見慣れないどころか、実は持つのも初めてなくらいのそれを口に咥える。この時点では別に味はしない、まぁそりゃそうか、と思いながらコンビニで買った適当なライターで火を点ける。ボッと炎が出たので先端に近づけた、勿論息を吸い込むのを忘れずに。こうしないと火が点かないらしい、貰った際に近くにいたザップに聞いたから間違いない。似合わねぇと爆笑されたのも忘れていない、自分だってそう思うが他人に、よりによってザップに言われるとなんだか無性に腹正しくなったので脛の辺りを蹴ってやった。抗議の声は勿論無視だ、明日辺り慰謝料代わりに昼ご飯をたかられる気がしないでもないけれどそんなものはやっぱり無視するだろう。
煙が肺に入ってくる、それを自覚した次の瞬間、盛大に咳き込んだ。そして、すぐにあっはっはと笑い声が耳に届く。
「だからやめといた方がいいよって言ったのに」
煙草なんて。
優しい声音だったが先程思いっきり笑われたばかりだったので、なんとなく子供扱いされているような気がして素直に受け止められない。思わず恨みがましそうに見つめてみると、肩を竦められた。
「大体、誰にもらったんだい?そんなの」
「ダニエル・ロウ警部補、ですけど」
ふぅん。興味なさそうな相槌だった。
そう、この煙草はHLPDのダニエルからもらったものだ。ザップを連れてのおつかいの最中、偶然ばったり彼に出会った。そりゃあパトロールだの現場に急行だの色々あるだろうから、偶然会うこともあるだろう。現場に対して向かうことがない自分だったが、話には聞いていたので姿を見た途端にぴんと来た。どうも食えない相手だとか、中々頭が回るとか。
「ライブラのチンピラか」
顔の売れてるザップを見てそんなことを言う辺り、なるほど、噂通り肝が座った男のようだ。案の定、喧嘩を売られたと思ったらしいザップがぎゃあぎゃあ騒いでいたが、流石にザップと言えども手を出すほど馬鹿じゃない。まぁ、手を出したが最後、氷漬けになるのは火を見るより明らかだ。そういう制裁がなかったとしても、動物的本能でやっていいこととやってはいけないことのギリギリのラインは把握しているようだから─何故か女性関係ではそれが全く発揮されないが─ライブラとHLPDの持ちつ持たれつの関係くらいはわかっているのだろう、口は出すが手は一切出さなかった。それがわかっているのかどうなのか、ザップの言葉になんて耳も貸さずに手慣れた仕草で煙草を取り出した。失礼ながら、決して恋人のように何をしていても絵になる人だとは思わなかったが、その仕草の一連が何故か妙に惹かれて思わず目で追った。
「…あ?」
そうしたら、まぁ当然のような反応が返って来た。見知らぬ女、しかも世界の均衡を保つために日夜暗躍しているとはいえ、非合法組織の一員に凝視されたら誰だって訝しむだろう。逆の立場だったら勿論自分だってそうする、何なら物陰に隠れるくらいのことだってする。慌てて両手を挙げて首を振りながら、誤魔化すようにへらへらと笑って見せれば、鋭い視線はそのままに煙草に火を点けた。ザップがよく吸う葉巻とは違う香り、そういえば執務室によく来る面子に喫煙者はほとんどいないから、紙巻煙草を吸う人を見るのは随分と久し振りかもしれない。
息を軽く吸い込んで、咥えていた煙草を指で挟んで口から離し、ふーっと煙を吐き出す。たったそれだけのことなのに、何なら横に立っている男だってよくやっている仕草だっていうのに、なんだか妙に大人な感じがしてしまう。路地裏、という背景とレトロなトレンチコートがそれに拍車を掛けているのかもしれない。
無遠慮だとはわかっていながらも好奇心には勝てず、先程同様にじーっと見つめていると堪え切れないと言わんばかりにガシガシと頭を掻いたダニエルがずいっと何かを差し出した。視線を落とすと、そこには数本の煙草がケースの中に並んでいた。
「気になるんだろ、一本やる」
行動の意味がわからず首を傾げていると、ぶっきらぼうにそんなことを言われる。いやいやそんなつもりで見ていた訳ではないのだけれど。
戸惑ってケースと彼の顔を交互に見つめていると、焦れたらしい彼は一本手に取り、強引に渡してきた。思わず受け取ると、ふんと鼻を鳴らして背を向けて歩き出した。
「じゃあな、面倒起こすなよ」
去り際の台詞までもが、なんというか格好を裏切らないもので。思わず呆然と見送った、追い掛けて返すことも出来ずに。
「…ど、どうしよう、これ」
「いーんじゃね、くれるもんならもらっとけよ」
タダより高いものはないというのに、無責任にもそんなことを言うザップにうーんうーん、と唸りながらも今更追い掛けて返せるはずもないかと諦める。そう、今はおつかいの途中で、なるべくはやく用を済ませて帰らなければいけない。そんな言い訳をしながらも、掌にあるそれに言いようもない魅力を感じていたのは確かで。先程、ダニエルがしていたように人差し指と中指、そして親指の三本でフィルターの部分を持ってみる。そうして咥えようと口許まで持ってきたところで隣の男が吹き出した。
「似合わねぇ!」
そうして、今に至る。
「煙草なんて、百害あって一利なしだよ」
ご尤も。
スティーブンの言葉は自分でも思っていたことで、だからこそ今の今まで煙草を吸おうなんて思わなかったのだ。別に吸っている人を非難するつもりはないけれど、それでも切っ掛けもなければ興味もなかったから疎遠な人生を辿っていた。だけど。
じりじりと先端が灰になっていく。もう一度口許に寄せて、さぁ今度こそ、と思っていたらぐいと腕を掴まれた。目を丸くしている内に、指先で軽く持っていただけだったそれを奪われる。口許に寄せた煙草のフィルターを唇で食んで、軽く吸い込む。顔を少し背けて、唇から離すと同時にふーっと煙を吐く姿は先程の自分とは比べものにならないくらい自然で、大人で、思わず見惚れたのは言うまでもないだろう。憎らしいところはといえば、見せつけるようにちらりと視線をこちらに向けていたことくらいだ。
「慣れて、ますね」
「そう?」
ふっと微笑む姿はいつもと変わらないはずなのに、いつもよりもぐっと遠い存在に感じるのは何故だろう。たったひとつのアイテムが加わっただけで、いつも感じていた壁をいつも以上に感じてしまう。実際の歳の差以上に、自分はもっと子供なんだと思い知らされた気分だ。
多分、前々からずっと感じていたコンプレックス。恋人であるスティーブンは隙をあまり見せない伊達男で、多少子供っぽい一面があったり意地の悪いところがあれど、基本的には"大人"だった。そんな彼が、何故かはわからないけれど自分を選んでくれた。隣にいていいよと笑ってくれた。それがどれだけ嬉しくて幸せなことなのか、多分きっと彼は知らない。彼の周りには綺麗な女性が多くて、勿論それは"仕事相手"がほとんどだったけれど焦りを感じない訳ではなかった。色々と面倒だから、そんな理由で隠された仲だから別に誰に咎められたりした訳ではないけれど、それでも彼の隣に立つ時は綺麗でいたかったし、"大人"でいたかった。ハイヒールも、大人っぽく見える服も、真っ赤な口紅も、彼に釣り合いたいからという一心で掻き集めてみたものの、実際のところ身に付けたら全てが不釣り合いで──だからきっと、煙草に惹かれた。
持って、吸って、吐き出す。
たったそれだけのことなのに、理想としている姿のように思えた。きっとあの路地裏で、随分と物欲しそうな顔をしていたのだろう。ダニエルの仕方ないと言わんばかりの顔が目に焼き付いて離れなかった。まるで、大人の真似をしたがる子供をなだめるような、そんな顔だった。
には、さ」
不意に名を呼ばれて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。柔らかな微笑みの中で、蘇芳の瞳が少し鋭く細められていて、ドキリと胸がざわめいた。
「こういうの、似合わないよ」
わかっていたこととはいえ、あっさりと突きつけられると流石に悲しい。思わず眉間に皺を寄せると、空いてる片手がするりと伸びて来て少し冷たい指先を滑らせた。
「──は、のままでいいんだ」
背伸びなんて、しなくていい。
「好きだよ」
たった一言で、こんなにも安心させられるなんて。この人は、一体いつから魔法使いになったんだろう。
我ながら単純だ、彼の言葉ひとつで今まで焦りとかコンプレックスとか、そんなものが全部吹っ飛んだ。釣り合うとか、釣り合わないとか、そんなものは他人が勝手につけてくるレッテルで。そんなものを気にして無理に変わって、彼が愛してくれている自分じゃなくなるのは本末転倒だ。何が良いのか、そんなものは自分ですらさっぱりわからないけれど、でも──選んでくれた彼のことを信じなくて、一体何を信じろと言うのだろう。
目頭が熱い、ほんの少しだけ世界が歪む。涙の滲みそうな下瞼を彼の親指がそっと優しく拭って、ふわりと嗅ぎ慣れない匂いが近付いて来た。唇が触れ合って、次の瞬間には互いに求め合い、いつもと違う味に少し狼狽えながら、それでも自然と腕が彼の首の裏に伸びた。髪を優しく撫でられて、覆い被さってくる彼を受け止めるようにしてゆっくりとソファに沈んだ。いつの間にか、灰皿に移動していた煙草の灰がぼとっと落ちた。



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「お前らこれどう始末つけるつもりだ、半壊どころの騒ぎじゃねーぞ!」
「まぁまぁ、そこは警部の手腕でなんとかしてください」
「この野郎…」
「…そういえば」
「あ?」
「うちのが警部の煙草をいただいたそうで」
「あー、あったなそんなこと」
「うちのに唾、つけないでくださいね」
「あ?」
「俺も──中々気が短いもので」
「…」
「それじゃあ、後は宜しくお願いしますよ」
「おまっ──はー、めんどくせぇ」


煙の行き先

18/1/17