いつも通りこの街特有の大騒ぎが起きて、いつも通りそれの収束を図るために駆り出されて、いつも通りくたくたのぼろぼろになりながら帰って来た、そんなありふれた日の話だ。
その日の馬鹿騒ぎは夕暮れ時まで掛かったがバイトのない日だったので、ザップと同じくうんうん言いながら報告書を仕上げていた。こと報告書に関してはぶーぶー言いながらも生死を分ける大事な資料だと教え込まれているせいか、怠惰の極みのザップだろうが真剣に向き合うしかない。勿論自分もライブラ加入時にしつこいくらいに説明された。特に神々の義眼なんていうものを持っているくらいだから、他の人が当たり前に見えていないものまで見えるため、そういう細かいところまできっちり仕上げるようにと言い含められたことが最早懐かしい。
そういう訳でとっぷり日が暮れても尚、まだ帰路へと辿り着けなかった。まぁ、そもそも撤収が夕方くらいだったから、これくらい時間が掛かるのも当然だったりする。
そろそろ一息入れようか、そう思って席を立つと、
「げ、もう終わったのかよ」
なんて目敏く声を掛けられた。基本的にライブラでの活動時間は決まっているが、こういう予定外の出来事があった時は勤務外だろうが何だろうが予定が空いていれば報告書を仕上げるのが常だ。そして、仕上げたものから帰っていく。緊急事態があれば別だが、恐らく今日はもうヘルサレムズ・ロットの中では平和に過ごせることだろう。それを予見してるのか、声を掛けてきた先輩は意外に寂しがり屋というか、一人だけぽんっと放り出されるのが苦手というか、とにかく何らかの理由で引き止めようとしているのだろう。もしかしたら今晩のタカり先にされているのかもしれない、ザップ・レンフロというのは自分の知る限りそういう男だった。
「まだですよ、ちょっと一息入れようかと思って。ザップさんもなんか飲みます?」
帰れたらいくら引き止められようがさっさと帰っているが、生憎とまだ報告書は途中だった。あと1時間もすれば終わるだろうが、丁度キリの良いところまで来たし、何より帰って来てからギルベルトが入れてくれたコーヒー以外何も口にしていないのだ。それは彼も同じだからか、問い掛けると無言のまま、書く手は止めず、血法を使ってカップを差し出して来た。相変わらず便利なものだと思うが、それと同時にちょっと日常的に使い過ぎじゃねぇ?と思うのは仕方ないことだろう。とはいえ、不可視という特殊能力を持つチェインだって日常的に使っているし、同じ斗流血法の持ち主であるツェッドだって生計を立てるためとはいえ日常生活の中で使っている訳だから、やっぱり持ってるものは使わないと損なのかもしれない。かく言う自分だって大家の猫探しに使っているのだから、あんまり強くは言えないのだ。
カップを受け取って、給湯室に向かう。いつもならばそこにはギルベルトが居て、それはそれは美味しいコーヒーを包帯越しに笑顔を浮かべながら柔和に淹れてくれるのだが、残念ながらその姿はどこにもない。どうもクラウスと共に会合というものに出ているらしい。どういう集まりなのか知らないが、我らがリーダーが行くくらいだからそれくらい重要なものなのだろう。優秀過ぎる執事であるギルベルトが作り置きなんてものを飲ませることは勿論ないので、当然ながら新しく作ることになる。ヤカンに水を淹れて、火にかけたところで、ふと話し声がすることに気が付いた。
ひょっこりと覗き込むと、廊下にはスティーブンが立っていた。報告書に集中していたせいもあるだろうが姿が見えなかったので、てっきり今日の会合とやらに一緒に行っているものとばかり思っていたのだが、どうやら当てが外れたらしい。居るなら彼もコーヒーを飲むだろうか、声を掛けようと唇を開きかけて慌てて手で押さえる。
「…そう、だから今日はもう少し掛かるかもしれない」
どうも、電話中らしい。言葉から察するにどうも仕事の話ではないようだが、プライベートだろうが電話中の人間に声を掛けることは躊躇われる。何かしらの重要な用事があれば別だが、用件と言えばコーヒーくらいだからやめておくべきだろう。そう思って、給湯室に戻ろうとしたところ、ふと違和感に気が付く。
──スティーブンさんって、あんなに優しい雰囲気だったっけ?
気が付いてしまったら、確かめたくなるのが人間の本性という奴でして。記者根性が染みついているのかもしれない、と言ってもそんなに長く記者をした訳ではなかったけれど。だって、あのスティーブンだ。氷の副官であり、優しいかと言われれば優しくはない人だ。人並みには優しいのかもしれない、だが心から優しい人は初対面で怪我人に対して"万事解決おめでとう"なんて言わないし、突然家を無くしてソファーで傷心のまま眠っている人に対して"なんだい、これ"なんて言わないと思う──本人を目の前にしたら言える訳もない話だけど。
だから、そんな彼があんなに和やかに会話しているところなんて見たことがなかった。電話の相手は友人なのだろうか、いや待て、前にも仕事以外の電話をしているところは見たことがあるが、あそこまで柔らかい雰囲気じゃなかったと思う。ならば、何故。
一、電話の内容がよっぽど良いことだった。いやいや、相手はあのスティーブンだ。よっぽどのことじゃないと喜ばないし、浮かれないと思う。例えばスポンサーが増えた電話とかだったら、それなりに喜ぶだろうが。やめよう、想像するだけ虚しい話だ。
一、電話の相手が良かった。これは、どうだろう。見るからに仕事の電話ではないが、それにしたって、なんか花が飛んでそうなもので。ザップが狙っている女性に電話している時ほどひどくはないが、それでもいつもと雰囲気が違い過ぎる。観察を続けてみると、やっぱり楽しげで、嬉しげで、今まで見たことのない表情だった。
「うん、先に寝てていいよ。明日は一緒に食べよう」
先に、寝てて。
これは、考えたくはないが、やっぱり恋人相手なのだろうか。家族と暮らしているなんて話は聞いたことがなかったし、そう考えると行き着くところは同じで。へー、スティーブンさんでも恋人相手ではあんな風になるのかぁ。なんて、出歯亀根性丸出しで覗いていたのが悪かったのだろう。
「うん、それじゃあ──愛してるよ、
とんでもないものが来た。爆弾だ、これは間違いなく爆弾だ。部屋どころかマンションがひとつ吹っ飛びそうなくらいの爆弾だ。流石伊達男、いつもザップが言うような紙っぺらのように薄くて軽いものとは訳が違う。自分が言われた訳でもなかったが─そもそも女の子が大好きです─妙にズドンと来たのは正直な話で。これは、たまんないだろうな、と思う。だって、あんなにスマートで、男から見ても良い男で、仕事は出来るし、強いし─ちょっと怖いけど─もう自分と比べると悲しくなるくらいのザ・モテ男のスティーブンがあんな柔らかくて甘くて愛しそうに、愛してるなんて。
本当に好きなんだな、と思った。たった一言で、と思うかもしれないけれど、それくらいの破壊力はあったし、あんな顔で、あんなに甘く囁くなんて。もし違うんだとしたら彼はきっと稀代の詐欺師になれる、そう思えるくらいのものだった。聞いたこっちが恥ずかしくなって、若干顔が熱くなるくらいにはすごいものだった。
こちらの動揺を余所にいつの間にか電話が終わったらしく、彼が颯爽とこちらに向かってくるから慌てて給湯室に戻る。執務室に向かうには給湯室を通らなければいけないのだ。ヤカンを見ると、自分と同じく沸騰寸前だったので火を止めた。いやしかし、すごいものを見てしまった。今後顔を見る度に思い出してしまいそうだなぁ。なんて思っていたら、
「お、少年。コーヒーかい?」
と、話しかけられてしまったから困ったもので。さっきの甘さは一体どこへ行ったんだろう、すっかりいつも通りの余裕綽々なスティーブンだった。
「少年?」
「あ、はい!コーヒー淹れてます!」
「見ればわかるよ」
冷たい物言いだったが、表情は柔らかい。それはさっきの電話のせいなのか、それともいつもこうだったのか、今の自分には思い出せない。
「じゃあ僕のも頼む。待ってろ、今カップ持ってくるから」
涼しい顔して執務室に向かう背中をぼんやり見送って、一人になったところで大きく息を吐く。
上司の意外なところを見てしまった、勿論良い意味で。ただこれは誰にも話せそうにないな、と思う。ソニック辺りにならちょっと溢しても大丈夫だろうか、いやいやあいつは賢いから何かしらのアクションを起こしてしまうかもしれない。やっぱり心に留めておくべきか、と思いつつも、留めておくにはあまりの衝撃だった。改めて恋っていうものはそら恐ろしくて、やっぱりすごいものなんだな、と痛感した日だった。


少年は見た!

17/10/18