも介さずただ、蹂躙する。これが酔っ払いのやることか、そう文句を言いたくとも口が塞がれていては意味なんてない。その上、項を擽るように指先は撫でてくるし、もう一方は服の裾から侵入して腰の辺りを直に撫でてくる。スキンシップ、なんて生易しいものではない。いやらしさを孕んだ手付き、これは間違いなく愛撫だ。
「…っは、ぁ」
ようやく解放された時には、もう文句なんて言える体力は残っていなかった。そのまま彼の胸元に倒れ込まなかったことを、誰か褒めて欲しい。どちらのものかさえわからない唾液が、糸を引いて彼の唇へと繋がっている。それを舌先で千切って、唇を舐める彼は、それはそれは蠱惑的で。ぐらり、と目の前が揺れるのを感じる。
「……やらしい顔、やっぱりはえっちだね」
「どっち、が」
そっちの方がよっぽどやらしいし、よっぽどえっちだ。
彼は宣言通り、ゆっくりと起き上がる。それに合わせてこちらもベッドに腰掛けようとしたが、彼がそれを許さない。
ちょんちょん、と膝の上を指先で指定される。一瞬躊躇ったが、熱を孕んでしまったこの身体をそのままになんて土台無理な話で。靴を行儀悪く脱ぎ捨てて、示されるままにスティーブンの上に跨がるとそれはそれは嬉しそうに彼は笑った。
「じゃあ、続き──脱がせて?」
どくん、と心臓が一層力強く鳴いた。腰よりもっと下の辺りがずんと主張し始めるのを無視して、背広に手を掛ける。するり、と呆気なく脱げたそれを、皺なんて気にせずにベッドの脇に投げた。
次はシャツだ。本当は眠るだけならこんなことをしなくとも良い。でも、もうこのまま眠るなんて許されなかった。ぷつり、ぷつり、一つずつ丁寧に釦を外していく。その都度ちらちらと、鍛えられた彼の胸板が目に入ってくるから困りものだ。挙げ句、半分ほど外し終えた辺りで、今まで大人しくしていたスティーブンから唐突にまた熱烈なキスが降ってくるから堪らない。服の下でもぞもぞと動いている指先は、一体どこでそんな技を教わってきたのか聞きたいくらいの手早さで下着のホックを外してきた。
「ん…ほら、手が止まってるよ。はやく脱がせて、
「わかって、ます、っん」
抗議してくる割に遠慮する気は一切ないらしい彼は、楽しげに、実に楽しげに笑った。その表情に、ドキドキと早鐘のような鼓動を感じながら、そっと目を瞑り、懸命に手を動かした。



:::



「あー、頭痛い」
翌朝、乱れに乱れた衣類をアイロンがけしていると、ベッドで丸くなっていた彼が起き上がってくる。その表情は実に痛々しいが、同情の余地などない。
「あんなに酔っ払ってたんだから当たり前です!」
「うーん返す言葉もない…」
困ったように下げられた眉尻に、全てを許してしまいそうになった自分はきっと甘いのだろう。でも仕方ない、恋愛は先に惚れた方が負けなのだ。
「しかし、スティーブンさんもあんなに酔っ払うんですねぇ」
「昨日は…まぁ、うん、少し調子に乗ったね」
ポリポリと、頬を掻きながら視線をさまよわせている姿は可愛らしい。それなりに反省はしているようだ、確かに酔っ払いとは思えないくらいの体力だったから後半辺りは酔いも醒めて覚えているのだろう。
「なんでまたあんなに飲んだんです?いつもはセーブしてるのに」
そう、スティーブンはいつだってスマートだ。ベッドの上でも、食事の時も、酒を飲む時も。それに引き換え昨日はといえば…明言するまでもないだろう。
「君のね、話をしてたんだよ」
「は?」
「こないだ…会っただろ、俺の"仲間"に。それで、なんかの拍子でその話になって、いつの間にかあんな風になってた」
それは、また。ひどくずるい答えだった。そんなことを言われてしまうと、もう二度と怒れないではないか。ぼっと赤くなった頬を誤魔化すようにして、ベッドに腰掛けるスティーブンに抱き着いた。二日酔いがひどいらしい彼は、珍しくこの身体を受け止めきれず、そのままベッドに沈み込む。
酒は飲んでも飲まれるな。それが信条で、いつだって余裕を持って酒とは付き合ってきた。でも、あんな風に可愛くて、情熱的で、蠱惑的な彼に会えるなら──たまには飲まれるのも悪くないかもしれない。


Alcohol magic

15/11/30