驚いた。まさか、こんなことが起こるなんて。
仕事が滞りなく終わり、さて帰るかと残っている同僚や先輩、上司に挨拶してロッカールームに向かった。そこには何人か違う部署の女性がいて、軽く挨拶してからガチャっとロッカーを開けたら目を丸くする事態が起きる。掛けてあったコートに、枯葉が付いていたからだ。ところどころ砂が付いているから、多分きっと落ち葉なのだろう。生憎と今日は外回りをすることもなかったので、朝からずっとこのコートはここにいたはずだった。それなのに。
一体どうしてこんなことに。答えは意外とすぐにわかった。くすくす、と笑い声が聞こえたからだ。ばっと振り返るとすぐにシーンと静まりかえるロッカールーム。なるほど、どうやらそういう訳らしい。
違う部署だということしか知らない間柄だというのに、何故か彼女達から嫌がらせを受けたようだ。まぁ何かされるということはこちらも何かしらしてしまった、ということなのだろうけれど、それにしたってまさかこの歳でこんな目に合うとは到底思ってはいなかった。とはいえ、犯人がわかっていようがやることには変わりない。出来るだけそっとコートを取り出して、近くにあるゴミ箱の上へ持って行く。パンパンと落ち葉やら砂やらを払ってから広げてみたが、残念ながら今朝のように元通り、とはいかなかった。まぁ仕方ない、そもそもギリギリ出社になったからといって鍵を掛け忘れたこちらも悪いのだ。それに、もうじき季節が変わる、そろそろクリーニングに出そうと思っていたから結果オーライというところだろう。バサッと羽織って、適当に身支度をしてから扉へ向かう。着ていかない選択肢もあったが、流石に寒いだろう。ふと、犯人であろう彼女達と目が合う。反応を見たいのだろうから、そりゃあ自分が見たら目が合うのは当然だ。
「お先に失礼します」
にっこり、といつも以上に愛想良く笑顔を作って挨拶をする。気圧されたのか、それとも一応礼儀としてなのかわからないけれど、目を丸くしながら挨拶を返した彼女達に軽く頭を下げてロッカールームを後にした。
取り敢えず今後の対策として、鍵をきちんとかけることにしよう。いくらなんでも鍵を壊してまで嫌がらせをしようとは思わないだろう、お互い良い大人な訳だし。いや、そもそも大人だったらこんな嫌がらせしないのか?なんて思いつつも、流石に社内の鍵が壊されたとなれば問題になるだろうし、ことが大きくなるのは彼女達も望まないことだろう。出口へ向かっていると同じ部署の先輩とすれ違う。案の定、コートの汚れ具合を指摘されたが説明するのも面倒だったので、曖昧に笑って誤魔化した。そそくさと会話を切り上げて、さくっと帰ることにする。家の近くにクリーニング店は一旦帰ってからでも間に合うだろうか。もうそろそろ季節が変わるとはいえ、流石にこの寒空の下にコートなしで挑むほど馬鹿ではなかった。それにしても、今日はスティーブンと会う予定がなくてよかった。彼にこんなみすぼらしい格好を見せる訳にはいかないし、新調しようにも給料日前という今の懐具合では少しきつい。
と、思っていたら。
「やぁ、お疲れ──どうしたんだい、それ」
正面玄関を出て、帰り道を急ごうとしたところ、見慣れた車に見慣れた人が片手を上げてそんな風に声を掛けてきた。
「スティーブンさん?ど、どうしたんですか?」
確か、今日は連絡がなかったと思っていたけれど。
「仕事で近くで来ててね、今日はもう解散ってなったから、じゃあせっかくだし君を迎えに行こうと思って」
メール入れたはずだけど、見てない?
言われてみれば、コートの衝撃が大きすぎて携帯電話を確認するのをすっかり忘れていた。慌てて確認すると、なるほど、確かに彼からの連絡が30分前に入っていた。しまった、こんなことなら明日に回した仕事を残業して片付ければよかった。そうすれば、こんな姿を彼の前に晒すことにはならなかったのに。
「で、どうしたんだい?それ」
当たり前の質問が痛い。視線を逸らすと、名を呼ばれて逃れられないことを知る。それでもやっぱり口にするのはなんだか恥ずかしい、だってそうだろう、仮にも大人なのに職場で嫌がらせを受けました、なんてあっけらからんと言えるくらいだったらそもそも先程犯人をとっちめられたはずだ。
「外回り中に、何かあった?」
心配そうな声色に視線を戻すと、その顔はあまりにも真摯なもので。仕事内容を細かく話していないとはいえ、たまにおつかい程度の外回りがあることは伝えていたし、そもそも以前、不幸な偶然により"仕事中"の彼と遭遇したこともあったから、多分そこら辺を危惧しているのだろう。何せ、ここは何があっても不思議じゃない街だから、そういう意味でも心配なのかもしれない。
慌ててブンブンと首を振ると、じゃあなんで?と言わんばかりに首を傾げられた。ぐう、可愛い。伊達男のくせに仕草が可愛いとは何事だ、これが狙っているんだとしたら相当だと思うけれど、彼のことだから恐らく素のままだ。そりゃあ多少、こうしたら女性が喜ぶ、ということは知っていそうだけど。ベタ惚れな自分はこういう時に上手く誤魔化したり、嘘を吐くことが出来ない。彼の蘇芳の瞳に見つめられたらもう何もかも全部素直にぶちまけてしまいたくなるからだ。
そんな訳で、呆気なく口を割ると、全部聞き終えてから彼は呆れたように肩を竦めた。気持ちはわかる、自分だって同じ気持ちだ。
「…災難だったね」
いや、本当に。
「まぁ、別に気にしてないからいいんですけど」
しいて言うならクリーニング代が少し値が張りそうで嫌だなぁ、というくらいで。そう、実のところ、驚きはしたけれど大して傷ついていない。どちらかというと、こんなことを良い歳した大人がすること自体に驚いている。だってそうだろう、ティーンだらけの学校でもない、れっきとした社会人がまさかこんなことをするなんて。よっぽど腹に何か据えかねたことがあるんだろう、原因は何かしら自分にあるにしろ、心当たりがないのでどうしようもないけれど。全く、こんな回りくどいことをするくらいなら直接言ってくれればいいのにな、と思う。そうしたら何かしら対処が出来るのになぁ、なんて思っていたら、不意に伸びてきた指先が頬を撫でる。
「な、なんですか?」
こんな街中で、しかも一応職場の前でこんなことをする人ではないのだけれど。
「どうか、しました?」
尋ねると、ふっと微笑んでゆるく首を振った彼は、手を引いて助手席側の扉を開ける。促されるままに乗り込むと、自分で閉めるより先に彼が扉を閉めた。なんだか恭しい態度だ、いや元々彼は紳士的な男性だったけれど。
「今夜は君のことを目一杯甘やかそう」
運転席に乗り込んだスティーブンは、そんなことを呟く。驚いて目を丸くしていると、微笑みを深くした彼はハンドルを握るより先にこちらの顎に手を掛けて、そっと口付けを落とした。
「スティーブン、さん?」
「気にしてなくとも、傷ついただろ」
それは、確信を持った言葉だった。ドキリとしたのが肯定の証拠で、自分でも知らない間にそうなっていたらしい。大きな驚き、戸惑い、そしてその中にひっそりと眠っていた気持ち。それをさっきの会話だけであっさりと見抜いた彼は、洞察力がすごいとかそういったレベルを超えている気がする。
「すごい、なぁ」
自分でも気が付いていなかった感情を言い当てられて、驚くより先に感心してしまう。どれだけ他人に目を配ればそんなことが可能なんだろう、そうして他人を慮って、気を遣って、疲れたりしないのだろうか。
だけだよ」
──こんなに、考えるのは。
こちらの考えていることなんて、全てお見通しと言わんばかりの答えに目を丸くした。それから彼の言葉を反芻して、じわじわと込み上げてくる嬉しさに口許が弛む。もうやめて欲しい、そんなこと言われたら勘違いして浮かれそうになってしまう。ただでさえ奇跡みたいな関係なのに、これ以上頭に乗るようなことを言わないで欲しい。と、いう気持ちと、もっと、もっともっととねだる気持ちも確かにあって。
いつの間に、こんな我儘になってしまったんだろう。面倒な女にはなりたくないのに、ただ隣を歩いていたいだけなのに。どんどん欲深くなっていく自分が恥ずかしい、それなのに彼はもっと素直になってと優しく甘やかしてくるのだ。
「スティーブンさん」
「うん?」
「…すき」
溢れ出す感情が上手く制御出来なくて、子供染みた言葉が出て来る。それなのに、彼は気分を悪くするどころか、嬉しそうに微笑んで、
「俺も好きだよ、
本当に愛しそうに言うから、あぁもう、溺れそうだ。



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余談だが、嫌がらせの犯人からは翌日謝罪があった。帰り際に会った先輩がロッカールームでブツブツと文句を言っていたところから発覚したらしい。理由はと言えば、恋人に振られたばかりなのに、仲睦まじく送り迎えをされたりしているのが気に入らなかったそうだ。多分、先輩は隠してくれていたのだと思うが、分不相応な容姿の所為もあるだろう。
「と、いう訳です」
「なるほどね、いやはや女性の妬みとは恐ろしいね」
「いやもう全く」
「まぁ、だからと言って、君を愛することはやめないけどね」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた彼は、だから多少は我慢してね、なんて笑って言った。言われなくとも、それくらい乗り越えてみせますよ。


ぜんぶお見通し

18/1/11