ガチャン、と携帯電話を取り落とした次の瞬間にはもう走り出していた。
バタバタとみっともなく、ただひたすら駆け抜ける。頭の片隅だけは冷静で、タクシーを使った方がはやかっただろうかとか、そういえば電話の途中で出てきちゃったなとか、そういうどうでもいいことばかりが駆け巡る。
一心不乱の走りだった。学生時代だってこんなに一生懸命走ったことがないだろう、それくらいに真剣だった。走る、走る、走る。景色がどんどん変わっていく。見慣れた景色、見慣れた人波、そんな中をぐんぐん掛ける。途中で誰かにぶつかったけれど、謝罪もそこそこにひたすら駆けた。ヒールがカツコツうるさくて、走りにくくて、でも今更どうしようもなくって、とにかく走った。日頃の運動不足が祟っているのだろう、息は切れ切れ、足は重い。でも止まろうなんて一欠片も思わなかった。はやく、はやく、はやく。ただ急いでいた、愛しい人の下へとひたすらに。
滅多に行かない病院にたどり着いた時には、もう身体が限界だった。それでもはやく、一秒でもはやく彼の下へと行きたくて、ぜえぜえと切れる息をなんとか詰めて、ナースステーションの机をバン、と叩いた。
「スティー、っブン・A・スター、フェイ、ズ、の、病室、は!?」
あまりの迫力に看護師達は何も言えなかったのだろう。後から思うと、そう冷静に分析できるのだが今はとにかくそうもいかない。物の数秒返事が来ないことに焦れて、もう一度唇を開いた、その時。
「ミス、だろうか」
重厚な声が降ってくる。その厚さと来たら、もう果てのないくらいで。思わず振り返ると強面の大柄な男が、ぴしっと綺麗に佇んでいた。ただ、その様子はあまりにも恐ろしい。圧、とでもいうのだろうか、その男がまとっている全てが重くのし掛かってくるような感覚。逃げろ、と本能的に頭は叫ぶものの、身体はすっかり平伏しきっていて動かない。その癖ガタガタと震えることは出来るのだから、人間というのは実に上手く出来ているのだろう。
「…ミス、違っていたならば申し訳ないのだが。貴方は、で間違いなかっただろうか」
問いかけと呼ぶには余りに強いその言葉に、唇を動かすことなんて出来る筈もなく。みっともなく震えながら、ひとつ頷きを返すのだけが精一杯だ。それだって震えながらなんとかどうにか動かしただけで、端から見たらきっとブリキの人形を思わせていたに違いない。
すると、男はひとつ頷きを持って、すぅと腕を引く。その指先はどうやら男の後方を示しているようで、そちらは病棟に繋がる通路のようだった。
「スティーブン、」
よく知った名が耳に響く。
「彼の病室ならあちらだ。必要ならば案内しよう、だが──」
それが、こんなにも残酷に響くだなんて。
「貴方には、会いたくないそうだ」



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とぼとぼ、と歩いているのが正解なのだろう。しか、そんな殊勝な姿になることはない。寧ろ怒りによって、普段の倍以上に触れるもの全てに敵意を向けて、ドカドカとおおよそ成人をとうに迎えた女がするべきではない歩き方をしている。
ふざけるな、というのが本音だった。
先程の男は、見た目とは違って紳士に道を教えてくれた。いや、身なりは随分と整っていたから、もしかしたら本物の紳士なのかもしれない。一番はやく辿り着ける道順なのだろう、思っていた以上にすぐ側にその病室はあった。
「ハロー、お嬢ちゃん」
そして、扉の前にはすらりとした美人が立っていた。隻眼の女性は、こちらに気付いてはひらりと手を振って見せる。気さくな人物なのだろう、だが今はそんな人に笑顔で接していられるほど冷静ではない。
「そこ、通してもらえますか」
挨拶もそぞろに、一言。簡潔な要求だ、彼女は面を食らったようにぱちりと瞬きをひとつして、それから唇を弧のように歪めた。
「嫌だって、言ったら?」
「関係ありません、通ります」
「あら怖い。アタシじゃないわよ、ここに入ってる馬鹿がね、嫌なんですって」
がつん、と面を食らうかとでも思っているのだろうか。
「──それも関係ありません」
そう、関係ない。何故ならそこに入るのは、エゴだからだ。誰の許しを得ることもない、ただ自分のためだけに入る、彼に会う。そしてやたら端正なその顔をひっぱたいてやると決めていたのだ。だってそうだろう、自分からこの病院に入院すると連絡してきておいて会いたくないとは何事なのか。心配はいらないとでも言いたかったのだろうか、大したことはないとでも言いたかったのだろうか。それでも顔を見せて、安心させるというのが筋だ。だからそんな可愛くも微塵もない要求なんて知ったことではない、自分のために今この場を進むと、あの紳士から聞いた時に心を決めたのだ。
彼女は、ぱちぱち、と瞬きを二つして、それからぷっと噴き出した。何が可笑しいのだろうか、腹を抱えて笑い出す始末だから、こちらもどうしたことか緊張感と怒りが少し間延びする。
「あっはっは!いいわぁ、貴方面白い」
「はぁ、それはどうも…」
「スティーブン先生なんて放っておけばいいのに」
「いやいやそれはちょっと、目的があるので」
「目的?どんな?」
「あのやたらかっこいい面をひっぱたこうかと」
ぶっと、再度彼女は噴き出した。何が可笑しいのだろうか、おおよそ恋人と取れる人物がそんなことをするのが面白いのだろうか。恋人だろうがなんだろうが、怒ったらぶっ叩くくらいのことはするだろう。いや、良識のある大人はしないのかもしれないけど。
「あー面白い。気に入らないけど、やっぱあいつ見る目あるのねぇ」
「はぁ、どうも」
「大体素直にあの腹黒男の言うこと聞くなんてごめんだしね、いいわ、通んなさいな」
なんと、彼女は最後の砦ではなかったのだろうか、あっさりな展開は大いにこちらを驚かせる。それに対して彼女はにっこりと人好きする笑みを浮かべて。
「お説教、ヨロシクねん」
と、それはそれは楽しそうに送り出してくれた。



:::



カララ、と扉をスライドさせると、真っ白な病室がまず飛び込んでくる。そして次に目に入るのは、包帯だらけの恋人の姿で。
ぐっ、と喉が詰まる。入院ということだからひどい状態なのだとわかってはいたが、いざ見てみるとあんまりにも痛々しくて。毒気を抜かれたせいもある、でもそれ以上にいつもと違う彼の姿に、ひっぱたいてやろうなんて気持ちは削がれてしまった。
「──やぁ、来ちゃったの」
困ったなぁ、なんて笑いながら頬を掻く姿がいつも通りなことだけが、唯一の救いだった。
カツコツ、震える足をなんとか進ませて、ベッド脇へと向かう。逃げることも出来ずにその場に留まっている彼は、眉尻を下げて笑う。誤魔化すような微笑みは、彼の苦手なところかもしれない。
「ほんと、呼ぶつもりはなかったんだけど、君電話投げ出しちゃうからさ。どっかで事故にあってないか、俺の方が心配しちゃったよ」
それはこっちの台詞だ。
「まぁ見てのとおり、こんなことになっちゃって。でも、五体は満足だし、仕事も滞りなく済ませたんだけど」
仕事人間らしい、言い草だ。
に、かっこわるいとこ見せたくなかったんたけどなぁ…」
ばか。
「そんなのどうだっていい!」
怪我をしたこととか、仕事のこととか、かっこいいとか悪いとか、そんなものはどうだっていい。
「──無事でよかった」
ぽろり、こぼれたものを拭わずに言い切って、そっと頬に触れる。あたたかい、生きている。そのことが何より嬉しくて心から安堵して、涙がどんどん溢れてくる。
こちらの様子に面を食らったらしい彼は、瞬きを何度か繰り返して、それからはにかんで、手を握ってくれた。
「スティーブンさんは、ばかです」
「うん」
「かっこつけ」
「うん」
「そんなに、かっこつけなくたって、いいんです」
「うん、ごめんね」
ぽろぽろとこぼれる涙と同じくらい、ぽろぽろと文句が出てくる。それらすべてを受けとめて、彼は笑った。嬉しくて、でもそれがむず痒くて仕方ないと言いたげなその表情が、あんまり愛しいから。先程のことは不問にしてやろう、でもやっぱりちょっと悔しいから、その愛しい頬を引っ張るくらいはしてもいいだろうか。


デフォルトだから許しておくれ

16/2/6