据え膳食わねばなんとやら、そんな言葉があるのを彼女は知っているだろうか。
穏やかな朝、隣で眠る彼女に胸が暖まるのを感じながら朝食を作った。メニューは簡単だ。生真面目な家政婦が買っておいてくれたバタールを適当に切り分けて、レタスとトマト、そしてきゅうりのサラダをささっと混ぜ合わせ、スクランブルエッグを作った。手軽で簡単、だけれど栄養満点のメニューに、起きてきたばかりの彼女は瞳を輝かせる。朝の挨拶もそこそこにテーブルに付かれた時は、少しばかり寂しく感じたがそれは秘密としておこう。
綺麗に食べきった彼女はいつも通り食器を片してくれる。同棲、と言うのだろうか、共に暮らすようになってから、先に起きた方が料理を作るという暗黙のルールが出来上がった。そして後から起きた方は片付けを担う。最初はそんなことしなくていいと揉めたりもしたのだが、ヴェデッドとの話し合いを経て、その時々で手の空いてるものがすることになったのだ。
既に食事を終えていた自分は、行儀悪くもダイニングで新聞に目を通していた。世界情勢は抑えておいて然るべきだし、案外面白いニュースも載っていたりする、日課になってしまったそれをしないとどうも落ち着かないというのが一番の理由かもしれない。片手間にコーヒーを啜りながら新聞を読むなんて、我ながら映画やドラマに出てきそうなことをしているなぁ、とぼんやり思っていると、背後に気配を感じた。現時点でこの家にいるのは自分と、恋人である彼女だけ。つまり背後の気配は彼女以外有り得ないのだが、どうしたのだろうか。いつもはシンクで、鼻歌混じりに食器を洗っているというのに。振り返って聞いてみるか、そう思った次の瞬間、ふにっと柔らかな感触を首の後ろ──項の辺りに感じる。
ぞわり、と腰が疼くような感覚が走ってきて、跳ねそうな肩を意地で堪えた。押し当てられたのが唇だ、と思うまでに長い時間が掛かったのは、致し方ないだろう。彼女自身はそう思っていないようだが、東洋の血を引く彼女はいつだって慎ましやかだ。それは平時でもベッドの上でも同じで。そんな彼女が、こんな穏やかな朝にそんなことをするなんて思いもしなかった。
最初は触れるだけ。次に音を立てて。そのまた次は一舐めされた。そろそろ噛みつかれる頃だろうか、流石に噛み跡をつけたまま執務室へ行くと、色々突っ込まれて面倒なことになりそうだ。そう考えながら肩越しに振り返ると、彼女はの表情は見るからに艶っぽくなっていた。熱の籠った瞳とかち合う、あぁまずいなぁ、こちらも火が点いてしまいそうだ。
「──朝っぱらから、どうしたのかな?」
誤魔化すように、振り払うように問い掛けたのは、スキンシップでは済まなくなるからだ。責めるような言い種に彼女はぼんやりと、熱に浮かされたような顔のまましばらく考え込む。ちらり、と視線が向いてきて、射ぬかれたような気持ちになるのは、先程の柔らかな唇の感触を反芻していたせいだろうか。
「魔が差しました」
彼女の口から、あっけらからんと出た言葉に思わず笑った。うん、そう言うだろうと思っていた。
だが、はいそうですか、とあっさり話を終えるつもりはさらさらなかった。火を点けたのはそちらなのだから、最後まで、満足するまで付き合って貰わなくては割に合わないだろう。あぁ、結局乗せられてるなぁ、でもそれも悪くない。
「感心しないなぁ、男の背後を取るなんて」
ついて出た言葉は、極めて薄っぺらい。
「気付いてたくせに、よくいいますね」
流石、わかってるね。その小気味良いテンポの返しに、益々笑みを深める。こういった探りあいのような、言葉で遊ぶようなやり取りを彼女とするのは楽しくて仕方がない。
「朝食は足りなかった?」
「いやもう、満腹です」
「そう?てっきり食べられるのかと」
そう問い掛けると彼女は押し黙った。うん、図星らしい。その顔にすぐ出るところも愛しくて仕方ない。
「じゃあ、そういうお誘いかな」
意趣返し、というにはあまりにも直接的だ。加えて、それなりに年齢を重ねている彼女はこの程度じゃあ慌てふためく姿を見せてくれない、その頑なさも熱が深まる原因だ。
「だったら、どうします?」
「乗らない手はないね、と言いたいところだけど──残念ながらタイムリミットだ」
そう、時間はあまりなかった。備え付けの時計はもうすぐ7時半に針を進めるところだろう。いつも時間に余裕を持って行動している我々といえど、そろそろ支度を始めないといけない時間だ。
だが、しかし。このまま彼女の良いようにされて終わりなんて──そうは問屋が下ろさない。
肩を竦めて離れようとする彼女の腕を、ぐい、と掴んで引き寄せる。そのまま身体を反転させると同時にバサッと音を立てて新聞がテーブルで踊る。
はて、この状況はなんだ。そう言いたげな彼女は実に愛くるしい。片手を彼女の腰に、もう一方を彼女の髪へと滑らせて、華奢な体つきと柔らかな感触を堪能する。
「…どうかしました?」
「いや、ちょっと」
「タイムリミット、ですよ」
「誘っておいてひどいな」
くすくすと笑いながら嗜めてくる彼女は可愛らしいが、軽く見られているようで少し気に入らない。彼女はこちらとは逆に上機嫌に笑みながら、こちらの機嫌を取ろうとしているのだろう、額をこつんと遇わせてくる。そして、止めの一言。
「続きは、今夜でよければお付き合いしますよ」
「…言ったね?」
そう、彼女は言った。今夜、付き合うと。ならばもうこちらがすることはひとつだ。その約束を、確実のものにする。
こちらの様子に慌てる彼女を逃がさないよう、髪の感触を楽しんでいた掌に力を込めた。そのまま首を傾けて鼻先を触れ合わせながら、ちゅっ、と子供騙しのような口付けをひとつ。
「──覚悟しておくように」
「ハイ」
苦笑をしながらも、彼女は自分をしっかり受け入れていた。抱き締めているのは自分だというのに、これじゃあまるで逆だ。へらり、笑う彼女が少し憎らしくて、でも愛しくて、もう一度口付ける。それで離そうと思っていたのに、やっぱり足りなくて、もう一度、もう一度と何度も口付けた。それでも余裕に笑う彼女を乱したくなったのは、とっくの前に火が灯ったせいだ。
つぅ、と指先で襟足を擽るようになぞると彼女は面白いくらいに肩を跳ねさせる。慎ましやかで華奢な腰をぐいと引き寄せると困惑したような面持ちでこちらを見つめてくるから堪らない。もう遅いよ、そう言外に告げて、唇を味わうようにもう一度口付ける。
いつもならこれくらいすれば観念する彼女は、それでも尚、身を捩り、こちらを制するように手を添えてきた。しかし、そんなのは些細な抵抗で。逆に言えば、寧ろ興奮材料で。腰に回した掌で、背骨の辺りを擽るようになぞり上げた。
「スティーブン、さん」
「ん?なに」
彼女も、乗り気になっているのだろう。落ちてきた声は、少し上擦っていて色っぽい。それでもまだ諦めていないのか、添えられた手が抵抗するように握ってくる。
「そろそろ、準備しないと、ん…間に合わなくなるんですけど」
なんだ、そんなこと。
「俺が車で会社まで送るよ」
「だから、それだけは嫌だって」
「…もう少しだけ」
だめ押し、とばかりに鼻を寄せる。甘えられるのに弱い彼女は、すぐに押し黙るから可愛くて仕方ない。ごめんね、欲望には忠実な性質なんだ。
それでもまだ躊躇いがちに視線をさまよわせている彼女に、触れ合ってた唇を舐めて最後のおねだりを。肩を跳ねさせた彼女はうぅ、と小さく唸って、それから悔しげに、
「……会社の近くまで、送ってください」
そう呟くから、もう嬉しくて楽しくて仕方なくて、そっと舌先を捩じ込んだ。



:::



その日、仕事はやけにスムーズだった。
ザップも問題を起こさないし、堕落王や血界の眷属も現れない。事務処理もこの上なく捗って、向こう二日くらいはのんびりと過ごせそうなくらいだった。
「…なにアンタ、随分機嫌良いわね」
思いきり顔をしかめたK・Kにそんなことを言われるくらいには、自分は浮かれていた。
理由は簡単だ。今朝の彼女である。慎ましやかな彼女が朝からあんなスキンシップを取ってきてくれた、それで浮かれない男がいるだろうか。いるならば今すぐ連れてきて欲しい、そして男としてそれはいけないと問うてやりたい。据え膳食わねばなんとやら、そうどこかで聞いた言葉が頭に浮かぶ。そう、据え膳は食べなければならない。用意された料理を粗末にするなんて人としてどうかしてる。
そんな訳で、さりげなく明日の出勤を午後から予定変更して帰路へ着く。自分も若くない、煽られた手前余すことなくその身体を堪能してやろうと思っていた。彼女への負担は大きいだろうが、そこは自業自得と思ってもらおう。遠慮なんてするつもりは、全くない。
腕時計に視線を送ると、丁度彼女の仕事も終わった頃だった。ポケットから携帯を取り出して、すぐさま彼女の番号を呼び出す。プルル、プルル。呼び出し音に心がこんなに踊るのは久し振りだった。
『…もしもし』
「やぁ、仕事はどう?」
浮かれた声だ。そんなわかりやすい自分に思わず笑い出しそうになりながら、愛しい声に耳を寄せる。
『順調に終わり過ぎて、今家で準備が終わりましたよ』
「そうなの?仕事終わりの少しくたびれた君も色っぽくて良いのにな」
本音だ。仕事終わりの彼女はなんとも言えない気だるさを身にまとっていて、それがまたそそるのだ。着飾った彼女も勿論好きだ、プレゼントの包装を解く時のようなわくわく感は中々に充実した気持ちになる。
『電話切りますよ』
「冗談だよ、俺のために着飾ってくれた君を邪険にするなんてとんでもない」
『ハイハイ』
「ひどいなぁ」
そう嘯きながらも、頭のなかはもう彼女一色だった。今日は何を着てくるのだろう、ワンピース、それともこないだ買ったブラウスかな。準備が済んだ、ということは、彼女のことだからシャワーも浴びてるのだろう。風呂上がりの柔らかな香りをはやく堪能したい、その首筋に食らいついて、今朝の仕返しをしてやりたい。欲望は考えれば尽きなくて、身体への影響は大きい。要するに今、自分には余裕なんてさらさらない。
「じゃあ、7時までには帰るから家にいて」
今から帰れば、7時過ぎには帰り着く。そうしたらもう一番にキスをしてやろうと思った。
「──朝からお預け食らっている身分としては、ディナーなんてしてる余裕はないんだよ」
君のことを考えていると、すぐに抱きたくなってしまうよ。そんな浅ましい言葉をオブラートに包んで伝えたのは、彼女を抱く、その行為を確実に共有するためだ。食事だシャワーだなんて誤魔化されるなんて冗談じゃない、こちらは先程からずっと受話器から漏れでる声に欲情しているのだ。
しかし、それは彼女も同じらしい。
『はやく、帰ってきてくださいね』
自分を求める声に、心が踊った。可愛い、好きだ、愛してる。そう言いたくて仕方ないけれど、理性で留めたのはこっちばかり我慢しているのを悟られたら悔しいからだ。それでもふっ、と笑いが漏れ出たのはこの上なく愛しい気持ちが溢れてしまったからで。
「寝室で待ってて」
ムードなんてまるでない、直接的な言葉に彼女が息を飲んだのを感じる。あぁ、なんで今自分はこんなところを歩いているのだろう。今すぐ彼女の部屋に行って、その唇を堪能したい気持ちを抑えながら足を早めて自宅へ急ぐ。
『そういえば、』
「うん?」
不意の言葉に、虚を付かれたのは仕方ない。
『スティーブンさんって、項弱いんですね』
声をあげなかったことを、誰か褒めてくれても良いんじゃないか。
『朝のは、気持ちよかったですか?』
なるほど、彼女も悔しかったのだろう。いつだって自分達は言葉遊びで主導権を奪い合っているようだった。
しかしながら、今回は不覚だった。気付かれているなんて到底思いもしなかった。いや、人間誰しも背後には弱いだろう。何せ見えないのだ、首が180度回る人間がいるならば羨ましくて仕方がない。だから自分の想像以上に、背後は敏感で。それを彼女に呆気なく知られたというのはあんまりにも悔しくて。
「──気持ちよかったよ」
そう、気持ち良かった。感じた、といっても過言ではない。敏感であり弱点でもある背後を容易に取らせるのは彼女だけだということを、彼女にはわかって欲しい。そして、不覚を取った自分がそのままではいないことを。
「まさか、あの君が朝からあんな風にモーションを掛けてくるなんて思わなかった。本当は、すぐさま君の中にぶちこみたいくらい興奮したね」
先程よりも直接的な表現を強くした理由はふたつある。
「だから、帰ったら手加減しないよ」
まず、本気だと伝えること。
「お付き合い、してくれるんだろ──?」
そして、逃げ道を塞ぐこと。
『………はい』
非常に簡潔且つ明確な理由に、彼女はとうとう観念した。
ここまでマウントを取らせて好きにさせるのは彼女だけ、とベッドでこれ以上ないくらいに教え込まねばなるまい。翌日が仕事だろうが関係ない、どうせ有給が余っているだろうからこの機会に取ったら良いのだ。男を煽りに煽ったらこうなる、ということを思い知るべきだ。
挨拶もそこそこに電話を切って、駆け出した。年甲斐がない、浮かれている、そんなものは知ったことではない。今すぐ彼女が欲しい、その欲望に身体が動いただけだ。車に乗り込んでエンジンを掛ける。さて、堕落王や血界の眷属、そしてこのヘルサレムズ・ロットを盛り上げる魑魅魍魎の諸君。今夜ばかりはそのお祭り騒ぎは中止にして、ベッドでゆっくり安眠を貪ってくれ。こちらはこれから、彼女を貪るのに忙しい。踏み込んだアクセルが嘶く、さぁ今すぐにでも帰ろう。愛しい愛しい彼女が待つ、我が家へと。


上品さに欠ける朝
side:S

15/12/10
リクエスト企画【「上品さに欠ける朝」スティーブン視点】
以下、リクエスト主様へ私信



まずはじめに、リクエスト誠にありがとうございました!!
既存作品を視点変えで書いたのは初めてだったのですが、楽しく書き進められました!
ヒロインが思っていたこと、スティーブンさんの思っていたこと、違いが多いので、上品さに欠ける朝、と合わせて楽しんで頂ければ幸いです! 苦情なども受け付けております。
これからも、よかったら当サイトにいらして下さると嬉しいです。
それでは、繰り返しになりますが、リクエスト頂き、誠にありがとうございました!