「君もっと俺のこと好きになればいいのに」
ぶん殴ってやろうか。そう思ったがなんとか踏みとどまったことを誰か褒めて欲しい。いや、いっそぶん殴ってやればよかった。でも出来ない、そんな寂しそうな瞳で見られたら、もうどうしようもないじゃあないか。
深夜、ベッドの上。この家に来るのもすっかり日課になってしまった今日この頃、さらりとしたシーツにくるまったスティーブンは、そんなことを言い出した。
「私がスティーブンさんのこと好きなの、知ってますよね?」
「うん知ってる。だからもっと好きになって、俺以外見なくなればいいのに」
一体どこで何があったのか。どこか自暴自棄に呟きながら、じっとこちらを見つめてくる彼の瞳は揺れていた。不安、寂しい、どうしたらいいのかわからない。まるで途方にくれている迷い子だ。そんな顔をされてしまっては、怒るに怒れない。だから、代わりに頼りなげな肩をひっつかんで、がつん、と頭突きを食らわした。
「いっ」
「ったぁ」
悲鳴は同時に口から漏れる。思っていた以上にこの人は石頭だった、そんなんだからこんな馬鹿なことを考えるのだ。
痛みを堪えて、驚きと突然の痛みに目を白黒させている彼の頬をぺちん、と両手で包み込んでやる。
もっと好きになればいい?俺以外見なくなればいい?冗談も休み休み言ってくれ。
「あのね、スティーブンさん」
「な、なに」
戸惑う顔は、可愛らしい。突然の攻撃だって、きっと平時であれば避けれるのだろう。それなのに避けない、理由は簡単だ。そんな危機意識を抱いていない、それだけ信用してくれているのだ。その簡単な事実に、本人はまるで気付いていないのだから困ってしまう。こっちは嬉しくて、胸が苦しいのに。
ばか、ばか、ばか。こんな簡単なこと、今更言わせるのか。
「私はもうこれ以上ないくらい貴方が好きなんですよ」
「はっ?」
何度好きだと、愛してると伝えれば、わかって貰えるのだろう。
するり、頬の傷を撫でる。きっと怒られると思っていたのだろう、訳がわからないと言いたげな顔はいつもの余裕はどこかへ吹っ飛んでいて大層可愛らしかった。
「スティーブンさんの、顔が好きです」
端正な顔は、一体何人の女を泣かせてきたのだろう。傷跡だって、その評価を損なわない。それどころか、更にあげることになるのは必死だった。
「スティーブンさんの、その面倒くさいところが好きです」
人を信用しないくせに、信用されないと拗ねたりとか。
「スティーブンさんの、優しいところが好きです」
切ないくらいに優しいから、時に残酷で、時に狡猾だったりする。
「スティーブンさんの、怖がりなところが好きです」
人に優しくするのは怖いから。信用しないのは裏切られるのが怖いから。そんな臆病なところも、愛しくて愛しくてたまらない。
「嫌いなところもありますよ、こういう馬鹿なことを聞くところです」
「ば、ばかって」
「でも、その嫌いなところも好きなんです」
矛盾している。そんなことはわかっていた。でも好きなのだ、嫌いだけれど、馬鹿だと思うけど。弱さを見せたがらないこの人が見せる、唯一だから。
こつん、と優しく額を合わせた。まだじんじんと痛む額は、熱くなっている。このまま溶けて、ひとつになれれば、少しは理解して貰えるのだろうか。どんなに愛しているか、どんなに好きでいるか、わかってくれるのだろうか。
「スティーブンさん、好きですよ」
「、
「毎日一回言うのじゃ足りないんだったら、これからは毎日何度でも言いましょう」
すきです、あいしています。
甘い甘い愛の言葉、何度も告げた愛の言葉。それでも足りないのなら、まだ満足しないのならば。溢れるくらいのこの気持ちを、全て掬ってぶつけてやろう。
「心配しなくても、ずっと好きです。絶対離れてなんてやりません」
「…絶対なんて、」
ぽつり、落ちてきた言葉は静かだった。蘇芳の瞳は揺れている。迷い子は、まだ途方に暮れているのだ。
「絶対なんて、有り得ないだろ」
また、偉く卑屈な言葉が返ってきたものだ、と思った。どれだけ臆病なのか、きっとK・Kだったら呆れ果てていることだろう。凄んで、黙れと銃口を突きつけるくらいのことはするかもしれない。
でも、ここにいるのはK・Kではなかった。この臆病な男の恋人なんて奇特なことを好きこのんでしている女だった。だからそっと抱き締める。頭を抱え込むようにして、ふわふわな髪に顔を寄せた。揃いのシャンプーの香りが鼻腔を擽る。品の良い、爽やかな香りだった。この香りは自分だけが知っていればいいのだと、浅はかなことをついつい思ってしまう。
「君は、いつもそう言うけれど」
抵抗はなかった。されるがままに、スティーブンは胸元に顔を埋めて、小さく小さく本音を漏らす。
「絶対なんて、この世にはない」
声は、驚くほどに冷えきっていた。
「未来は誰にもわからない、世界はなんだって起こる」
「だから、私がいつかスティーブンさんから離れていく?」
返事はない。それは何よりの肯定だった。
──まったく。
「馬鹿なこと、考えますねぇ」
「…馬鹿とは、心外だな」
「馬鹿ですよ、大馬鹿です」
溜息だって漏らしたくなるというものだろう。でもそれをぐっと堪えて、いつになく優しく、彼の頭を撫でた。一回、二回、三回。何度も何度も撫でる、髪の感触を確かめるように。どこへ行ったの、と泣き叫ぶ子供をそっと抱き締めるように。
「絶対なんて有り得ない、ね」
世界はなんだって起こる。そう、それは紛れもない事実だ。もしかしたら、何かの拍子で記憶が飛んでしまうかもしれない。もしかしたら、何かの影響で彼の傍から離れなくてはならない事態が起きるかもしれない。でも、それでも。
「スティーブンさん、知ってます?私、しつこいんです」
「は?」
「だから、一回貴方をこんなに好きになっちゃった時点で、もうアウトなんです」
アウト。そりゃもう大リーグの審判だってびっくりするくらいの綺麗なアウトだ。
こちらを見上げる彼はさっぱり意味がわからないようで、間の抜けた顔で見つめてくる。その瞳はもう揺れてなどいない。しっかり、真っ直ぐに、こちらを射抜いていた。
「例えば、もう嫌だ別れたいって言われても好きなままだし」
どんなにこっぴどい振られ方をしても、別れて傍を離れることになっても。一度根付いた想いは中々どうして、消えてなくなりなどしない。
「例えば、記憶喪失になってももう一回好きになるだろうし」
だから、何度だって恋に落ちる。その姿に、不器用な生き方に、どうしようもなく臆病な貴方に。
「──私は、ずっと、貴方が大好きなんです」
ぽかん、と開いた唇を塞ぐように口付ける。薄い唇は、馬鹿みたいに冷えていたから、熱を分けるようにして、何度も何度も教え込む。
「臆病なスティーブンさんも、我が儘なスティーブンさんも、情けないスティーブンさんも、かっこつけのスティーブンさんも」
どんな貴方も、
「ずっとずっと、大好きなんですよ」
つう、と伝う涙の理由を聞く野暮な人はいない。親指でそっと拭って、また口付けを落とす。今度は額、鼻、目元、瞼、頬、顎、唇、顔中に口付けを降らせる。彼は、抵抗することなく受け入れていて、やがて、自らも口付けを返してきた。

「はい」
「、
「はい」
今にも泣き出しそうな声。それは悲しみからくるものではない、心からの安堵によって訪れる声だった。迷い子はもう迷い子ではない、でもいつだって迷って良い。その度に、どこにいたって見つけ出して、こうして抱き締めてやるから。
「すき」
子供みたいな甘ったれた声が、舌ったらずに呟いた。でもそれは、他のどんなものより、どんな言葉より、この胸を高鳴らせてくれる魔法の言葉だった。
自然に口許が弛む。あぁ、なんて幸せなんだろう。ぎゅう、と堪えきれなくなった思いのままに彼を抱き締めると、所在なさげだった彼の腕がそっとこちらの背に回される。
「私も、だいすきです」
満面の笑顔と共に告げると、不安そうな寂しそうな顔はもうなくなっていた。ふにゃり、と弛んだ口許はこれ以上ないくらい愛しくて、細められた瞳はどんな宝石よりも美しい。見るものを惑わせる端正な顔は、狂おしいほどに綺麗で。
「すきだ」
告げられる言葉が、こんなにも甘美に響くなんて知らなかった。教えてくれたのは、スティーブンに他ならない。
「すきだよ」
甘い甘い、砂糖菓子のような言葉。それは時に、崩れてしまうかもしれない。
「あいしてる」
でも、崩れたらまた作ればいい。根があれば何度だって草木は生える。そして一度根付いてしまったものは、果てることなどないのだ。


砂糖菓子はなくならない

15/12/20