始まりは、朝にトーストをかじった時だった。
「痛ぁ…」
そう唸れば、けらけらとおかしそうに笑っている人物が目に入る。それが愛しい恋人にする態度だろうか、前から思っていたけれど扱いがぞんざいなんじゃないだろうか。言ったところでどうせのらりくらりと躱されてしまうのは目に見えていたから、その思い全て包んで睨み付けることにする。しかしながら、そんな視線なんて物ともせずにスティーブンは笑っているから、全く腹が立つ。ちくしょう、今に見ていろ。
「大丈夫?」
笑い切ったところで満足したのか、ようやくこちらを心配するような言葉を投げかけて来た。そんなことされたってほだされませんからね、と思いながらも渋々、本当に渋々頷く。確かに問題はないのだ、多少食事がしにくいだけで。
「それにしても、口内炎なんて…あれだけヴェデッドや俺の料理を食べているのに」
ぐう。呆れたように言われてしまうも仕方がない、確かに毎日入り浸るようにこの家に帰って来ているから、自然と朝と晩は彼か、家政婦のヴェデッドの作る料理を食べている。彼らが作る料理はそれはそれは美味しくて、きちんと栄養バランスも考えて食卓に並ぶものだから自然と体型も変わってはきている、良いのか悪いのかは置いといて。それなのに、口内炎とは。
自分だって、理由が謎だ。口内炎の出来る理由の多くは栄養バランスの乱れだろうから、きっとそこから来ているのかもしれないけれど、最近は毎日ここに通っていたし特別何の問題もなかったように思えるのだが。
「あ、そういえば睡眠不足でもなるんだっけ?」
なんと、そうなのか。それならば納得だ、何せここ一週間ほどすっかり寝不足なのだ。それはライブラでの仕事がばたついていたり、恋人が中々寝かせてくれなかったりと理由は様々なのだが──いや、待て、そうなると原因の一端はこの人にもあるってことじゃないか。ジロリと睨んでみるが、どこ吹く風と言わんばかりの顔だからどうしようもない。
はぁ、と溜息を吐くと、いつの間にか顎に手が添えられていた。抗う理由もないのでそのままくい、とされるがままに上を向くと、
「口、見せて」
なんてのたまった。歯医者でもないのに、何故口の中を見せなければならないのか。そもそもあんぐりと口を開けた姿はあんまりにも間抜けだし、ぶさいくになるに違いないだろうから嫌なのだけれども。
「く、ち、み、せ、て」
無言の抵抗をしていると焦れたらしい彼は、にっこりと笑みを浮かべたままそんな風に言っていた。春風スマイルよりはずっと穏やかだったが、このままでいるとそれこそ強引に口を開けられそうだったし、何より怒られそうだったので、渋々、本当に渋々ながら口を開ける。
可愛らしく小さく口を開けたところで、もっと、と言われるのは嫌というほどわかっていたので、最初からがばっと開ける。そこに恥がないのかと問われれば勿論あるけれど、今は奥底にしまい込んで堪えることにする。
少し屈んで顔を覗き込むようにしてまじまじと口内を見つめられる。思いがけず近い距離にドキっとしてしまったのは内緒だ、全くいついかなる時もかっこいいっていうのも困りものだ。
「あー、ひとつ、ふたつ…3個か?よくもまぁこんなに作って」
半分くらいは貴方の責任なんですけどね。と言いかけて飲み込んだ、よしんば言ったところで口をあんぐりと開けている状態だからまともに通じるはずもない。
それにしても何故、どうして、一度にこんな大量に出来るのか。そんなに寝不足というのは身体に毒なのだろうか、何もしていないのにこれとは全く神様って奴も意地悪なことこの上ない。
「舌にも出来てるな、これは飯食うのも辛いだろ」
こくこく、と無言のまま頷くと、苦笑を滲ませた彼はそっと顎から手を引いた。解放されたところですぐさま口を閉じて、舌先で場所を確認する。歯茎にひとつ、上顎にひとつ、そして彼の言う通り舌にもひとつ。当然だが確認と同時に痛みが走るから、思いっきり顔を顰めたら、宥めるようにして頭を撫でられた。子供扱いされている気がするが、今はその優しさがとてつもなく身に染みる。心が弱っているのだろうか、口内炎ってこんなに辛さを感じるものだっけ。
「まぁ、しばらくは大人しく我慢するしかないな」
「うぅ…」
その通りだったが、この痛みがそれこそ三日くらいは続くだろうことを思うと気が重い。その三日間は間違いなく、食事は痛みを伴うだろうし、そもそも三日で治る保障もない。取り敢えずビタミン剤でも飲もうか、と考えたところで、ふと、あることを思いつく。
「…そういえば、こんなんじゃキス、出来ませんね?」
そう、少し触れただけでこんなに痛いんだからキスなんか出来るはずもない。そりゃあ唇を合わせるだけだったら問題ないだろうが、そんな子供騙しのような口付けで満足出来るほど幼くはなかった。
「…確かに、出来ないね」
きょとん、と目を丸くしてから、彼は神妙な面持ちで頷く。たかが三日と思うかもしれないが、されど三日である。恋人になってから久しいがスキンシップのひとつとしてキスは欠かせないものになっていた。そりゃあお互いに成人しているから馬鹿のひとつ覚えみたいに所構わずしている訳ではないが─そもそもライブラの構成員には、まだそういう仲だと宣言していない─だからと言って、全くしないかと言われれば答えは否で。
「…」
「…」
沈黙が走る。そりゃあ我慢出来るかと言われれば、大人だから我慢出来るだろうけれど、それでも、なんというか寂しいと思うのは仕方がないことで。チラリ、と視線を彼に戻すと、眉尻を下げて困ったように頬を掻いていた。彼も同じ気持ちなのだろうか、そうだったらどれほど嬉しいことか。ところが彼は、ふぅと一息吐くとすっかりいつもの調子に戻ってしまった。
「まぁ、仕方ないか」
仕方ない、確かに仕方ないことなのだろうけれど、そうあっさり言いきられてしまうと、切ないものがあるのも確かで。欲しがっているのが自分だけみたいで、ものすごく恥ずかしくなるのと同時に寂しくなる。
そんなこちらを知ってか知らずか、彼はぽんぽんとあやすように頭を撫でて、
「さぁ、とっとと平らげて事務所に行こう」
なんて言い出すから、余計に寂しくなったから黙ったままご飯を平らげた。味は勿論美味しかったが、痛くて痛くて堪らなかった──それは口内炎なのか、それとも心なのか、誰にもわからないけれど。



:::


時は過ぎて口内炎が出来てから丁度三日経ち、まだ痛みはあるものの、刺すような痛みは和らぎつつあった。お蔭でご飯時も苦虫を噛み潰したような顔をせずに済んでいる。
しかしながら、このところ、スティーブンと一緒にいることはさっぱりなくなってしまった。否、一緒にはいる、帰りも相変わらず彼の家に入り浸っているし、寝る時だって一緒だった。だが、彼からのスキンシップはとんとなくなってしまったのはまぎれもない事実で。いつもだったら、二人っきりになったらそれなりに触れ合ったり口付けをし合ったりするのに、それがない。そりゃあ、今は口付けが出来ないが、それでも何かしらあっても良いんじゃないだろうか。
寝る時だって一緒ではあるものの、すぐに背中を向けられてしまう。勿論、身体を重ねることもない。確かに付き合い始めてから肌で触れ合うようになるまでにはものすごく時間が掛かった、でも一度触れ合ってしまえば後はもうなし崩しで。流石に毎晩求められることはなかったけれども、だからと言って全くしないこともなかった。仕事が忙しい訳でもない、二人の時間が取れない訳でもない、ならば何故。考えても考えても答えは出なくて、それでも距離を置くことはしたくなくて、半ば意地になって彼の家に通い続けていた。
「そろそろ寝ようか」
そう言ってソファから立ち上がろうとする彼の腕をぐい、と引っ張る。勿論成人女性の平均程度しか腕力はないから、逃れようと思えば逃れられるだろうけれど、スティーブンはそうしなかった。すとん、と座り直して、うん?なんて緩く首を傾げてくれるから、嫌われたとかそういうことではないことだけはわかって心底安堵した。この人は案外非情な人だから、いらないと思ったものにうだうだと愛情を注ぐような真似はしないのだ──それもある種、優しさなのかもしれないけれど。
「どうかした?」
質問には答えず、こてん、と彼の肩に頭を乗せる。ついでにするりと腕に抱き付いて、あまり豊満ではない胸を押し付けるようにして引っ付いた。甘えている、と言われればそうなのかもしれないが、これでも自分なりにスキンシップを図っているのだ。経験があまりないから、これ以外に方法が思いつかないし、ザップに教わった方法は試そうにも勇気が出なかったのでやめた。
抵抗することなく、されるがままになっている彼をちらりと見ると、曖昧に笑っていた。それがどういう感情から来るものなのかさっぱりわからなかったが、どうやら嫌がられていないらしい。ならば、もう少し攻めてみるのも良いかもしれない、と思い立ってすりすりと身を寄せた。久し振りのぬくもりに浮かれていたと言えば、そうかもしれない。
、」
名を呼ばれて顔を上げると、すっかり困惑したような面持ちの彼が目に入った。明確ではなかったけれど、それは、拒絶に違いなかった。
「ごめん、なさい」
困らせた、と思うが早いが謝罪を口にする。慌てて離れたが、やってしまったことはもうなかったことには出来ないし、時間は巻き戻ってくれたりなどしないのだ。
俯いて、膝元をぎゅっと掴む。悲しいというよりは苦しかった。あんな顔をさせたくて、した訳ではなかった。そりゃあいつも通りにスキンシップを取りたかったけれど、困らせるつもりは毛頭なかったのだ。ズキズキと胸が痛む、怖くて顔が見れなかった。
嫌われただろうか、鬱陶しいと思われただろうか。いつだって大人な彼は優しかったから、意地悪を言っても、いつも最後は笑ってキスをしてくれたから、ついつい調子に乗ってしまったのかもしれない。
?」
名を呼ばれても顔は上げられそうになかった。じんわりと、目頭が熱くなる。こんなことで泣くなんて、と思うけれど、悲しくて苦しいからどうしようもない。
ごめんなさい、ともう一度言おうと唇を開いたその時、ふわりと頬を撫でられる。決して温かくはない指先は、これ以上ないくらいのぬくもりで、思えばこの三日間で初めて彼から触れてもらえたような気がする。
おずおずと顔を上げると、やっぱり困ったように眉尻を下げた彼は、でも確かに微笑んでいた。それは苦笑にも似たものだったけれど、瞳は驚くくらい優しいものだった。
「嫌だった訳じゃないよ」
囁きは柔らかく、彼の言葉が真実であることを物語っていた。
「ただ、我慢が効かなくなるから」
ちょっと困っただけ。
苦笑を滲ませてそう呟く彼はどこか気恥ずかしそうで、涙の滲んだ目元を親指の腹で優しく拭ってくれた。
我慢、とはどういうことだろう。考えれば考えるほど自分にとって都合の良いことしか思い当たらなくて、でもまさかそれが真実だなんて思えなくて、今度はこちらが困惑してしまった。
そんな姿を見て、少しだけむくれたような顔をした彼はすぅと背中を丸めて顔を近付けてくる。相変わらず良い男だなぁ、なんて見惚れていると、額がこつんと合わさって鼻先がつんと重なる。触れるか触れないかのところで、彼はぴたりと動きを止めた。
「──キスしたら、君が痛いだろ?」
「へ?」
「触れたら、したくなるじゃないか」
当然だろう、なんでわからないの。
と、言わんばかりの顔はいつもより子供っぽく見えてひどく可愛らしかった。
彼の言葉を反芻しながら、段々頬が熱くなるのを感じる。つまり、彼は、こちらを気遣っていたということで。一度触れ合ってしまえば我慢が出来なくなる、だからこの三日間何もしなかった、とそう言いたいのだろう。
嬉しい、と思うのは気遣ってもらえたからではなくて、彼も同様に求めていてくれた事実で。だって、この恋の始まりは、ずっとこちらが思うばかりだったから。そうじゃないと知り始めたのは最近だけれども、それでも実感というものはあまりなかった。だからこそ、今、この上なく嬉しい。
嬉しくて、堪らなくなって、そっと自分から唇を合わせる。触れるだけの、子供染みたキスだった。けれど、彼を動揺させるには充分だったらしく、憮然とした表情で咎めるような視線が飛んで来る。
「…君ね、せっかく俺が我慢してるのに」
「良いんです」
彼の言葉を遮って、もう一度口付ける。存外柔らかな唇は、この三日間ずっと我慢していたもので。
「痛くても、いいの」
そう呟くと、彼は蘇芳の瞳を丸くして、それからはぁ、とひとつ溜息を吐いてから、
「痛くて泣いたって、止めてやらないからな」
なんて、囁いてから唇を重ねてきた。久し振りのキスは、甘くて、少し痛くて、でもこの上なく幸せなものだった。


痛くてもいいよ

17/11/8