ドジを踏んだ、そう思うには遅すぎた。
水位が上がっていく部屋の様子を見ながら、ぼんやりとそんなことを考える。
最近流行りの薬を洗っていたところ、情報元の女に騙された。いや、正確に言うと騙される振りをしたのだ。深く潜ってしまった相手だ、囮とまではいかないが少しは真相に近付けるかと思ってやったことだった。薬はえげつない代物だが扱っている連中は素人に近い、だからまぁ死ぬことはないだろう、なんて思っていたのが悪かった。
薬で昏倒させられるまでは想定内だ。目が覚めて、両手両足を縛られているのも。ただ唯一、想定外だったのは思っていたよりも連中が焦っていた事。
──まさか、人質どころか見せしめにされるとは。
その頭にどれだけの価値が詰まっているか知らないらしい素人は、スティーブンを縛りあげ、そして部屋の中を水で埋めるつもりだった。アジトを捨てるついでに水死体をあげる魂胆らしい、甚だ可笑しいが笑える状況ではなかった。
ただ縛られているだけならば、すぐさま逃げられる。しかし妙な術の掛かった特別製のロープらしく、血凍道を使おうにも発動しない。その上、腕力だけでは契れないときたものだ。間接を外して縄抜けなんていう芸当が出来るほど器用ではないから、やっちまったなぁ、と思う他に術がなかった。
「さて、」
どうするか。いやどうしようもない。何せ縛られているのだからやる事もない。
絶望的なこの状況、それでもスティーブンは冷静だった。
執務室を出る前に、囮になるとまでは言わなかったものの、ギルベルトに言付けをひとつ頼んだ。曰く、五時間経っても連絡がつかなかったらそういうものと思ってください、と。幸い、馬鹿な素人は持ち物に一切手を付けていなかったから、GPSは起動したまま背広の内ポケットに鎮座している。昏倒していた為、正確な時刻はわからないにしろいずれ助けは来るだろうと踏んでいた。だからこそ、こんなのんきに自分の行いの不手際を悔いていられるのだ。
K・K辺りにぶん殴られるんだろうなぁ。と、そんなことまで考える余裕まである。こんなすれすれの行為をした自分を、K・Kがお疲れ様と労う事もなければ許す筈もない。
また頬に紅葉を咲かせるのかと思うと至極憂鬱だったが、あの程度で済むならば御の字だ。ただ、事情を知らない連中に逐一尋ねられるのをかわすのだけは面倒だなぁ、なんてのんびりと思っていた。
じゃぶじゃぶと貯まる水が、丁度膝辺りまで来ている。やたら冷えるのはそれ故か、と納得してから、ふぅと溜息をひとつ。
誰が来るだろうか、チェインだろうか。諜報の得意な彼女の事だから、連中に気付かれない内に来てくれるだろう。そうしたら、このアジトをくまなく浚って手掛かりを探し出してやろう。死体を出す為なのか知らないが、爆破という手段を選ばなかった奴等に後悔させてやる。
そんなことを考えている内に、足音が聞こえてくる。数は一、どうやら慌てて走っているらしい。ぶさいくな走り方だなと思いながら、迷いのない足運びからいって恐らく先程の連中だろう。今になって事の重大さが大きくなったことに気付いて引き返したのか、なんというお笑い草だろう。
さて、せっかくなので思いっきり挑発してやろうか。そう思いながらぐらりと下がっていた頭を上げた、次の瞬間。
「無事ですかスティーブンさん…ってうわ!」
バン、と大きな音がして、声がした。扉を開けたせいで出口を探していた水が飛び出したから驚いたのだろう、お陰で膝まで浸かっていた水は脛の真ん中までになった。
ぱちくり、瞬きをひとつしたのは驚いたからだ。声にではない、勿論水がなくなったからでもない、そこにいるはずもない人物が居たからだ。
…?」
「なんです?あーやだ、スーツが水浸しじゃないですか、クリーニング代高くつきますよ」
「あぁ、うん、そうだね…ってそうじゃなくて」
なんでがここにいるのか。今回の作戦には関与していない、それどころか彼女は非戦闘員だからいつだって事務所で報告書をまとめている筈なのに。それなのに彼女はここにいる、ばっしゃばっしゃと服が濡れるのを厭わずにこちらへ歩いてくるのだ。眉尻があがっているから、もしかしたら怒っているのかもしれない。
「ギルベルトさんに聞きました」
ざばっと、しゃがみこむ彼女は、足にぐるぐると巻き付けられた引っ張る。あぁ、そんな風にしたって切れるものでもなかろうに。それどころか彼女の手が傷つくだろう、縄は柔肌には強く刺のようだ。
「なに、馬鹿なことしてるんですか」
「はは、いやぁ、その、うっかり」
「しっかりしてくださいよ、もう」
「君よりはしっかりしてるつもりだけど」
「しっかりしてる人はあっさり捕まったりなんてしません!」
怒鳴られて、やはり彼女が怒っていることを知る。どうしてこんなに怒っているのだろうか、確かに今日は女と会うとは言ったけれどそんなに怒るようなことだったろうか。
「あんまり──心配させないでください」
無事でよかった、と顔を覗き込んできた彼女は安心したように目を細める。その瞳に少し涙が溜まっているのを見て、ようやく彼女が怒った理由がわかった。あぁ、なんて馬鹿な子だろうか。いや、馬鹿なのは自分の方だった。
「…ごめん」
素直に謝った理由はふたつある。ひとつは、怒らせてしまったこと。ふたつめは、今どうしようもなく嬉しく思っていることを申し訳なく思ったからだ。
きっと今、自分は顔が思いきりにやけていることだろう。だって嬉しくて仕方ない、彼女が自分を心配して、仕事を投げ出してここまで走ってきてくれたのだ。ヒールで走りにくいだろうに、結構距離があるから疲れただろうに。彼女は一番にそれを口にせず、ただこちらの身を案じてくれたのだ。あぁ、嬉しい、嬉しくて嬉しくて仕方がない。しゃがみこんで必死に縄を解こうとしている彼女を抱き締めたいのに、空気を読まない縄が食い込むだけで煩わしい。
不意に、バタバタ、と優雅でない足音が耳に届く。途中でバシャバシャと変化していることから、ここを目指していることにまず間違いない。数は三、いや四だ。先程の彼女よりもよっぽど慌てている様子で、テロリストが聞いて笑える。
「誰だ!?」
おまけに台詞までも吐いて捨てるほどありきたりだ、もう少しユーモアというものを持って欲しい。彼女はそんな声を無視して溢れる水の中、必死に縄を解いている。
「おい、そこの女!何してる!!」
無遠慮に投げ掛けられた言葉に、彼女はようやく手を離し、すうと瞳を細めて肩越しに一言。
「──私のヒーローを助けに来たのよ」
痺れる、これはどう足掻いても惚れるしかない。堂々と戦うことを大して知りもしないくせに、胸を張っていうから。そんな彼女があんまりにも愛しくてたまらないから。ふざけるな、とかいう間抜けなテロリスト共の声は雑音にしか聞こえない。あぁもう、この子もこの子だ。どうせなら腕から解いてくれれば、今すぐ抱き締めてやったのに。でも、結果オーライかもしれない。
貴様もここで殺してやる!おい、縛り上げろ!!」
「それは困るなぁ──」
いい加減雑音が過ぎるから挑発がてらに、すう、と足を上げて組んでやる。ぷかぷかと浮いている縄を尻目に、ふっと笑ってやったのは最後のサービスだと思って欲しい。
「なっ」
「エスメラルダ式、血凍道」
決まり文句と成り果てたそれを紡いで、とん、と踵を踏み鳴らす。次の瞬間、間抜けにも程がある奴らら見事凍り付けになる。
はぁ、と肌寒さに吐息を漏らすと、彼女はやれやれと肩を竦めた。そこまでしなくとも、と言いたいのだろうが、こちらとしてはもっと痛め付けてやりたいくらいだったのだ。
「怪我はない?」
「縄を解いたせいで手が痛いです」
「そいつは申し訳ない、痛いついでに腕の方も頼むよ」
「連絡が済んでからゆっくりやってあげますよ」
どうやらハグはおあずけらしい。いや、してもらえるだけマシだろうか。
肩を竦めて見せると、ずっと強張っていた彼女の表情がほっと安堵したように弛む。あぁ、はやく彼女が腕を解いてくれたらいいのに。そうしたら思いきり抱き締めてキスしてやろう。だって助けに来てくれたヒロインには、キスでお礼が定石だろう?


囚われのきみを救うのは

16/1/22