パチリ、と目を開けた。部屋は薄暗い。もぞもぞと動いて時計を見ると、時刻は4時半。起きるのにはまだ早い時間だ、隣の恋人もすうすう穏やかな寝息を立てている。
もう一度眠ろう、そう思って瞼を下ろすも、一向に睡魔はやってこない。どうやらどこかへ飛んでいってしまったようだった。
仕方ない、起きるか。隣の彼を起こさないように慎重に起き上がる。ぐん、と大きく伸びをすると、ずきんと痛みが主張をし始めたから思わず両手で腰を擦る。
──そうだった、昨日は"運動"をしたのだった。
恋人である彼ではなく、自ら求めて致した。そりゃあ彼は嬉しそうに笑いながら、時に優しく、時に意地悪く、この身体を蹂躙した。その色っぽさと来たら、今でも思い出すだけでぞくりと腰が跳ね上がりそうなくらいで。ぶんぶんと頭を振って煩悩をはね除ける。
疲れている筈の身体は、発散したせいかやけにスッキリしていた。だからこそ、この時間の起床なのだろう。我ながらよく起きれたなぁと感心してしまう。
何も身に纏っていないことに気が付いて、ベッドの下に投げ捨てたシャツを拾い上げる。ぐしゃぐしゃのそれに、ほんの少し頬を赤くしてしまうのは、昨夜の激しさを、はしたなさを思い出したから。もう一度頭を振って、それを羽織る。羽織ってから気付いたがこれは彼のシャツだった。まぁ良い、クローゼットに行くまでの仮着なのだから。釦をひとつふたつ締めて立ち上がる──筈だった。
ぐん、と後ろから腕を引っ張られて、ぼすん、なんて音を立てながらベッドに尻餅をつく。慌てて振り返ると、これまた何も身に纏っていないスティーブンが、眠たげに目を擦りながら腕を伸ばしていた。
「…どこ、いくの」
掠れた、甘さの残る低い声。少しばかり舌ったらずなのは、まだ眠いからなのだろう。身を反転させて、ベッドに四つん這いになって顔を除き込む。起き抜けの寝ぼけ眼にちゅ、と口付けをひとつ落とした。
「おはようございます、スティーブンさん」
「ん」
「目が覚めたんで、もう起きちゃおうと思って」
「…、うん」
「まだ早いから、寝てて良いですよ」
おやすみなさい、そう言って額に口付けてするりと腕から逃れてクローゼットへと向かおうとした。しかし、ぐい、とまた腕を掴まれる。不安定な体勢だったからだろう。無様に彼の胸へと飛び込む形になってしまった。
「……重い」
うぐ。傷付く発言だ。いや、そりゃあ人間が一人のし掛かってきたら重いだろう。だが、しかし。
「…スティーブンさんが悪いんでしょうが」
引っ張ったりするから悪いのだ。ジトリ、睨んでみてもまだ夢の世界にふわふわ行ったり来たりしてる彼にはまるで効果がない。
「だって、君が行こうとするから」
それのどこが問題なんだ。そう問い詰めてやりたい気持ちでいっぱいだったが、寝ぼけている男に何を言っても無駄だろう。ぐっと堪えて、その身体の上に寝転がった。半分くらいしか瞼が開いていない癖に、彼の腕はきちんと痛む腰に回っているからすごい。
「もうすこし、」
そばにいて。
そんな風に甘えた声でねだられてしまうと、めろめろの自分は従うしかない。小さく頷くと満足したのか、ふにゃりと笑って彼は瞼を下ろした。ちくしょう可愛い。
しかしながら、しっかりと覚醒しまった手前、することがない。しかも身体は固定されてしまっているから、着替えも儘ならない。まぁ、今日は彼も自分も仕事が休みだから別に構わないのだが、それを思うとどうしてこんなにも早起きしてしまったのかと悔やまれる。
暇な自分がやれることといえば、端正な顔を観察するくらいだった。
切れ長の瞳を縁取る長い睫毛は伏せられている、男性なのにこれだけ睫毛が長いのはどういうことなのだろう、女性の敵だ。米神から頬を伝って稲妻のような傷跡は、少しだけ盛り上がっている。以前話した時に、もう痛くないよ、と笑っていたからそうなのだろう。不意に、悪戯心が顔を出して、その頬の傷を指先でなぞる。存外柔らかい頬だ、この頬に口付けを落とすのが自分は好きだ。次いで、唇。薄い割りに柔らかい。この人はもしかしてマシュマロか何かで出来ているのだろうか、と現実離れしたことを考えてしまうくらいには柔らかい。おまけに形も綺麗なのだから困ってしまう。この唇が軽口を叩いて、愛を囁く。そして甘い甘い口付けをくれるから愛しくて仕方ない。
するり、と一周させたところで、不意に指先にちくりとした感触が。なんだろう、覗き込むと、それは短い髭だった。
「…おぉ」
思わず声が上がるのも仕方ない。寝起きの悪い自分は、彼よりはやく起きることが珍しい。よしんば彼よりはやく起きたとしても、こうして寝顔を堪能することなくそそくさと朝食の準備に走るのだ。だから、彼の髭を見るのは、ある意味で初めてだ。なるほど、よくよく見てみればうっすらと髭が伸びている。伊達男の彼は髭が生えていても勿論男前だったが、なんだか妙に新鮮だ。人間味が溢れる、というのだろうかこれはこれで良い、というか少しきゅんとしてしまう。
面白半分に掌を彼の輪郭に這わせると、ちくちくとした感触が。これは、結構面白いかもしれない。すりすり、掌を滑らせて髭の感触を楽しむ。無精髭は不潔、だなんて言っていた先輩もいたが、こと彼においてはそんなこと到底思わなかった。寧ろ素敵というか、面白い。
「……、」
そうやって楽しんでいると、不意に薄い唇が名を呼ぶ。ぴたりと動きを止めると、長い睫毛が震えてゆっくりと開く。どうやら、起こしてしまったらしい。寝ぼけ眼の彼は眉間に皺を寄せながらこちらを見つめていた。
「、なにしてるの」
「いや、つい」
面白くて。本音は飲み込んでへらりと笑うと、彼は、はぁ、と溜息を漏らして、ガシガシと頭を掻いた。そしてほんの少し身を起こすから、ずるっと少しだけ身体が後退する。
「…まだ4時じゃないか」
「起きちゃったんですよ」
「二度寝は?」
「だから、起きちゃったから」
「珍しいこともあるもんだ」
至高の幸せは、いつでも味わえるから良いのだ。それよりも今は彼の髭を堪能したい。両手を伸ばして、頬を、いや髭を撫でる。ざらついた感触に目を細めていると、不思議そうな顔をした彼が小首を傾げる。
「…なに?」
「いや、髭が気持ちよくって」
「あぁ、そういえば昨日は剃り忘れてたっけ」
そういえば、昨日はシャワーも浴びずに雪崩れこんだのだっけ。いや、それはスティーブンが悪い、煽ってくるような口付けをしてくるから、もうそんなのどうでも良くなってしまったのだ。
「髭なんて触って、何が楽しいんだ」
「えー、なんでしょう、感触?スティーブンさんも人なんだなぁって」
「なんだそれ」
意味がわからない、と言いたげな顔だ。思ったことを口にしているというのに、あんまりだなぁ、と思いながらも手は止めることなくその感触を楽しむ。彼も話している内に起きてきたのか、腰を抱いていた手がするりと上がって、髪を撫でていた。優しい指先に目を細めると、彼も同じように蘇芳の瞳を細めた。幸せで、穏やかな一時だ。
「…しかし、」
「はい?」
「君がこんなにはやく起きるなんて、昨日は足りなかったのかな?」
ニヤリ、からかうような意地の悪い言葉を紡いだ唇は綺麗な弧を描く。その言葉の意味を理解するや否や、頬に熱が集中する。
「…せくはら」
「この程度、セクハラの内に入らないよ。どうせなら、」
そう言いながら、腰を抱いていた手が移動させ、するりと尻を撫でた。びくっと肩が跳ねて、思わず睨み付けると、彼はけらけらと笑った。
「このくらいやらないと、ね」
ばちん、と片目まで瞑ってくれやがった、この野郎。絵になること間違いなしだが腹が立つことに代わりはないので、仕返しとばかりに両手で頬を摘まみあげる。
「いたいいたい」
嘘つけ、大して痛くもないくせに。
無言でぐりぐりとつまみ上げると、降参、とばかりに両手がパッと上がる。ふん、思い知ったか。鼻を鳴らしてこちらも手を離して、また撫でる。
ざらざら、相変わらずの感触は心地よい。なんだか自分でもわからない内にハマってしまったようだ。
「乱暴なハニーだなぁ」
「口の減らないダーリンよりはマシです」
「おや」
軽口を叩いて笑い合う。そうして、どちらともなく口付けをした。触れるだけの、柔らかな口付け。そっと唇を離して、こつんと額を合わせる。
「おはよう、
「はい、おはようございます」
ちゅ、ともう一度口付ける。最初は唇、次に額、瞼、頬、鼻、顎。二人で顔中口付けし合う。心地好い、幸せな感触だ。ちゅ、ちゅ、ちゅ。飽きもせず、ただひたすらに、口付けを。好きだ、愛してる。その言葉の代わりに何度も何度も唇を落とした。
明確な愛情表現に自然と口許は弛むし、彼も同じくらいとろんとした表情だった。その顔に、胸がぎゅっと締め付けられる。だからついつい、余計なことをしてしまった。
ぺろり、唇を舐めた。ほんのそれだけ、でも彼にとってはスイッチで。彼の舌先が、すうと伸ばされる。うっ、と躊躇っていると視線で促されるから自分も舌を出す。唇は触れずに舌先だけ絡めるこのキスは、なんだかもどかしくて少し苦手だった。それに引き替え絡み付いた彼の舌はいつだって手慣れている。べろり、舌を舐めあげられて、思わず身震いをしてしまう。くすりと笑うようにして彼の舌は余すことなくこちらの舌を舐めるから、その内に堪らなくなってその舌先に吸い付いた。それを、待ってましたと言わんばかりに口内を蹂躙する。上顎から裏筋に至るまで、もう舐められてないところなんてない、それくらい縦横無尽で舌が動き回る。加えて、こちらの舌も放って置かずに吸い付いて来られるから、もう腰が砕けてしまう。
ぞくぞく、と震える。口の中、舌にも性感帯があるのだと、彼に出会ってから知った。
いつまでそうしていただろう。早朝だと思えないくらい濃厚なキスは、不意に終わった。でも、はしたなくもこの先を期待している自分がいる。そして、腹の下辺りで、彼の身体も主張を始めていた。そうなれば、選択肢はひとつしかない。
「──今日は、ここで過ごそうか」
はぁ、はぁ。上がった息をそのままに、小さく頷く。それを見た彼は嬉しそうに笑って、手早く釦を外す。着たばかりのシャツの出番は、まだずっと先のようだ。


朝焼けの唇

15/12/15