それは、突然のことだった。
「おかえりな──」
ぼすん。
最後まで言葉を紡げなかったのは、数日ぶりに会う恋人が帰って来るやいなや抱き付いてきたから。いや、抱き付くというよりは覆いかぶさるという方が正しいかもしれない。ソファにのんきに座っていたら、突然そんなことをされたから驚くなという方が無理だろう。
「スティーブン、さん?」
すっかり彼の胸に押し付けられてしまった顔をなんとか救い出して呼んでみるけれど、やはりというかなんというか、当然のように応答はなかった。
肩口にすっぽり埋まった顔は、きっと疲れているのだろう。そうでなければ普段、嫌になるくらい大人で冷静な彼がこんなことをするはずがない。詳しいことは知らないけれど、しばらく職場に缶詰めだということだけは聞いていた。それが終わったから帰って来たのだとは思うが、何も言わないので真相はわからない。まぁ、いくら疲れているからと言って仕事を放り出すような人ではないから、きっと上手いこと片付いたのだろう。
そうだ、労いを込めて今から彼のためにご飯を作ろうか。そう思ってもぞもぞと身体を捩っていたから、不意にぱっと身体が離れた。しかし肩が掴まれているから動きようがない、取り敢えず彼の顔を見てみると、疲れ果てたということがありありとわかるだけだった。
こんな様子じゃがっつりとしたものはやめておいた方がいいかもしれない、どうせなら胃に優しいものが良さそうだ。冷蔵庫の中には何があったっけ、なんて考え始めたところで、不意に彼が動き出す。掴まれていた肩は解放されたが、今度は腕を掴まれる。ぐいと引っぱられて、力に逆らうことなく、そのまま立ち上がった。勿論それで終わりじゃない、腕を掴んだままずんずん彼が歩き出したから引かれるままに歩く他に術などないのだ。
そうして辿り着いたのは寝室だった。家政婦のヴェデッドがきちんとベッドメイキングしていてくれたお蔭で、シーツは見た目にもぱりっとしていて寝転がったら心地よさそうだった。勿論、寝室に来たからと言って彼の行動が止まることはない。ベッドの近くまで来たところで腕が解放されたかと思ったら、乱雑に靴を脱ぎ、上着も脱ぎ捨てた。あ、寝るのかな、と気付いた時にはもう遅くて、また抱きしめられたな、なんて思っていたら勢いのままにそのままベッドに倒れ込んだ。
痛みはない、びっくりするくらい大きいこのベッドは、やっぱりびっくりするくらいマットレスが良いから、一人や二人が飛び込んだくらいではびくともせずにその柔らかさで迎えてくれるのだ。顔を上げると、こちらをぎゅうぎゅう抱きしめながら瞼を下した彼が目に入る。なんだこの状況。
「スティーブンさん?」
「…疲れた」
でしょうね。そんなことは一目見ればすぐにわかった。
「だから、おやすみ」
はい、おやすみなさい。って、ちょっと待ってくれ。
寝るのは彼だけで十分だろうに、背中に回った腕がしっかりと身体を拘束しているから逃れることが出来ない。一体どうしてこうなったのか、よしわかった、少し整理しよう。
スティーブンはとにかく疲れていて、シャワーを浴びるどころかご飯も食べる間を惜しんで眠りたいらしい。そこから考えてこの状況を冷静に分析してみると、要するに抱き枕になれということなのだろう。なるほど、疲れている時はひと肌恋しくなるものかもしれない。
そういうことなら、任務を全うする他に術はないだろう。シャワーも浴びてないし、ご飯もまだなのはこちらも同じだったが、こんな風に甘えてくれる彼を手放すなんて土台無理な話だった。以前、彼は余すことなく疲れはてた自分を甘やかしてくれた、だったら今度はこちらの番だ。
取り敢えず履いたままの靴をなんとか脱ぎ捨てたい、だが身体はがっちりと抱き締められているからどうにもこうにも動けそうになかった。
「スティーブンさん、靴、靴」
そう告げるとまだ完全には熟睡してないのか、ほんの少しだけ腕を緩めてくれた。それを上手く利用して、なんとか靴を脱いでベッドの下に落とした。一応揃えられていた彼の靴と違って、多分あっちこっちに散乱しているだろうけど、背に腹は代えられない。それからもぞもぞと身体を捩って戻り、彼の顔を眺めることにする。
いつもだったらない無精髭に、乱れた髪、そして隈のある目元。本当に疲れているのだろう、すぅすぅと健やかな寝息を立てている姿は、何とも言えない。
しかし、これだけ悪条件が重なっているのに、その顔つきはというとやっぱり端正だ。少し悔しい、伊達男は結局何をしたって伊達男のままなのだ。でも、そんな伊達男でいつもスマートな彼の油断しきった顔を見れるのは、多分、自惚れでなければ恐らく自分だけで。
思わず顔が弛む、あぁ彼が寝ていてよかった、こんなだらしない顔を見られたら恥ずかしくて顔が見れなくなりそうだ。前髪を指で払って、剥き出しになった額に口付けを落とす。祝福のキスだ、なんて大仰なことを言うつもりはない。願わくば、彼に心からの安眠を。そして、彼の腕の中で眠るのをお許しください。



:::



目が覚めると、スティーブンはまだ夢の中だった。疲れ切っていた顔は少しはマシになったようで、ほっと安堵の息を漏らす。もぞもぞと身体を動かしてサイドテーブルに置いてある時計を確認すると、いつもより2時間ほどはやく起きてしまったようだった。昨日はいつもよりもはやく眠ったから、まぁこの時間に起きるのが妥当だろう。もう少し寝ようか、と思ったが、シャワーも浴びずに眠ったことを思い出すと、そろそろ起きて準備する方が良いとも思う。
そーっとそーっと、腕を外して起き上がる。普段だったらそんなことをしようものなら、彼の手によってすぐに腕を掴まれてベッドに逆戻りするのが常だったけれど、今日はまだ昨日までの疲れが尾を引いてるらしく、健やかな寝息が途切れることはなかった。起き上がる時と同様にそーっと、そーっとあちらこちらに散っていた靴を履いて寝室を出る。何せ気配に敏感な彼だから、少しの物音で起きてしまうのだ。まぁ今日は大丈夫だろうけれど、それでも油断は禁物だ。
寝室を抜けてしまえばこちらのもので、一人で住むには明らかに大きい部屋であるここは勿論壁も厚いのでちょっとやそっとの物音は他の部屋に響かないのだ。ダイニングに降りて、水を飲む。喉が潤うと、なんだか気分もすっきりしてくるから不思議だ。さて、シャワーを浴びて、食事の用意でもするとしようか。
そう思った矢先、ドタドタとけたたましい足音が耳に届く。振り返ると、ぼさぼさの頭をそのままに彼がこちらに向かっていた。
「おはようございます、スティーブンさん。水、飲みます?」
随分起きるのがはやいなぁ、やっぱりさっき起こしてしまったのだろうか、なんて思いながら、冷蔵庫からもう一つ水を取り出そうとして彼に背中を向けると、後ろから腕が伸びてきた。ふわり、といつもより強い彼の匂いが鼻腔を擽る。どうやら抱き締められているらしい、と思う前に耳元に寄せられた唇が囁くようにこんなことを言う。
「──なんで、いないの」
不貞腐れたような、子供染みた言葉。
「せっかく朝起きたら、一番に顔が見れるようにしてたのに」
なるほど、昨日の行動は全てその為だったのか。
そんなことを言われてしまうと、申し訳ないと思う気持ちがむくむくと湧いて来るが、それよりなにより心を占めるのは嬉しいという感情で。
だって、あの伊達男が、完全無欠のスティーブン・A・スターフェイズが朝一番に顔が見たいからという理由で、強引にベッドまで連れて行くなんて。そんな風に甘えられて嫌な女がいるだろうか、いるんだったら顔を拝んでやりたいくらいだ。生憎とそんなに冷静でもなければ理性的でもないから、思いっきり口許を弛めて振り返る。唇を尖らせて、不満をありありと表に出してる彼にそっと唇を寄せる。
触れるだけの唇に、ほんの少し機嫌が良くなったのか、それとも意表を突かれたのか弛んだ唇にまた口付ける。一度、二度、三度。それから顔中に口付けようと背伸びをしたところで、慌てたような声が飛んでくる。
、あの、どうしたの?」
そんなこと、わかってるくせに。
「ご機嫌取りを少々」
いつも貴方がすることですよ。と言外にそう告げると、うっと言葉を詰まらせた彼は困ったように眉尻を下げた。そう、これはいつも彼がやる常套手段だ。こちらがもうどうしようもないくらいに溺れていることに気付いている彼は、いつだって宥めるように口付けて全部どうでもよくしてしまうのだ。彼がやるほどに効果があるとは思わないが、それでも存外効き目はあったようで。
「…君、どこでこんなこと覚えてくるの」
憮然とした表情は、それでも少し嬉しさを孕んでいるようだった。そんなの、貴方以外の誰がいるっていうのか。
「お蔭さまで、日々成長してるんです」
ふふ、と笑みを零すと、やれやれと言わんばかりに息を吐いた彼が唇を重ねてきた。どうやら機嫌は治ったらしい。
「おはようございます、よく眠れましたか?」
「おはよう、君のお蔭でぐっすり熟睡だよ。起きた時はびっくりしたけど、ね」
うーん、宥められてはくれたが、根には持っているようだ。中々どうして、彼のように上手くは行かなかったらしい。それは男の意地なのか、それともただこちらが単純なだけなのか。
唇を離したところで、こつんと額が合わさった。目元の隈はまだ健在だったが、昨日のように瞼は重くないようだ。どうやら少しくらい疲れは取れたらしい、もう若くないよと彼はよく言うけれど、実のところはまだまだ現役らしい。彼より少し若いはずなのに、昨日の疲れが残りやすいのは単に鍛えてないからだろうか。今度、何かスポーツでも始めてみようか。あぁでもそれにかまけて彼と過ごす時間が減るのは頂けない。
「何考えてるの?」
「いえ、何も」
「嘘吐き」
ちょっとした考え事なのに、そんなことを言われてしまうとは心外だ。また機嫌が悪くなったら困るなぁ、なんて思いながら、実際彼がそんなに大して機嫌を損ねていないことはなんとなくわかっていた。多分、甘えられているのだろう。普段冷静で、スマートで大人な彼がこんな風に子供っぽくなる姿を見せてくれるなんて、幸せにも程がある。だからこそ、これ以上ないくらいに甘やかしてやりたいと思うのは当然のことで。
手を伸ばして頬を撫でる。生えっぱなしの髭がちくちくと存在を主張しているけれど、これはこれで悪くない。あやすような行動に、彼は怒るどころか目を細めて笑っていた。
「髭、珍しいですね」
「剃る暇がなくてね、今日剃るよ」
「あ、シャワー浴びます?先どうぞ」
気遣って言ったつもりだったが、彼は少し考えるようにうーんと唸る。少しして、とびっきり良いことを思いついたと言わんばかりに顔を綻ばせて、耳元に唇を寄せてこう囁くのだ。
「──せっかくだから、一緒に入ろうか」
甘い甘い、誘い。悪戯っぽく、片目を瞑ってみせた彼は、冗談を装っているけれど間違いなく本気で言っている。もし断ったところで、あれよあれよという間に言いくるめられるか、もしくは横抱きにされて強制的にシャワー室まで行く羽目になるだろう。
だったらもう、返す言葉はひとつしかないのだ。
「洗いっこでも、します?」
目を細めて、嬉しそうに笑った彼が、そうこなくっちゃと言うが早いが、ふわっと横抱きをしてそのままにシャワー室へ向かった。結局断っても受け入れても横抱きにされるんだから、少しぐらいごねて彼を焦らしてもよかったかもしれない。あぁ、でもこんな風に鼻歌混じりで歩く彼が見れたんだから、やっぱりさっきの言葉で正解だったのだろう。
直前になって、一緒にシャワーを浴びることが途端に恥ずかしくなり、脱衣場ですったもんだの押し問答を繰り広げて、時間と彼に追い詰められるのは、また別のお話。


きみがいなくちゃ話にならない

17/11/15