「ただいま」
しん、と静まりかえった部屋に、ガチャリと扉を開ける音が響く。残業で遅くなった時刻、家政婦のヴェデッドは既に仕事を終えて家族と笑っているだろう。部屋の明かりを付けてから、そっと寝室の扉を開ける。薄暗い部屋は静かで、人の気配はない。
またか、と思う。それと同時に溜息が漏れる。ここ最近、愛しい恋人とは全く顔を合わせていなかった。
恋人であるスティーブンは優秀な男だ。仕事内容は詳しく聞いていないが、それでも彼の仕事量が常人のそれより多いことは垣間見えていた。そして、それをなんなくこなしてしまうことも。だから時折、こういうことが起きる。
自分だって仕事をしている、まだまだ末っ子扱いとはいえ、社会人として立派に責務を担っていた。こうして仕事量が多い彼とすれ違いの生活を送ることも少なくはない。何せ世界を守るためだ、年中無休の忙しさだろう。それでも彼は自分との時間をなんとか捻出してくれていたし、愛情を持って接してくれていた。だから、こんなことを思うのは本当に身勝手で、はしたないのだとわかっている。それでも、どうしようもなく思ってしまうのだ。
「…さみしい、なぁ」
言葉にしてしまえば、それはとてつもなく大きくのし掛かってくる。そう、寂しいのだ。だってもう、三週間近く顔を合わせていない。
なし崩しに一緒に暮らし始めた、それがそもそもの間違いだったのかもしれない。二人でいる時間はとても穏やかで、幸せで、何物にも変えがたいくらいだけれど。知らずにいれば、こんな想いをすることもなかった、こんな情けない気持ちがあることなんて一生わからなかったのに。
じん、と目頭が熱くなる。恋人と会えないから泣く、だなんてあんまりにも馬鹿馬鹿しい。こんな自分は知らなかった、知りたくもなかった。弱い、みっともない、情けない。虚しさでいっぱいになる。
ぼすん、とベッドに腰掛けると、ふわりと彼の香りが微かに広がっていく。それさえも涙を増長させてくるから困りものだ、泣きたくなどないというのに。
「会いたいなぁ」
ぽつり、漏れた言葉はどうしようもない本音だった。スティーブンは元気にしているだろうか、根を詰めやすい人だからきっと今頃血眼になって責務を果たしているのだろう。仕事人間は彼は嫌いではない、寧ろそれも魅力のひとつだと思う、自分だってそれなりに仕事好きだった。それなのに今、ほんの一瞬仕事なんてなくなってしまえばいいのに、と思う。だってそうすれば、彼と会う時間が増えるから。幼稚な考えだ、馬鹿馬鹿しい、なんてみっともない。
ごろん、とベッドに横たわる。彼の香りがますます強くなって、ますます涙腺が弛んできて。誤魔化すようにごしごしと目を擦る。やめよう、こんな女を彼が好きでいてくれるはずがない。そもそもが、奇跡みたいな確率でこうしていられるのだ。そんな幸運に甘えてはいけない、彼にもっとずっと好いてもらえるように努力をしなくては。だから、たかだか三週間で根を上げてはいけない。大人でスマートに、きっと疲れきってるだろう彼を癒せるような女にならなくては。
意気込みながら、明日は会えるかな、だなんて浅はかにも考えてそっと瞼を下ろした。



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明くる朝、ちゅんちゅんと鳥の囀りが響くなか目が覚めた。どうやら昨日はあのまま寝てしまったらしい、なんとだらしないことだろう。いくらスティーブンに会えないからと連日残業をしていたとはいえ、あんまりな有り様だ。今日が休みで、彼がいなくてよかった、今だけは心底そう思う。
慌てて皺だらけのスーツから部屋着へと姿を替えた。こんなところ、見られたら恥ずかしいでは済まない。化粧も落とさずに眠ってしまったから、少しばかり顔が突っ張っている気がする。もう若くもないのに、なんと愚かなことか。
ヘアバンドで前髪ともみ上げをたくしあげ、静かな部屋をパタパタと歩く。どうやらヴェデッドは来ていないらしい、そういえば今日は休みだったっけ。顔馴染みの彼女は心優しくいつも穏やかで、話しているといつも和むけれど、今日ばかりはこんな体たらくを見せずに済んでよかった。
洗面台へ向かい、蛇口を捻る。じゃーと流れる水音を尻目に、クレンジングを手に取った。その並びに、彼愛用のシェービングクリームが目に入り、ちくりと胸が痛む。すっかり家に戻ってこないから、きっと今頃無精髭をたくわえていることだろう。そんな珍しい彼の姿も、見ることは叶わないなんて。
はぁ、とわかりやすい溜息をひとつして、顔を洗う。目尻からじんわりと熱いものが溢れ出てくるのは、気のせいだと良いのに。
バシャバシャと顔を洗い終え、備え付けのタオルで顔を拭く。ヴェデッドがいつも綺麗に洗濯してくれるそれは石鹸とお日さまの良いにおいがして、それが心を和ませてくれた。ごしごしと顔を拭い、ぱっと顔を上げた次の瞬間。
「ただいまぁ…」
へろへろの声が耳に届く。聞き馴れた声だ、焦がれて止まないその人の声だ。ばっと慌てて扉の方へと駆け出すと、スーツをだらしなく着崩しながら背中を丸めて、無精髭をたくわえた愛しい恋人がよろよろと歩いていた。
「…あぁ、、おはよう。久し振りだ、ねっと」
名を呼ばれた、そう思ったらすぐに身体は動き出し。いくら疲れているとはいえ、成人男性、その上日夜戦っているはずであろうに、彼は飛び付いたこの身体をなんなく受け止める。すう、と思いきり吸い込むと彼の香りでいっぱいになった。嬉しくて、どうしようもなくて、ボルトが弛みっぱなしの涙は溢れ出た。みっともない、面倒くさい。そう思うのに、一度堰切った想いは留まることを知らなくて。ぎゅうぎゅうと、疲れきっているであろう彼の身体を強く強く抱き締める他に術などなかった。
「ただいま、
耳に落ちる声は、そんなことないよ、とでも言いたげに甘くて優しい。
「おかえり、なさ、い」
そう告げた声は、みっともなく震えていた。でも彼はそんなこと気にも止めずに、ぽんぽん、と優しく背中を撫でながら言葉を続けるのだ。
「ごめんね、連絡出来なくて」
首を振る。忙しいのだから仕方ない、寧ろそんなことで彼の手を煩わせる方が嫌だった。
「忙しくて…っていうのは言い訳だな、ごめん」
再び首を振る。そんな風に言わせてしまって、こちらこそ申し訳なかった。
「寂しかった?」
そんなの、寂しいに決まってる。
「──俺も、寂しかったよ」
甘い甘い囁きが落ちてきて、すぅ、と伸びてきた指先が顎を掬う。そのまま唇を重ね合わせ、疲れきった彼の顔をまじまじと見ては堪らなくなってもう一度。髭が当たって少し痛かったが、今はそれさえも愛しい。彼から与えられる全てが愛しかった。
「今日仕事は?」
「ないです」
「じゃあシャワー浴びたら、一緒に寝よっか」
「私も、まだ入ってないんです」
「それなら一緒に入る?なんて──」
「、いいですよ」
「…ほんとに?」
「たまには、いいです」
今は一秒だって離れたくない。驚いて目を丸くした彼はその蘇芳の瞳を細めて笑いながら、こつんと額を合わせてきて。
「じゃあ、洗いっこだ」
そんな風にそっと囁いてくるから。頬を赤く染めながらこちらも微笑む他にない。寂しさは、一瞬にして埋まった。


欠けたピース

16/1/24