白という色は、純潔という意味合いを持つことが多い。その他にも、清純、乙女、天使など、とかく清らかなイメージの強い色だ。
そんな白を、全面に着る機会はあまり多くない。カジュアルラインならばオールホワイトのコーディネートもするだろうが、フォーマルな、例えばドレスなどで着ることはまずない。たった一人、その日の主役にしか許されない色だからだ。
幼稚かもしれないが、それを着ることに憧れのようなものを抱いていた。いつか、幸せな気持ちで、隣に立つ愛しい人と微笑み合いながらそれに身を包むのだろうと、ずっと信じていた。
「──
「スティーブン、さん」
名を呼ばれて、顔を上げると、米神の辺りでヘアピンで固定されているレースがふわりと揺れた。ドレスに合わせたマリアベールが、顔の横の辺りで風を切る。
フォーマルな、これまた白を貴重としたタキシードに身を包んだスティーブンは息を飲む。それから、一歩、二歩と燕尾を揺らしながら近付いてくる。髪を後ろに緩く撫で付けているせいか、いつも以上にその端正な顔と頬の傷跡がよく見えて、ドキリと心臓が跳ねる。静かな控え室には、彼の靴音だけが響いていた。
彼は、ふわりと口許を綻ばせて、そっと頬を撫でてくる。少しだけひんやりとした指先に、これでもかと言わんばかりにマスカラを乗せた睫毛が震えた。厳かな雰囲気の控え室に、少し場違いなくらい明るい声が落ちてくる。
「化けたな、見違えたよ」
「…そりゃあどうも」
「これなら何処からどう見ても立派な花嫁だ、いやぁサイズが合ってよかったよかった!」
けらけらと笑い声をまじえたあんまりな発言に、ぐっと眉間に皺が寄るのは当然だろう。もう少し言いようがあるのではないか。だがしかし、腿の辺りまで身体にぴったりとしたマーメイドラインのドレスは大人っぽくて、化粧をするまではなんだか着られているような感覚に陥っていたのだからそれも仕方ないかもしれない。そもそもこれは自分が着る為に誂えられたものではない。そう、これは自分の結婚式でもなんでもなく──単なる任務だった。
ここ異界と現世が交わる街ヘルサレムズ・ロットでは只今絶賛、結婚式をターゲットにした事件が頻発している。犯人の目的はまるでわからない、ただ挙式を台無しにしたいということだけは明確で。その手口は、結婚式のクライマックス、誓いのキスに差し掛かるところで真っ白なドレスを真っ黒に染め上げるという、まるで子供の悪戯のような実に単純なものだった。その他に被害は特別ない、しかし真っ黒にされた花嫁の悲痛な叫びは大きい。人生の中で、そうあるとは言えない特別な日だ、それも乙女の憧れウエディングドレスを着ている時にこんなことをされたら堪ったものではないだろう。愉快犯としか思えないその犯行に、勿論警察も動いているが、その働きは中々実を結ばない。
それでも、ライブラが動く予定はまるでなかった。可哀想な話だとは言え、被害はペイントされるだけだ。人的な被害は多くない、式場サイドは堪ったものではないだろうが、我々が動くほどのものではないと静観していた。しかし、つい先日どうやら異界側の仕業らしいという情報が降りてきた。その上、タイミングよくスポンサーの娘の結婚式予定まで立ってしまったので流石に見過ごす訳にはいかず、今回こんな格好をする羽目になったのだ。
「いやぁ、スポンサーの娘さんが君とほぼ同じ体型で助かったよ。汚すかもしれないウエディングドレスをレンタルする店は早々ないからね」
「これ、ほんとに任務なんかで使っていいんですかね…」
「大丈夫だろ、決めかねて2つ作ってたって話だ」
結局もう一方に決定したから、晴れてお役ごめんになったこのドレスは捨てる前にと囮用に降りてきたらしい。全く金持ちの考えることはさっぱりわからない。
この囮任務は、本来ならば希釈出来るチェインが担う予定だったが、彼女の豊満な体つきがそれを邪魔した。涙ながらに入りませんと語った彼女の顔は忘れられない、勿論K・Kも同じく体型が合わず、こうして自分にお鉢が回ってきたのである。
「さて、そろそろ時間だ。手筈通りに頼むよ、新婦殿?」
「はいはい、立派な囮を頑張りますよ」
差し出された手を取って立ち上がると、彼は満面の笑みを浮かべた。



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式は滞りなく進んでいる。
バージンロードはギルベルトに連れ添って歩いた。参列者はライブラの構成員しかおらず、朗らかな雰囲気で出迎えられた。芝居を打つためとは言え、なんだか妙に気恥ずかしくて。いつか、こんな日が来たらいいな、とうっかり思ってしまったくらいだ。少しばかりか、大分浮かれているらしい。
誓いの言葉、指輪交換、と粛々と行われる結婚式のプログラム。いつ来るともしれないタチの悪い悪戯に内心怯えながらも、隣に立つ愛しい恋人の落ち着きように舌を巻いていた。
「それでは、誓いの口付けを」
いよいよ、だ。どうするべきか、横目で彼に指示を仰ごうとするも、彼は素知らぬ振りをして肩をそっと掴んできた。あれ、なんかこの人本気でキスしようとしてませんか?事前の全体ミーティングでは、振りをするだけの筈だったのに。
いや、待て。待って欲しい。別にキスをするのは良い、仮にも恋人同士である二人だし、キスもそれ以上のことも飽きるほどに行ってきたのだ。だが、しかし、これは囮だ。ライブラの構成員としての、仕事なのだ。
報告するほどのものではない、なんて恥をごまかすような正当な理由を主張して、気の知れた仲間達にそういった間柄であると言ったことはなかった。知っているのは、拙い始まりを目撃してしまったザップだけで、クラウスを始めとした面々は全く知らないのだ。それなのに、こんなところで、皆の前で、キスだなんて。どうせこの人のことだから上手いことやるのはわかっていたが、それでもここまでするとは思っていなかった。
ゆっくりと、スティーブンが腰を曲げて顔を寄せてくる。囮の名目上、避けることも逃げることも叶わず、ただ呆然とそれを見ていることしか出来なくて。それでも、彼の瞳を見ているとなんだかもうバレてもいいか、なんて思えてきて。瞼を、そっと閉じる。息を飲む声が小さく聞こえてきた気がした、次の瞬間。
「エスメラルダ式血凍道、」
唇のすぐ側で、そんな呟きが聞こえてきたと思ったら、パキンとした鋭い音が耳に入り、式場の空調にしては行きすぎなくらいの冷気が身体を包み、ぶわっと風が起きた。慌てて伏せた瞼をあげると、自分とスティーブンの身体を覆うようにして床から頭上まで氷の壁が出来上がっていた。勿論それを作ったのは隣に立つ男で、よっと、なんて言いながら振り上げた足を下ろす。どうでもいいが、よくあそこまで足があがるものだ。そして、氷の上を滑るようにして、バシャッと黒のペンキが落ちてきた。
「ようやくお目見え、か」
その言葉に、これまで散々花嫁を汚した犯人が現れたことを知る。バッと上を見ると、バケツを持った犯人が慌てたようにジタバタと暴れる姿が目に入った。赤い紐のようなものが巻き付いており、どうやら拘束されているらしい。恐らくあれはザップかツェッドの血法だろう、手の早さに舌を巻いてしまう。
どうやら、一件落着、のようだ。あまりに早すぎる解決に目を白黒させているのは自分だけのようで、他の面々はあー終わった終わったと、首や肩を回していた。なるほど、堅苦しい式に退屈していたということか、この野郎。
「囮、ご苦労さん」
「…お役に立てて何よりデス」
一人だけそわそわしていたのがなんだか唐突に馬鹿らしくなってきて、引き摺るように落としていたベールを持ち上げて控え室に戻ろうとして、その場に立ち止まる。氷の壁が守ってくれたのは、頭上だけ。周りはすっかりペンキだらけだったからだ。
これは、どうしたものか。長いのはベールだけではない、ドレスの裾は今にも床に付きそうなくらいなのだ。たくしあげようにも、マーメイドラインが邪魔をする。いくら囮用にと差し出されたものとはいえ、折角のドレスを汚す勇気は自分にはない。ちくしょう、なんでこんなデザインにしたんだ。というか、スティーブンもスティーブンだ、もう少し大きな壁を作ってくれればよかったのに。
「ザップ。それ、HLPDに貸しとして引き渡して来い」
「え!なんで俺なんすか!!」
「捕まえたのお前だろ、良いから行ってこい!後は解散、各自別の仕事に戻ってくれ」
隣の彼は、こちらの戸惑いを他所にさっさと指示出しをしている。参列者として来ていた面々は、その指示に文句も言わずに従って式場を後にした。最後までザップは渋り続け、レオナルドとツェッドを道連れにしていたが。
残されたのは、自分とスティーブンのみ。誰も自分に労いの声も掛けてくれなかった、あんまりだ。ちらり、横目で彼の様子を伺おうとした次の瞬間、ぐるんと視界が反転する。
「は!?」
思わず声が出たのは仕方ない、持ったベールの裾を落とさなかっただけ褒めて欲しい。肩と膝裏に、先程よりも強い感触、スティーブンに横抱きされていた。
「す、スティーブンさん!?」
「なに?」
「な、なにってそれはこっちの台詞です!!」
「だって君、渡れないだろう?」
ぐう。思わず押し黙ると、成人女性を一人横抱きしているというのに涼しい顔をしている彼がけらけらと笑った。そしてそのまま、ぴょんとペンキを飛び越えた。足技を主体に扱う男は、柔軟性だけではなく跳躍力も鍛えられているらしい。こんなことで知るとは思わなかったが。
なるほど、だから隣にいたこちらを無視していたのか。こんなこと、皆の前では出来ないだろうし。
「…ありがとうございます」
「はい、どういたしまして。そうそう、この後、と俺はオフ。慣れないことして疲れただろ?」
「何から何まで、どうも…」
完璧すぎるスケジュールだった。なるほど、だから皆さっさと帰ったのか。
渡りきったことだしもう降ろしてくれるだろう、そう思って身を捩ると、彼はあろうことかそのまま歩き出す。慌てて彼の胸元をぐいと引っ張って制するも、彼はそんなもの知ったことないと言わんばかりに無視をしてくるから、堪らず声をあげる。
「あの!降ろしてください!!」
「どうして?」
「いや、どうしてもなにも…」
「別に誰もいないし、良いだろ。ごっこ遊びを続けよう」
「は…?」
「結婚式ごっこ」
ばちん、と片目を瞑ってみせる彼は、それはそれは楽しそうで。押し黙ると、それを了承の意味と取った彼は、楽しげにとある曲を口ずさむ。バージンロードで、入場の時に聞いた有名な曲──結婚行進曲だ。
もしかして、この人もこの人で、このシチュエーションや何やらに浮かれていたのだろうか。そんな馬鹿みたいなことが頭に浮かぶのは、仕方ない。
彼の甘い声が、静まり返った式場に響く。参列者は一人も居ない、それどころか神父だって居ない。パイプオルガンも伴奏もない、たった一人の結婚行進曲。でもそれが、馬鹿みたいに嬉しいから困ったもので。
トン、と扉の前まで歩いたところでスティーブンは立ち止まる。どうしたのだろうと見上げると、少しだけ照れ臭そうにしている彼がそこに居て、
「誓いのキスは、今度しよう」
こんなことを言うものだから、ぶわっと頬に熱が集中するのは仕方ない。馬鹿みたいに目を見開いて、はにかむ彼をただただ見つめた。
今度、そう、今度。なんて、嬉しい言葉だろう。いつ死ぬかもわからないヘルサレムズ・ロットで、いつ死んでも良いと思っているであろう彼に、未来の約束をして貰えた。こんなに嬉しいことは、他にない。
「…、返事は?」
目に見えて喜んでいるというのに、この伊達男は肝心なところがわからないようで、そう催促してくる。あぁ、なんて可愛い人だろう。あぁ、なんて愛しい人だろう。ベールの裾を離して、ガバッと抱き着く。その行動に驚いたらしい彼は、おっと、なんて声を漏らしながら一層強く抱く。
「──そんなの、イエスに決まってる!」
いつか着てみたい。憧れが約束に変わり、そしていつか現実のものとなる。その日がいつになるかはわからない、でもそんなものは関係ない。だって、未来はいつだってすぐそこまでやってきているから。


純白の未来

15/12/06