「うん、いいね」
目の前で人の身体をぐるりと見渡して、満足そうに恋人が笑う。その姿に一瞬、ほんの少しだけほだされそうになったのは、所謂惚れた弱みということで。だがしかし、ここは折れていけないと思い直す。多少のことならほだされても良いだろう、誤魔化されたって文句は言わない。でもこれは駄目だ、いくらなんでも、誰がなんと言おうと駄目だ。というか、そもそもはこんなことを引き受けた自分が一番駄目駄目なのだ。
「それじゃあ、あれ、言ってみようか」
まるで歌うように浮かれた様子で、彼はこう告げる。タクトの代わりにと立てられた人差し指をへし曲げたい気持ちを、ごくり、生唾と一緒に飲み込んだ。
怒りとか恥ずかしさとか情けなさとか、そういった気持ちでいっぱいになりながら、スカートの裾をつまみ上げた。しゃんなりと左足を一本引き、頭を軽く下げて礼とする。震える唇を薄く開いて、でもなんだかこのままだと負けたような気がして悔しいから、目だけは真っ直ぐに彼を見つめてやった。
「これで、いいですか?…、……ごしゅんじん、さま」
「──最高」
濃紺のワンピースにフリルがたっぷりあしらわれたエプロン──所謂メイド服なるものを身にまとった自分を見下ろして、それはそれは楽しそうに笑った彼をぶん殴ってもきっとばちは当たらないだろう。しかし、その姿も可愛いなんて思ってしまった辺り、敗北は決まっていたのかもしれない。
「文句なしだ。いやぁ、たまにはザップも良いことをするじゃないか」
「さよーでございますか」
「下世話な感じもしないし、こういうのも悪くない」
「はぁ、それはなによりで」
楽しげだ、実に楽しげきわまりない。この特殊な状況に、スティーブンはえらく満足そうだった。何がそんなに面白いのか、とぼんやり思いながら、つまみ上げた裾をはらりと落とす。ふんわりとしたパニエの上を滑るそれは、音もなく定位置に戻った。
そもそも何故、これを着る羽目になってしまったか。
話は単純明快、今時子供向けのアニメーションだってもう少し複雑さを垣間見せるくらいのもので。先程彼が名を上げたザップ・レンフロこと下半身直結脳内麻薬常時分泌セクハラモラハラ最低男が、そもそもの原因であった。
「これやるよ」
そう言いながら、ザップは紙袋を差し出してきた。正確には押し付けてきたといっても過言ではない、そもそもあの男が、あのザップ・レンフロが人に物を無償で渡すなんてことが通常ならば有り得ないのだ。あまりの突然さに困惑し、受け取りを拒否しようとしたら、
「じゃーな」
と、いつもの緩慢さはどこへやら、そそくさと執務室を後にしていった。なんだあれ、珍しいこともあるもんだ。そう思いながら中身を確認する、次の瞬間固まったのは言うまでもないだろう。
渡されたのは、今着ているメイド服。何故あの男がこんなものを持っているのか。推測に過ぎないが、恐らく何かしらの懸賞で手に入れたのだろう。タグがついたままだったことから、新品そのものであることは伺える。そして、奴の趣味にそぐわないものだということも。
誰にも袖を通されていないものを捨てるのは流石に憚れて、仕方なしに持ち帰った。当たり前のようにスティーブンの家に。そうして、中身を問い質され、なんやかんやの流れでこんな風に着る羽目になってしまったのだ。
「コスチュームプレイなんて下品だと思っていたけど、なるほど、これは確かに征服感と背徳感が満たされるよ」
「…つまり?」
「そそる」
身も蓋もないな、この人。
明け透けに言った彼は、手招きをする。躊躇っていると、はやく、と唇が誘ってくるから、その色気と可愛さの混ざったおねだりに打ち勝つほど自分は強くない。渋々ながらも近付くと、ソファに座った彼は腕を伸ばして抱き寄せてくる。丁度お腹の辺りに顔を埋めた彼は、ふふ、と小さく笑っていた。
「どうかしました?」
「いや、君も案外乗り気だったなぁって。普通は嫌がるもんじゃないの?」
「あー…」
嫌がる、確かにアブノーマルは好んでいない。例えばこれが、ザップが好むようなスカート丈が短くて露出がやたら多いものだったら、きっと自分は今こんなことをしていないだろう。だがしかし、現実は奴の好みではなく、シンプルながら可愛らしいデザインのそれは、おふざけに着る分ならば、と心が揺れるものだったから。
「だって、可愛いじゃないですか」
「それを着た自分が?」
「服が!可愛いって言ったんです!!」
なんてことを言い出すんだ。
くすくすと笑いながら見上げてくる表情は悪戯っぽく、わざとだということをありありと証明していた。こうやって人をからかって、こちらの反応を楽しんでいるのだ、趣味の悪い話である。
「ハロウィンの延長ですよ。スティーブンさんだって、こないだ吸血鬼の衣装ノリノリで着てたじゃないですか」
「うん、あれは面白かったな。血界の眷属と戦う牙狩り──ライブラの人間がああいう格好をするなんて、シャレが聞いてただろ?」
「皮肉たっぷりですけどね!」
事実、K・K辺りが本気で狙い打とうかと算段を立てていたくらいだ。慌てて止めたこちらの身にもなって欲しい。案外この人は、イベントごとをとことん楽しむ風潮がある。三十路はとうに越えていて、普段は冷静沈着で落ち着きを払っているくせに、ここぞという時は童心に帰るというか、浮かれるというか。まぁ、このヘルサレムズ・ロットではそれくらいでないとやっていけないのかもしれない。そしてそれは、自分にも当てはまることで。
「こういう可愛い格好、若い内にしといた方が楽しいじゃないですか」
「じゃあ今度ジャパニーズセーラー服でも取り寄せようか」
「それは趣味に走りすぎでは」
「あれはティーンの子達が着るんだろ?成人をとっくに迎えた君が恥じらいながら着るっていうのは、中々いいもんだぜ」
「セクハラですよ」
「それともナースが良い?俺としては、病院を思い出すから嫌だなぁ」
「人の話聞いてくれませんかねぇ!」
いくらなんでも限度がある。そして、なんというか選択がテンプレートというか、親父臭いのも気になった。別にそれくらいで嫌いにならないけど、好きだけど。それとこれとは話が別だ。
ぎゃんぎゃん犬のように喚くこちらの何が面白いのかわからないが、彼はにこにこと楽しそうに笑っている。いや、正確には浮かれているのだろう。
「…そんなに気に入りました?これ」
「うん、結構」
「言っときますけどこのままなし崩しにセックスとかしませんよ」
「えぇ、どうして?」
可愛い子ぶるな。
「ザップにからかわれるのが嫌だから」
「お?恋人といるのに他の男の名前を出すとは。これは由々しき問題だぞ。あー傷付いた、とっても傷付いた。これはメイドさんに癒して貰わないと」
「ほんと楽しんでるな!」
棒読みにも程がある大根役者の恋人は、腹から尻へと掌を下ろす。明らかにそういう目的での移動だろう、流石に抵抗しなくてはと身体を離そうと彼の肩に手を掛けると、それはそれは美しい笑顔に変わる。
「駄目だよ、ご主人様の遊戯を邪魔しちゃ」
「その設定まだ続いてたんですか」
「うん、今日はもうこれで行くって決めたから」
「いつ」
「今」
「ばかか!」
思わず暴言が口をついて出るのも仕方ないだろう、というかこれは罵ってしかるべきだろう。
ぐいぐいと肩を押して見るも、器用な足が絡みついいてくるから逃れようがない。まったく股関節が柔らかくて粘り強いことだ、こういう時だけ自分の武器を使うのはどうなんだと心底思う。
そんな無駄な抵抗をせせら笑うようにして、彼の腕は動き出す。じーっと背中のファスナーが下ろされていく、ちょっと待て、ここリビングだぞ。何を考えているんだこの人は。思わず見下ろすと、彼は楽しそうに瞳を細めながら、こてんと首を傾げて、
「ベッドがよかった?」
なんて聞いてくるから、本当にどうしようもない。本気だ、本気でする気なのだ。何を、と聞く馬鹿はいないだろう。実際聞いたところで、意地の悪いこの人が事細かに説明してくるのがオチだ。
だから、もう、仕方ない。
「…じゃあベッドで」
「おや」
意外そうに瞳を丸くして、でもすぐにぺろりと舌舐めずりをしながら笑った。獰猛な、獣のような視線。水を得た魚のように生き生きと表情を変えた彼は、せっかく下ろしたファスナーをまた上げる。首を傾げると、色気たっぷりに微笑んだ彼はこう告げた。
「せっかくだから、着たまま、ね?」
「…親父臭いですよ」
「おじさんだもん、仕方ない」
何がおじさんだもん、だ。そんな可愛いこと言ったってほだされてなんてやるものか。
するり、まとわりついていた足が離れて解放される。ようやくまともに身動きが取れるようになり、ほうと息を付くと、不意に手を差し出される。
「スティーブンさん?」
「ご主人様」
この野郎。
「…ご主人様。どうかなさいました?」
「そう、いいこだ」
くそ、こんなのでほだされてなるものか。
柔らかい微笑みは、いつだってこちらの心臓を跳ねさせるから性質が悪い。その上、ベッドでしか聞いたことのないような甘い甘い声のおまけ付き。想いが成就した当初だったら、もうそれだけでめろめろのとろとろだ。
そんなこちらの思惑を知ってか知らずか、スティーブンは差し出した掌をそのままにしながら、締められたネクタイを空いてる片手でぐいと引っ張って緩め。
「ご主人様を、ベッドルームまで案内して、準備してくれるだろう──俺の可愛いメイドさん?」
甘さの中に獰猛な獣が隠れているような、そんな色気と熱を孕んだ声に、ぞわぞわと腰が震えた。かぁ、と真っ赤になったのは、彼の言葉の意味するところを想像してしまったから。いや、想像出来るようなことを今までしてきたからだ。
壮絶な色気にとうとう陥落した自分は、せめて仕返ししてやろうと濃紺のスカートの裾をつまみ上げる。先程よりも高く、高く、持ちうる最大限の色気を総動員して。膝が見えるか、見えないか、その瀬戸際のところで指を止め、一歩足を引く。深々と頭を垂れて、でも瞳だけは真っ直ぐに彼を見つめてやって。
「──仰せのままに、ご主人様」
その言葉に、彼は一層楽しげに微笑んだ。
倒錯だ、アブノーマルだ。そういった野次が聞こえてくる気がする。でも、そんな些細なものは無視だ。何せここはヘルサレムズ・ロット、おもちゃ箱をひっくり返したようなとんでもない街。そんな街の片隅で、享楽に耽った男女が居たって構わないだろう、許されるだろう。だって人生は一度きりなんだから。


Made in the room

16/1/7