ぱくり、もぐもぐ、ごっくん。
食べるということは生きるということと同じだ。人間の三大欲求のひとつには食欲がある。人間以外にも動物、異界生物など、生きているものは食べることで命を繋いでいる。だから食べることは、生きる上で必要不可欠なのだ。
とはいえ、本能のままに貪りつくのは流石に憚れる。だからなるべく綺麗に、上品に食べるように心掛けているのだが──。
カチャリ、カチャリ。耳心地の良いクラシック音楽が流れる中、響く小さな音。余りの小ささに一瞬気が逸れると聞き逃してしまいそうなくらいだった。
足音を聞こえなくする優秀な絨毯をぐぐぐと踏みしめながら、眼前に広がる完成された料理に視線を落とす。片手にはナイフ、もう一方はフォーク。使い慣れたはずのそれは、最早すっかり使い道がわからない。
「食べないのかい?」
不思議そうに、本当に不思議そうに首を傾げる姿が少し憎い。平静を装いながらにっこり笑って、手を動かそうとして、止める。美しい一口大にカットされた料理をぱくりと頬張ってじっとこちらを見つめるスティーブンが羨ましいような、憎たらしいような。
ぐっと唇を噛み締めて、両手のそれを皿に向かわせる。大丈夫、さっき彼が食べる様をじっと見ていたのだから。同じようにすればいい、そうすれば恥をかかせる真似にはならないだろう。そう考えて、記憶を辿りながらたどたどしく両手を動かす。向かいの彼に視線をやると、何やら微笑ましそうに見ているから少しばかり腹が立ったのは当然のことだろう。
ようやく口に運んだが、緊張しているせいだろう、味なんかすっかりわからなかった。
「美味しい?」
そんなこちらをわかっているのか、絶妙なタイミングで問い掛けてくる。目を細めて微笑みながら言う彼は、とてつもなく上品で、優雅で。耳に届くクラシックが嫌味なくらいに似合っていた。
「美味しい、ですよ?」
「それはよかった」
なんて言いながら、肩を少し震わせている彼には、きっとお見通しなのだろう。
仕方がない。そう、仕方がないのだ──VIP御用達の店なんて生まれて初めて来たのだから。
それなりに歳を重ねて来ている訳だから、それなりにこういったフルコースを出す店には訪れたことがある。例えば、誰かの結婚式の披露宴とか。例えば、日々仕事を頑張っているご褒美とか。理由は様々だったが、過去に何度もフルコースを食べたことはあった。ただし、それらは全て自分の給料に見合った店での話だ。
「今日はちょっと良いところで食べよう」
そう言って連れ出されて、高級ブティックに連れられてあれよあれよと言う間に着替えさせられて─いくらするんだろう、この服と靴─彼の運転する車に揺られること数十分。ミシュランガイドに載ったことが何度もある、三ツ星の有名店。言わずと知れたモルツォグァッツァに並ぶ超超有名店にたどり着いたのだ。
店の面構えに呆然と立ち尽くしたのは言うまでもないだろうが、流石そこはこの伊達男、スマートにエスコートをしてくるから、まだ理解が出来ていないこちらも流されるままに席へと着いた。隣のテーブルは議員だったし、そのまた隣はドラマや映画にひっきりなしに出ている有名女優だった。他にも新聞やらテレビやらメディア媒体で一度は見たことのある有名人ばかりが、この店内にはひしめき合っている。
メニューを片手に、慣れた様子で注文する彼の姿はこの場に相応しいものだった。呆然と、ただ呆然と見ていた自分にウェイターが、失礼しますと水を渡してくれたところで、ようやく意識がはっきりした。このままぼんやりしていたかった、なんて思ったのは生まれて初めての経験だった。
そうして、今に至る訳で。目の前の彼は、涼しい顔でワインを舌の上に転がしていた。こちらを見ては、いつも以上ににこにこと笑うのも忘れずに。
「こういう店は初めて?」
「…まぁ、はい」
「だろうね、緊張してる」
誰のせいだと。というか、こういう店に来るならもっとはやく言って欲しかった、と思うのは傲慢なのだろうか。ちょっと良いところ、その言葉を信じて、つい自分基準に考えてしまったのがいけなかったのだろうか。
緊張しない方がどうかしている、というくらいの店なのだ。その上、VIP御用達のくせに完全個室どころか半個室ですらない。聞くところによると、あのモルツォグァッツァは完全個室だと言うのに。テーブルマナーなんてさらっとしか知らない自分はもうどうすればいいのかさっぱりだった。それでも、社会人として経験を重ねている訳で、順応に対応するということは嫌というほど学んできた。だからこそ、スティーブンの動作を逐一観察して、見よう見まねでメインディッシュまでやってこれたのだ。間違ったことをして恥をかくのは自分だけではない、この店に連れてきてくれた彼の面子を潰すことはどうにもこうにも避けたかった。
多少の話し声はすれども、基本的には静かな店内だったから、彼も自分も積極的に話すことはなかった。こちらの場合は、話す余裕がなかったとも言えるけれど。しかし、食べ方を学ぶためとはいえ、彼の食事のし方をこんなにじっくり観察したことはなかったな、と思う。普段、サブウェイのサンドイッチにかぶりつく様とは違う、明らかに洗練された無駄のない動き。音もほとんど立てずにフォークやナイフを扱う姿は、陳腐な言い方だがとても美しかった。その余りの優雅さに、自分と比べて少し泣きたくなったのは内緒だ。どこかで習っていたのだろうか、いや習うというより染み付いたという感じかもしれない。
そういえば、彼のことはあんまり知らないな、と思う。"仕事"のことはあまり聞くのもどうかと思っていたから聞いていなかったが、言われてみればこのヘルサレムズ・ロットに来てからのことしか知らなかった。好きな食べ物とか、好きな番組とか。そういった細々としたことは知っていたが、どこの生まれで、どうやって過ごして、どういう繋がりでここに来たのかは全く知らなかった。もしかしたら、結構な家の出なのかもしれないなぁ、なんてぼんやり考えていたら、次の料理が出されたから慌てて彼の所作に注目した──考え事などしてる余裕が今ある訳がない。



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バタン。車に乗り込んで、深々と溜息を吐く。履き慣れないヒールの靴のせいで足はもうパンパンだった。立つことは少なかったというのに、緊張で思った以上に柔らかい絨毯を踏み締めていたらしい。
くすくす、と笑い声が聞こえる。隣を見ると運転席に座った彼が実に楽しそうに笑っている。憎たらしいことだ。
「…スティーブンさん」
「いやぁごめんごめん、つい」
余程恨みがましい声をしていたのだろう、笑っていた彼はすぐに謝罪を述べた。一度謝られてしまったらそれ以上怒る気にはなれなくて、こういうところが本当にずるい人だなと心底思う。
「どうだった?」
と、聞かれたところで返す言葉は決まってる
「緊張し過ぎて、何も覚えてません」
奢ってもらっておいて何だが、本当に味なんてわからなかった。憮然とした表情で言ってのけると、彼はまた笑った。今度はくすくす、なんて可愛いものではない、あっはっは、と大きく肩を揺らしながら楽しげに笑っていた。本当にこの人は笑い上戸だなと思いながら、それでも先程店で見た顔とは打って違うなと感心してしまった。あれはあれでかっこよかったが、今のスティーブンの方が好きだなと思う。大した理由はない、ただの直感めいたものだ。
「君はああいう店は苦手?」
「限度がありますよね」
身の丈に合ったものだったら、いくらでも大歓迎だが、さっきの店は明らかにオーバーケース。何せしがない会社員だ、右を向いても左を向いても有名人だなんていう状況に慣れる訳がないのだ。ミーハーに騒げたら楽だっただろうが、そういう性分でもなかったし何よりあの雰囲気で騒げる方がどうかしていると思う。
「大抵の子は喜ぶんだぜ?」
「はぁ」
それは過去の女性のことを言っているのだろう。面白くない気持ちがありありと出て来て、なんとも言えない無愛想な返事をしてしまったが彼は気にする素振りもなく笑っていた。この人は時々どうしてか意地悪になるから、こちらの反応を喜んでいるのかもしれない。醜い嫉妬を全面に出すのはこちらとしてもプライドが許さないので、深く突っ込みもせずに流すことにする。
「で、なんで急にこんなことを?」
誤魔化すように話を切り出したが、間違いなく核心だった。
そう、そもそも何故、こんな店に来る羽目になったのか。三ツ星の店だから当然予約は必須だし、前々から計画していたのだろう。教えてくれれば事前にテーブルマナーを改めて勉強して、少しは味を楽しめたかもしれないのに。こちらに告げることなく、こんなことを仕出かしたのにはそれなりの理由があってしかるべきだろう。そう思っていたのに。
「え?ただ、君を驚かせたくて」
と、来たものだからすっかり肩透かしを食らってしまった。
「…ええと、はい?」
どういうことですか。と言外に含めて告げると、動揺した様子もなく、さらりと告げられた。
「人生にはスパイスが必要だからね、たまのサプライズっていうのも大事だと思って」
馬鹿なのか。
本音が出かかって、なんとか押し止める。いや、それにしてもこの人は。たったそれだけのことに一体いくら注ぎ込んでいるかわかっているのだろうか。今身に付けているドレスやら靴やらは勿論のこと、先程の食事代を含めれば自分の月給の半分は吹っ飛ぶことだろう。それを、ただ驚かせたくて、だなんて。馬鹿のやることだ、金持ちの道楽だ。世界の均衡を保つ職業というのはそんなに儲かる仕事なのだろうか、いやニュースで知る程度だが損害の方が大きくて明らかに赤字計上だろう。もしかして知らないだけで株とかやって儲けているのだろうか、いやいやそれにしたってこの蛮行とも呼べるべき行動は理解が出来ない。
そんなにお金をかけるような女じゃない、それなのに。
「──っていうのは、半分嘘」
唇を開きかけて、彼の言葉が耳に入ったから留まった。ハンドルに両腕を乗せて寄りかかりながら、顔だけはこちらを向いて、一言。
「本当はね、記念だから」
記念、とは。
誕生日はまだ先だし、ニューイヤーだってまだまだ先だし、何か思い当たることはひとつもない。訝かしむこちらが面白いのかわからないが、頬を両腕に乗せながらくすくすと彼は笑った。うーん、可愛い。可愛いが、先程同様、理解は全く出来なかった。
「覚えてない?今日が何の日か」
覚えているも何も、心当たりは全くなかった。予想していたのか、彼はこちらの返答を待たずに続ける。
「今日はさ──と出会って一年なんだよ」
がつん、と後ろから頭を殴られたような感覚に陥る。一年、確かに言われてみればそろそろそれくらいの時間を過ごしていたような気がする。いや、しかし、だからと言って。自分も彼もティーンじゃない、初めての恋に浮かれるような歳でもない。それなのに。
「それで、こんなことを…?」
記念だから、言われてしまえばその通りなのかもしれないけれど。大人になってからこんなことをしたことはなかったし、するつもりもなかった。なんなら物臭な自分は、一年経つことを失念していたくらいで。こんな百戦錬磨の伊達男が、数々の浮き名を世に轟かせていたような色男が、まさか自分と会った日を覚えていて、それを祝うだなんて。
馬鹿げている、マメにも程がある。だからモテるのか?なんていう疑問が思い浮かんだ時。
「こういうの、面倒臭いなって思ってたんだけど」
そうでしょうね。
「君と会った日は不思議と覚えてて」
それは、光栄の至りだ。
「ちょっと恥ずかしいけど、お祝いしたいなと思って」
──つい、気合い入れちゃった。
なんて、可愛いことを言われてしまったら、こちらはもうくらくらするしかなくて。なんだ、この人、かっこいいだけじゃ飽きたらず、可愛いも制したいのか。うっかりどころか完全にときめいてしまったから、もう何にも言えやしない。不慣れな洋服や靴も、よくわからないテーブルマナーも、ひたすら緊張するだけだった店内も、全部全部彼が自分のことを思ってやってくれたのだと思うと、途端に嬉しくなる。それと同時に、楽しんで味わえなかった自分がものすごく情けなくて恥ずかしくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「スティーブンさん、あの、私…」
「君が緊張するの、わかってたんだけどね」
はて。謝罪をしようとした言葉を遮られて、目を丸くしていると予想外の言葉が降ってきた。
「そういう君もきっと可愛いと思って、見たかったんだよな」
──この人は。普段はちみつか砂糖かわからないくらい甘いくせに。こういう時だけ、どうしようもないくらい意地悪でずるいんだから。
「怒った?」
答えなんてわかってるくせに、こうやって聞いてくるからこの人は本当に始末におけない。反省の色なんてまるで見えない甘い甘い顔に、せっかくだから何かしらの仕返しをしたくて、でも急には思い付かなくて。仕方なしに背中を浮かせて、シートの手をついて。鼻先を合わせてから、そっと唇を落とす。
「…次は、相談くらいしてください」
祝いたいのは、こちらも同じなのだから。この広い世界で、偶然にも出会ったことを、奇跡みたいな出来事に感謝してるのは、そちらだけではないのだ。
「驚く顔より、緊張した顔より、もっと良いもの見せてあげます」
「それは、なに?」
「──この上なく、貴方を好きだって顔」
一瞬目を丸くした彼は、すぐにまた微笑んだ。


Surprise dinner

17/10/11