カチャッと、金属同士の鳴る音がこんなにも愛しく感じたことはない。
「君に渡したいものがある」
仕事を終え、いつも通りスティーブンの家にお邪魔して、いつも通り彼の雇っている家政婦の腕に舌鼓を打った。食後、順番にシャワーを浴びる、それもいつも通りだ。ただひとつ違ったのは、のんびりと新聞を読む彼の隣に座った矢先に、不意にそんなことを言われたことくらいで。
「はぁ、なんでしょう」
そう返すや否や、寝室に来るように言われるからぺたぺたと歩いて向かう。なんのへんてつもない、いつも通りの広い部屋。言われるがままにベッドの上に腰掛け、踞く彼を見下ろす。
「スティーブンさん?」
問い掛けるも、返事はない。一体なんだと言うんだ。
彼に足首を持たれたかと思うと、立てた膝の上にとん、と乗せられる。思っていたよりも武骨な指先はそのまま踵へ向かう。丁寧にパンプスを脱がしたなぁ、と感心しながら見ていると、胸ポケットから何かを取り出していた。
「なんです?それ」
「まぁ見てればわかるよ」
見てわからないから言っているのだが、この人は聞く耳を持ってくれないようだ。特別抵抗をする訳でもなく、ぼんやりとただ彼の行動を見守っていた。この街でこんなに不用心なのも問題かもしれないが、相手は恋人だった。それも世界を守るために日夜身を投げかねない恋人だったから、用心もへったくれもなかった。
するり、と足首に何か巻かれた。その冷たさに思わず足をびくつかせると、くすりなんて笑いを溢される。
「はい、これで終わり」
ぱっと手を放されたので、膝を曲げて足首へと頭を近づけるとそこには華奢なものが鎮座していた。チャリ、と鳴って主張をするそれは、控えめな宝石が入る鎖──アンクレットだった。
「これ…」
「俺とおそろい」
隣に腰掛けた彼は、スラックスを摘まんで引き上げ、足首を見せてくれる。タトゥーの刻まれたそこには今自分のそこを同じようにして、アンクレットが巻かれている。ふわり、微笑んだ彼の顔を思わず見上げると、くしゃりと頭を撫でられる。
「ここなら、他の誰にもバレないでおそろいが出来るだろう?」
以前、おそろいの時計をしているカップルとすれ違ったことがある。その時、ひどく羨ましく感じたのに、それを口にしないで彼の隣を歩いた。秘密の恋と言う訳でもないが、それでも彼の仕事上、指輪やアクセサリーの類いをつけることは憚れた。女性相手にハニートラップを仕掛けるような相手だ、そんな我儘を言って面倒くさがられるのが嫌で、割り切って何も言わなかった。それなのに、目敏い彼は気付いていたと言う。加えて、こんなサプライズまで仕掛けてくるから始末におけない。これは世の女性を魅了する訳だ、と恋人ながら感心してしまう。顔は勿論のこと、行動全てに余念がないのだから。
「どう?気に入ったかな」
気に入らない訳がない。大きく頷くと、彼は一層嬉しそうに笑うから、堪らなくなって抱きついた。なんなく受け止めた彼は、笑いながら優しく抱き締めてくれる。
「嬉しい、です」
ぽつりと本音を漏らしてから、ぎゅうと背中に回した手に力を込める。まさかこんなことが起きるなんて夢にも思っていなかったから、どんな顔をすればいいのかわからない。きっと今、自分は面白い顔をしているのだろう。口許は弛みきって、幸せを噛み締められないくらいで。ぐりぐりと肩口に額を寄せる、幸せすぎてどうにかなってしまいそうだった。
「喜んで貰えて何より…と、言いたいところだけど」
不意に、彼が身体を離す。見上げると、蘇芳の瞳が細められたまま、じっとこちらを見据えていた。その表情は柔らかくも真剣で、自分は首を傾げることも出来ずにただぼんやりと見つめていた。
「おそろいは、目的のひとつなんだ──本当はもうひとつ意味がある」
もうひとつ。その意味は、と問い掛ける前に、彼の指先が、こちらの耳元へと伸びる。髪をかきあげて、そっと触れる指。その優しい手つきがやけにくすぐったくて、身を捩りそうになるのをなんとか堪えた。するり、伸びた指先は耳朶のピアスに触れた。
「これ、なんだか知ってるよな」
「はい」
このピアスは彼と出会ってすぐに渡されたものだった。しかし、別にプレゼントという訳でもない、単なる支給品だった。
秘密結社ライブラ。その設立と共に牙狩り本部から引き抜かれた身である自分は、身を守る術を持たない非戦闘員だった。それでも彼らは自分を欲してくれていたし、異界と人界の狭間であるこのヘルサレムズ・ロットに純粋な興味があった。だからスカウトされてすぐ、二つ返事で応じた。その時に与えられたのがこのピアス──GPS兼小型爆弾だった。
ライブラを狙う輩は多い。異界から人界に至るまで、数えるなんて馬鹿らしいくらいに。だからこそ、構成員は狙われやすい。厄介者である我々の情報は時価で取引される、文字通り喉から手が出るほど欲しいのだろう。戦闘員は、身を守る術を知っている。クラウスを筆頭に牙狩りとして血界の眷属と戦う面々は言うまでもない、レオナルドはいざという時には義眼を発動すれば問題がない。ただ、は違った。メインの仕事はライブラの機密事項に関わる情報処理、そしてスポンサーとの会談。対人であれば多少の護身術も使えようが、ことヘルサレムズ・ロットでは役に立つようなものではない。だから、制限をつけた。いつ敵に捕まっても良いように、頭を、脳を吹っ飛ばせるように。そのスイッチを握っているのは、勿論目の前の彼──恋人であるスティーブンだった。
「これを着けた時、君は言ったよな。どんな拷問にも舌を割らない自信はあるが、拘束されて脳を取り出されたら情報漏洩は避けられない」
「だから、いざと言う時はどうぞ殺してください」
「…そう、その通りだ」
覚悟はあった。牙狩り本部に居た時から、ずっとそういう未来がいずれ訪れるだろうと思っていた。クラウスは知らない、こんなことを高潔な我らがリーダーが許す筈がない。これは自分とスティーブン、たった二人の秘め事だった。
彼は、するりとピアスを撫でたかと思うと、不意にそれを外した。その行動の真意がわからず目を丸くしていると、そっと頬を撫でられる。
「俺はね、元来我儘なんだ」
「…へ?」
「欲しいものは絶対に手に入れるし、それをみすみす手放すなんて愚かな真似はしない」
「あ、の」
「だから、君を殺すなら俺の手でやりたい。前にも言ったろ?」
確かに、言った。その時まっすぐに頷いたのは間違いない、どうせ死ぬなら愛しい人の手にかかって死にたいと思った。
「それは、新しいGPSだよ。俺の血を結晶化させて練り込んでる特別製の金属だ。君が捕まった場合、脳抜きを安全に済ませるまで約12時間。それまでに君を助けられなかった場合、俺と君の足は凍り付けになる」
「…は?」
何を言ってるのか、わからなかった。
「足から凍り付けになって、最終的に全身凍り付け。脳までいったら吹っ飛ぶ算段だ。信号は消えないから、まぁクラウス辺りが助けに行くんじゃないかな。運が良ければ助かるだろうし、悪ければ死ぬ。助かっても発動したら最後、俺達は義足生活を余儀なくされるんだろうなぁ」
のんきに、すらすらと説明していく彼の顔は、ひとつの曇りもなかった。何を言ってるのだろう、足が壊死する?誰と誰の?自分と、スティーブンの?そんなのは、そんなことは、許されないはずだ。
「スティーブンさん、なにを言ってるんですか…?」
「死なば諸ともって奴だよ」
「馬鹿なこと言わないでください!」
「馬鹿とはひどいなぁ」
へらり、笑う彼はいつも通りで、いつも通り過ぎて怖いくらいで。
「俺はね、我儘だから、世界と君を天秤にかけられなかった」
ぽつり、と漏らした言葉は重い。
「前に死にかけた時、君言ったろう?俺が死んだら寂しいって、だから先に死ぬなって」
頷く。いや、本当は息を飲んだのだ。
「でも、俺は君が死んだら生きていけないんだよ。そういう風になっちゃったから、もうしょうがないよなぁ」
のんきに、本当にのんきに彼は語る。まるで茶飲み話のようなのんきさは、内容とのミスマッチを生んでいた。
「だからね、君がもしどこかの馬鹿に取っ捕まって俺が助けられなかったり、俺が呆気なく死んじゃいそうになったら、」
頬を滑った指先は、首筋から身体のラインをなぞりあげ、折り曲げた膝から足首にそっと触れた。その冷たさは、いつも通りなのに。
「──その時は、一緒に死のうよ」
何を馬鹿なことを。そう、言いたかった。いや言うべきだった。なのに、この口は肝心な時ほど動かない。頷くことも、否定することも出来なかった。それは明確過ぎる答えで。見つめる瞳は、限りなく穏やかだ。その瞳に魅入られてしまったのだろうか、いや本当はずっと前からそうなのだ。時が、止まったように錯覚する。
愚かだと、笑われるかもしれない。それでも嬉しくて、切なくて、苦しくて。世界を守るために、他の誰でもなく自分に力があるからとどうしようもない脅威に立ち向かう彼は美しかった。でもそれと同時に、いつ身を投げ出すかもわからない危うさがあった。だから側に居たいと思った、支えてあげたいと思った。あなたが死ぬことで、涙する人間がいるのだと、教えてあげたかった。その彼が、未練を残すのは嫌だからと、側に居ないと嫌だからと、手を引いてくれたのだ。それは決して明るいものじゃないかもしれない、見方によっては、多分普通の考えじゃないのかもしれない。
でも、それでも──共にいきたいと思った。
「…まっ、そうならないようにするのが、ライブラとしての務めなんだけどね」
どれだけ時間が過ぎただろう。不意に彼はあっけらからんと、今までの空気も何もかも吹っ飛ばしていつもの調子で笑った。それに釣られるようにして、ふー、と深い息を吐く。これ以上ないくらいの緊張感に身体が根をあげたのだろう。
足首に触れる。着けて貰ったアンクレットは、もう冷たくない。まるで血液みたいだ、と思った。循環して、身体の一部になったかのようで、それがむず痒くて、嬉しかった。
「、
名を呼ばれて顔をあげると、そこには見たことのない彼が居た。いつも余裕たっぷりで、よく笑って、怒ると怖い蘇芳の瞳は、不安に揺れているように思える。そんなのを見たら、もう、どうしようもないじゃないか。
「私、死ぬ覚悟は出来てます」
牙狩りに入った時も、ライブラに引き抜かれた時も、いずれそうなるだろう覚悟はしてきた。
「でも、やっぱり──死なないための努力をしたいです」
あまっちょろい考えかもしれない、でも死ぬために生きる人間なんて居ない。
「発動するより前に、助けに来てくれるんですよね」
問いではない、いつかの未来で彼を後押しする言霊だ。
「だって私、もっと、スティーブンさんと生きていたい」
その言葉に、彼は瞳を丸くして、パチリと瞬きを一つ。そして、それはそれは嬉しそうに瞳を細め、破顔した。
目尻の皺が、いつも以上に深い。口許は、弛みきっている。それを見ていると堪らなくなるから、彼の胸に飛び込んで、その心音に耳を澄ませる。
そう、生きていたい。だってまだまだ生き足りない。人はいつか死ぬ、形あるものはいつか壊れる。でも、それでも、死が迫るその瞬間まで、生きることを諦めてはいけない。
「…俺はやっぱり──が好きだなぁ」
髪を撫でながら、腰を抱きながら呟く彼の声は、絶望になんて満ちていなかった。
「発動するまで、猶予がある。それまでに、助けるよ」
「はい」
「一人じゃ無理かもしれないから、クラウス達に助けて貰うと思う」
「はい」
「これは、君を縛る鎖じゃないよ。未来のための…そうだな、保険だ」
彼らしい言葉に、思わず吹き出した。彼は不思議そうに首を傾げるから、くしゃくしゃと髪を乱してやる。
「そういう時は──希望って、言うんですよ」
瞳を丸くしたスティーブンは、泣きそうになりながら、目一杯笑った。


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15/12/16