人を、殺したことがある。
もう数えるのも馬鹿らしいくらい、殺したことがある。それは血界の眷属だったり、異界人だったり、本当にただの人間だったり様々だった。
牙狩りの頃から足を引っ張ろうとするタイプの人間は絶えなかったけれど、それらを全てねじ伏せてただがむしゃらに生きてきた。
気の置けない友人も出来た。
背中を任せられる仲間も出来た。
でも時々、ほんの一部に裏切られてしまうこともあった。裏切りを許せるほど聖人でもなければ、人間が出来ている訳でもないし、何より世界を守るためにもそういう連中を呆気なく殺した。
傷つかない訳じゃない、何故と思わない訳じゃない、でも真実を知っていて世界を、仲間を、何より自分を欺いて利益のためだけに走る奴らが何より許せなかった──裏切った彼らには、彼らなりの正義があるのだろうけれど。
何のために人を殺すのか、と問われれば、世界の均衡を守るために他ならなかった。勿論、正当防衛という答えも出来るが、結局のところ最後は世界の均衡を守るためだけに戦っているようなものだった。牙狩り時代も、ライブラを設立した今もそれは変わらない。昔は一体、何のために戦ってるんだろうなんて悩んだこともあった。そんな青臭い悩みも、今はもう思い描くことはなくなっていた。
「俺はね、多分地獄に落ちると思うんだ」
本音を漏らすと、ぱちぱちとまばたきを繰り返す彼女は、手に入れることはないと思っていた大事な人だった。
裏切り者も、敵も散々殺してきた。仲間だって作戦ミスで殺したことがある、ことヘルサレムズ・ロットになってからは防具も武器も進化していく一方だから数は限りなく少なくなっていたけれど。
そんな自分が、まさかこんなものを手に入れるとは到底思っていなかった。最初は蓋をしていたと思う。彼女と自分は生きる世界が違う、潜って来た人生があまりにも違い過ぎる。例えるならば決して交わることのない平行線、どこまで行っても二人が繋がることはないと思っていたのに。気が付いた時にはもう駄目だった、絶対に手に入れたいと思っていた、死ぬ時は一緒が良いなんて、陳腐なことさえ思い描くくらいには彼女に惚れていた。
異界と交わったこの街に、ただ住んでいたからという理由だけで暮らし続ける彼女はきっと結構芯が太い人間なのだと思う。護身術だって大して身についていないだろうに、よくこの街で平穏に生きていけると感心してしまう、一応、護身用に銃は持ち歩いているらしいが、ただの銃ならばこの街ではほとんど意味を成さない。
偶然に彼女に出会って、偶然に偶然が重なって再会を果たして、友人と呼べるべき関係になった時に気付いたものは自分が持つにはあまりにも相応しくない感情だった。だってそうだろう、片や平凡に暮らす一般市民、片や常に死と隣り合わせの男。どう考えたって不釣り合いだ、改めてやっぱり平行線なんだなと痛感する。
「地獄、ですか」
きょとんとしたまま繰り返す彼女は、ありふれた日常を過ごす人だった。多少職場に難はあるものの、極々平凡に日々を生きている。勿論、誰かを死に至らしめたことなどないのだろう。それに比べて、自分は──やめよう、考えるだけ虚しくなるだけだ。
「そう、地獄」
「はぁ」
気のない返事だったが、彼女なりに考えているらしい。むー、と唸る姿は年齢に比べてみると幼く見えてひどく可愛かった。彼女の表情はくるくるとよく動く。本人は隠しているつもりなのかもしれないが、存外顔によく出るタイプだったから、機嫌が良い時はすぐにわかる。そんな駆け引き慣れしていないところも、彼女の魅力のひとつだと思う。
そう、彼女は今まで出会った女性とは全く違ったタイプだった。平凡で、どこにでもいるような人間。それなのに、愛情深くて、困ってる人を放っておけないような絵に描いたような善人だった。自分とは正反対な人間だ、と出会ってすぐに思ったことが懐かしい。それくらい、時間を共に過ごしたのか、と考えて嬉しくなる。
「俺はね、悪い人だから」
彼女といると、自分が善人にでもなったような感覚に陥るが、本質的には変わらない。正義はある、大義もある。でも、だからと言って善人かと聞かれれば、答えは否だ。
「多分、死んだら地獄に行くんだよ」
君と違って。
地獄があるかどうかわからないが、あるとすれば間違いなく地獄行きだ。突き詰めてしまえば、結局彼女とは別れる運命にあるのかもしれない。そりゃあ生きている間は離すつもりはないが、彼女が死んだら、自分が死んだら、否応なしに別れることになるだろう。死が二人を別つ時まで、なんて本気で思う日が来るとは微塵も思っていなかったけれど、死後の世界があるとしたらきっと彼女とは一緒に居れないだろう。
眉根を顰める彼女は、今何を思っているのだろうか。地獄なんて言わないで、だろうか。それとも死後の話がお気に召さないのだろうか。死があまりにも身近にあるから考えたこともなかったけれども、彼女は人はいつか必ず死ぬことを考えるのを良しとしないのだろうか。そうならば悪いことをしたなぁ、と思うが、言ってしまったものは仕方ない。早々に会話を切り上げて、別の話題でも探そうか、と思い始めた時。
「──多分、私も地獄に落ちると思いますよ」
全く予想外の答えが降って来た。多分、今自分はものすごく間抜けな顔をしていることだろう。あまりにも素っ頓狂な答えに、驚きを隠せなかった。
「なんで、君が地獄に?」
「だって、私そんなに善人じゃないです。普通に悪いこと、たくさんしてきたと思うし」
大小は、まぁ様々ですけど。
想定外の答えは、更に想定外のことを上乗せしてくるから困る。悪いことをしてきた?そんなまさかと思ったところで、彼女の口からつらつらと悪事が告げられる。
悪事と言ったところで、大したことはなかった。兄弟のおやつを独り占めしたとか、宿題をサボったとか、そういうほんの些細なこと。でもその数は案外多くて、彼女にそんな一面があるなんて思いもしなかった自分はただ驚きに目を丸くする他に為す術がなかった。
「私、聖女なんかじゃありませんよ」
がつん、と頭を鈍器で殴られたような感覚。突きつけられた言葉は、いつの間にか抱いていた幻想染みたものを容易に壊す。
「人を妬んだことも、憎んだことも、呪ったこともあります」
行動は、伴わなかっただろうけど。
「神様なんかになれやしません、勿論、聖人にも」
生きていく上で、どれだけの罪を重ねてきたことか。
「普通なんです、私も貴方も」
だから共に生きるのだ、と。真っ直ぐにこちらを見据えてきた彼女は、こちらの行いなど知らないくせにまるで見透かしたようにそんなことを言うものだから、思わず息を飲む。
「多分、大抵の人間は地獄行きですよ」
だから、と続けた彼女はふわっと微笑む。
「──地獄でも、仲良くやっていきませんか?」
まいった、どうも思い違いをしていたらしい。愛した彼女は自分と違って、平凡に生きてきたから清廉潔白できっと天国に行くものだと思っていた。でもそんなことはなくて、彼女は聖女なんかじゃなくて、普通の人間だったから。大小はともかくとして、生きていく上で自然に過ごしていたらそれなりに罪を重ねてきたのだろう。もしかしたら見ないように蓋をしていただけだったのかもしれない、線を引いてわかった振りをしていただけだったのかもしれない。
「…君って奴は」
笑いが漏れる。おかしいからじゃない、愛しいからだ。
「死が二人を別つ時まで、なんて陳腐なことを言うつもりないです」
「うん?」
「どうせなら、死んでも一緒が良い」
だから、地獄だろうがどこだろうが、一緒にいたいです。そう囁く彼女を、そっと抱き締めた。
言われてみれば、確かに人間生きているだけで何かしらの罪を重ねているのだろう。自分はそれが、多分人より多いだけなのかもしれない。だからと言って、これまでやってきた行いを正当化するつもりはない、確実にどんな人間よりも重い地獄が待っていることだろう。でも、そんな時も彼女が傍に居てくれるならば、そこは地獄なんかじゃなくて、天国に早変わりするに違いないのだ。


平行線はいつの日か交わるのか

17/11/1