「スティーブンさん、」
「嫌だ」
このやり取りをするのは、もう何度目だろう。繰り返し繰り返し、お互い飽きもせずに自分の意見を主張し合う。どう足掻いても平行線、混じり合うことのない一方通行だ。
はぁ、と溜息を吐く。奇しくも隣の彼も、同じように深々と溜息を吐いている。疲れている、もういい加減にしてくれとお互いに言いたいが、主張を曲げる気はまるでないという矛盾を抱えていた。喧嘩ではない、たが一歩間違えれば喧嘩に発展しそうな気配だけが漂っている。彼と言い争うことになるなんて、出会った頃は想像もしていなかった。
ちらり、横目で見ると、憮然とした表情のままこちらを見ている。そういう顔もかっこいい、なんてついつい浮かれたことを思ってしまうのは惚れた弱味だろう。
「…案外頑固だね、君」
「そっくりそのまま返しますよ」
「もういい加減諦めない?」
「それも、そっくりそのまま返します」
やれやれ、また同時に溜息を吐く。これは長引きそうな戦いだ、しかし長期戦になれば不利なのはこちらの方である。何せ、この家から出ることが自分の目的なのだから。
始まりは、こんな一言だった。
「今日は何食べたい?」
ソファに腰掛けて、借りてきた映画のDVDを観ていた時、不意にスティーブンがそう問い掛けてきた。当たり前のように、それがいつものことであるような自然さの問い掛けに、そうですねぇなんて答えそうになったのは仕方がない。彼は、上機嫌に笑いながら続けた。
「昨日はヴェデッドの作り置きがあったけど食べちゃったからね、今日は俺が作るよ」
「え?今日私、泊まりませんよ」
「は?」
「へ?」
一瞬の沈黙。お互いに、この人は何を言い出したんだろう、そんな風に思いながら緩く首を傾ける。テレビからは、イッツショータイム!だなんて声が飛んできていた。
「…なんで?」
まず最初に動いたのは、彼の方だった。訝しげに眉間の皺を作って、頬杖を付きながらこちらを見つめていた。美人は何をしていても美人だというが、男性でも同じことだ。そして迫力があるから困りもので。まるでこちらが悪いと言わんばかりの表情に、罪悪感がじわじわ這い上がってくる。しかし、たからといって、こちらも譲れない。
「いや、だって、もう一週間ですよ?」
そう、一週間。自分は一週間もこの家、つまり恋人の家に泊まり込んでいた。
何度も自宅に帰ろうとしたが、彼は何度も自分の抵抗をなんなくかわす。初めの三日は、あれよあれよと言いくるめられた。それはまだ良い、何故なら会話であったからだ。その次は色仕掛けだった。男性に対してその表現が相応しいかどうかわからないが、あれは間違いなく色仕掛けだ。帰るなんて言葉を口にしようものならば、その次の瞬間には唇を塞がれてどろどろに溶かされる。そして雰囲気に流されるままにベッドに転がり込んでお互いを求め合った。いやこれは自分も悪かった、流されてそのまま致してしまうなんてちょっと簡単過ぎるだろうと思う。だからこそ、今日はそんな雰囲気を一切ないところで、意思をはっきり伝えたのだった。丁度おやつ時、ここから色っぽい展開に持っていけるものならばやってみろ。
そう勝ち誇っていたのが悪かったのか、彼はふんと鼻を鳴らして、
「だから?」
と、繰り返し問い掛けてくる。
「だ、だからって!」
思いもよらぬ答えに狼狽えた。素直な反応だと我ながら思う、そしてこれ以上ないくらい隙を突かれたと。
「一週間ここにいる、それのどこに問題があるんだい?」
問題大有りだ、ここは彼の家であって自宅ではない。そう返そうと唇を開くと、すうと意外に武骨な人差し指が唇に伸びてきて止められる。
は、俺と居たくないの?」
ぐう。思わず押し黙るがここで負けてはいけない、何せこれは初日と同じ手口だ。何度も同じ手が通じると思わないで欲しい。こちとら女だてらに一人で異界と隣り合わせの街に住んでいないのだ。
唇をふにふにと押してくる指を掴んでどかす。抵抗はない、こちらを甘く見ているのだろう。だが、そうは問屋が下ろさない。
「限度ってものがありますよね」
そりゃあ恋人と一緒に居られるのは嬉しい、最高だ、幸せな気持ちでいっぱいになる。でも、それも限度があるのだ。別にスティーブンが嫌いな訳ではない、飽きるなんてとんでもない。それでもそれは、ここに居る理由にはならない。
「…どうしてそんなに帰りたがるんだ」
心底わからない。そんな気持ちを顔にありありと乗せながら、彼は唇を尖らせる。拗ねている、案外子供っぽい人なのだと気付いたのは最近の話だ。
「君は俺が好きじゃないの」
えぇ、なんでそんな話になるの。
ぷくーと、頬を膨らませながら言う彼はひどく可愛らしい。しかし言ってることは正直面倒臭かった。そういうことではない、好きじゃなかったら一週間も居ないし、そもそもお付き合いをしていないのだ。
「俺は、が好きだよ」
すう、と表情が一変した。拗ねたような色は瞳に残しつつも、真剣にこちらを見つめてくる。その視線は鋭くて、優しくて、一直線に心を射抜いてくるのだ。だから、胸が高鳴るのは仕方ない。そもそも恋人に愛の言葉を囁かれてときめかない女はいないだろう、ドキドキとうるさい心臓をなんとか抑えながら同じように彼を見つめ返した。
「だから、君とずっと一緒に居たい──君が家に居ると落ち着くんだ」
そんなのは、こちらだって一緒だ。
「朝起きて、おはようって言い合ってご飯を食べる。君の寝ぼけた顔が可愛くて、俺はついついキスをやめられない」
そのキスがどれだけ心地よくて、ふわふわと身を委ねてしまうのを彼は知ってるだろうか。
「夜、帰って来て、おかえりって言われるのがすごく嬉しい。ほっとするんだ、心が穏やかになる。一日の疲れが取れるくらいに」
ただいま、その柔らかな笑みに胸がぎゅうって締め付けられるようにときめいて、抱き締めたくなるのをこの一週間何度も堪えた。
「おやすみって言って、隣で眠る君が可愛くて仕方なくて、こっそりキスをしてたの知らないだろう?」
穏やかな寝息にこちらの心も穏やかになって、どれだけ安心して眠れただろう。
「──この一週間、ずっと幸せだった」
この上ないくらい、幸せだった。
どくん、と心臓が高鳴ると同時に、ガバッと抱きついていた。逃げることなく受け止めてくれた彼は、ぎゅっと強く、でも優しく抱き返してくれる。
「私だって、」
「うん」
「私だって、幸せだった」
「…うん」
それ以上に言葉はいらなかった。ぎゅうぎゅうとお互いを抱き締めあって、吐息と心臓の音を確かめ合う。柔らかな感触が心地よくて、幸せで堪らなかった。
本当は、怖かったのだ。このままここに居続けて、どろどろに溶けて、彼に依存してしまうのが怖かった。共に暮らしていたら、きっと彼との生活にいつしか慣れるだろう。そうしたら、彼なしでは生きていけなくなるのだ。そんなのは嫌だった。
一人で生きていける女でいたかった、面倒な女にはなりたくなかった。
でも、それ以上に、この人と一緒に居たいと思う。
一緒に暮らそう」
ぽつり、落ちてきた言葉はどこまでも甘い。
「君と一緒に暮らしてわかった、が居ないのは嫌だよ」
そんな子供みたいな我が儘を彼はさらりと口にする、それがどれだけ心踊らせるか知っているのだろうか。
「朝起きたら、におはようって言われないと嫌だ」
髪の感触を楽しむように、口付けがひとつ落ちてくる。
一緒にご飯を食べて、一緒に仕事に行きたい」
ぎゅっと優しく腰を抱く腕の力が強くなる。でも痛くない、その絶妙な力加減を一体いつ覚えたのだろう。
「仕事から帰ってきたら、おかえりって言ってくれ。俺が先に帰ってきてたら、同じようにおかえりって言うから」
いつの間にか、こつんと額を合わせてくる彼の瞳はこれ以上ないくらい優しさに満ちていて。
「夜は一緒に寝たい。君の隣で眠ると安心出来るんだ」
鼻先が当たる。そして、唇が触れ合う。ふに、と柔らかな薄い唇が心地よくて愛しくて、自分からも触れ合わせた。
「ね、だから──」
一緒に、暮らそう。
頷くよりもはやく、また口付けをする。唇を舐めて、舌を捩じ込んで、待ってましたと言わんばかりに絡んでくる彼の舌先に吸い付いた。堪らなかった、嬉しかった、幸せだった。
長い長い口付けを終えると、唾液が糸を引いている。それを舌先で千切る彼はとても色っぽくて、くらくらしそうだった。
「私、あんまり寝起き良くないんです」
「うん、知ってる」
「ご飯も、簡単なのしか作れないし」
「手のかかるのは一緒にやろう、ヴェデッドと三人でやっても楽しいかもしれない」
「でも、おかえりって言うのは自信あります」
「うん、俺もだよ」
「スティーブンさんの寝顔、案外可愛いですよ」
「君の寝顔には負けるなぁ」
ぎゅう、もう一度強く抱き締める。答えるようにして、彼も抱き締めてくれた。
「──ここに住んでも良いですか?」
「勿論、大歓迎だよ」
そうして、愛してるの代わりにまた口付けをひとつ。彼は驚いて、でも嬉しそうに笑うから、もうひとつ口付けを落とす。
一緒に暮らしていたら、いつしか彼がいる生活が当たり前になるのだろう。でも、当たり前を上回るくらいの幸せが、きっと待っているのだろう。


おはよう、おかえり、おやすみ

15/12/14