「涙が止まらなくなる病気!?」
スティーブンはやれやれと言わんばかりに肩を竦めながら額を押さえていた。それがまるでいつもの厄介事のような軽さを思わせていたが事態はそんなに軽いものではない、寧ろ自分ではどうしようもないからいつも以上に厄介なものだろうに。
「大丈夫なんすか?」
問いかけるザップの口振りはいつものような軽いものではなく、いつになく真剣だ。普段は他人なんぞどうでもいいと言わんばかりの態度だが、心の奥底ではスティーブンを、いやライブラ自身に心を砕いているのかもしれない。本人が聞いたら、あまりにも真っ正面からの言葉で即座に否定されそうだが。
「まぁなんとかな」
それほどに重要性の高い話題だというのに、当の本人は至って冷静で、さらっと報告書を読みながら答えるし、あまつさえコーヒーまで啜っている。極めて冷静なその態度に、矢継ぎ早に状況や原因を聞いてしまいたいこちらの気持ちはどんどん薄れていく。なんだってこんなに冷静なのか、原因不明の奇病ではないのか。
「それってまさか例の…?」
「察しが良いなぁ、少年は」
レオナルドの言葉に、一同がぴんと来たのは言うまでもない。
ここ数日、ヘルサレムズ・ロットに突如として謎の細菌が蔓延していた。その細菌保有者には様々な病気が発症している──と言っても、大したことはない。曰く笑い上戸になる細菌だったり、曰く怒りっぽくなる細菌だったり、所謂喜怒哀楽を活発化させる細菌だったらしく。街中はパニックになるどころか、どうもこの最近の効果を楽しんでる節があるらしいが、実際掛かってみたらそんなものくそ食らえだろう。そういう訳でしばらくマスク生活を余儀なくされていた我々だったが、まさかこんな事になるとは。
「なんでそんなもんに掛かってるのよ」
「うっかりマスクをし忘れて」
「ほんっと、馬鹿ねぇ」
全くだ、というかあまりに彼らしくない行動に肩透かしを食らった気持ちになる。なんで、どういう状況になればそんな馬鹿みたいな真似をしたのか。まぁ想像するに、何かしら"仕事"をしている時にそうせざるを得ない事態になったのだろう。例えば、女の人相手だったりとか…というのは少し邪推かもしれないけれど。
K・Kの鋭い言葉に彼はへらりと困ったような顔をしながら、
「はっきり言うなよ、傷つくなぁ」
と言う。それだけならばいつも通り、見慣れた光景だった筈なのに。同時に──ぽろり、溢れ落ちたのは涙だった。
これには一同ぎょっとした。戯れの憎まれ口に、あの氷の副官が涙した。普通ではない、異常中の異常だ。しかも困ったように笑いながらというものだから余計に驚きだ。
「あれ、そうか、こんなもんでも出るのか」
当の本人はこちらの驚きを他所にけろっとした様子で目元の涙を拭っていた。冷静だ、嫌になるくらいの冷静さだった。
話を聞くに、いつもより感情の触れ幅が激しくなっているらしく、ちょっとした感情の動きでもこうして涙が出てしまうらしい。曰く嬉しい時も、曰く悲しい時も、曰く怒っている時も、曰く困っている時も。涙というのは不思議なもので、どんな感情に沿っていても出てくるものだった。
「どうすんのよもう!」
「まぁ大して支障はないし、このままかな」
「スティーブン、しかし」
「クラーウス、大丈夫だ。念のためミス・エステヴェスに診て貰ったが他に影響はないし、細菌がなくなればこのヘンテコな作用ともおさらばさ」
だから、いつも通りで。
そう言われてしまえば、こちらとしても言うことがなく。クラウスは心配そうにスティーブンを見ていたが、これ以上の会話は無意味だろう。実際、話は終わりとばかりに報告書に視線を落としてしまっているのだから。
斯くして、珍しくもスティーブンの涙をよくよく目にする日々がスタートしたのだった。



:::



日々の生活の上で、涙というのがこれほど厄介なものだったなんて知らなかった。
K・Kとの戯れでああなった通り、スティーブンの涙腺は脆くなっていたことは明白だったが、まさかここまでとは。曰く、休憩のお茶を貰っては泣く。曰く、報告書の提出が遅れていることを怒っても泣く。事あるごとに泣く姿は、最初の内は不気味がったり面白がったりはしたものの、だんだんと慣れが生じてきているライブラ一同だった。
だが、一度その蘇芳の瞳からぽろりと涙が零れれば、どうしようもなく動揺してしまうのも事実で。皆の前では平静を装ってハンカチを差し出すくらいのことは出来たが、こと自宅となれば話は別だ。動揺し、狼狽え、どうすればいいのかわからなくなる。だっていつも泣くのはこっちの役割なのだ。あまりにも好きで、愛しくて、切なくて。彼が自分を愛してくれているということは、側に置いてくれていることで理解はしていたが、胡座を掻いてしまえる程には自惚れず。一生懸命に背中を追いかけているのだ、だから何かしらがあると涙腺が弛むのはこちらなのに。
「あ」
ぽろり、とコーヒーを渡したらまた涙が溢れていた。その涙の綺麗なこと、思わず見惚れるくらいに綺麗な涙、でも見る度に心揺さぶられるのは確かで。慌ててハンカチを取り出して差し出すと、困ったように笑いながら、もう一度ありがとうと言われた。
「まいったなぁ、もう一週間も経つのに」
「中々菌が抜けないんですね」
「このままじゃ、僕の目は涙で溶けてなくなっちゃうよ」
はらはら、溢れ落ちる涙とは裏腹に軽快な言葉が続く。全く気にしていない、と言ったら嘘になるだろう。でも、いつも以上に普段通りを演出しているのには気付いていた。心配を掛けたくないのか、不用意に詮索されたくないのか。どちらかはわからない、もしかしたらもっと違う理由かもしれない。それは知る由もないことなのだけれども。
?」
「、はい!」
「どうかした?」
つい、考え過ぎてしまったらしい。涙が拭われて、少し赤くなった目元がこちらの顔を覗き込んでいた。まだ濡れている瞳、この美しい瞳からここ一週間でどれだけの涙が溢れてきたのだろう。
「…スティーブンさんって、案外泣き虫なんだなぁって」
「へ?」
「普段はあんなに大人なのに、こんなに泣くなんて」
氷の副官の異名は当てになりませんね、と笑うと、ぱちくり、丸まった瞳がまばたきを繰り返す。
考えてみれば、ここ一週間のスティーブンは泣きっぱなしだった。それは、それだけ心を許して感情を顕にしている証拠で。
曰く、嬉しい時も。曰く、悲しい時も。曰く、怒って時も。どんな時にも涙は溢れてくるものだ、でもそれらに興味や関心がなければそれまでのものでもあって。
なんだか、嬉しくなった。こんなにも泣いてもらえて、こんなにも心を許してもらえて。
「治っても、いっぱい泣いていいですよ」
「君ねぇ…」
「その度に抱き締めてあげます」
こうやって。
ぎゅう、と抱き締めた身体はあたたかった。氷を扱うスティーブンは、指先も何もかもが冷えきっていると思われがちだが、その実、とてもあたたかな人間だ。そのことを知っているのは数少ない、その上この人はそう思われていることをとんと理解していないから困ったもので。だから時々、こうして熱を与えることにしていた。あたたかいと思って欲しくて、自分もそうなのだと思って欲しくて。
「…弱ったなぁ」
ぽろり、またひとつ涙が溢れていた。眉尻は下がっていて、口許はふにゃりと弛んでいる。知っている、これは嬉しい時の顔。
「俺の目が溶けたら、責任取ってくれよ?」
ぽわっと、心があたたかくなる。それが誰のせいか、そんなものは考えるまでもない。
ぎゅう、と強く抱き締めて、それから額をくっつける。涙が滲んだ瞳は澄んでいて、とてもきれいだった。すり、と鼻を寄せて、くすぐったそうに片目を瞑る姿に目を細めて、
「溶ける前に、きちんと拾ってあげますよ」
涙をぺろり、舐めあげた。それは、やっぱりあたたかくて、少しだけしょっぱくて、まるでスティーブン自身みたいだと思った。ふわり、微笑む彼の頬に、つぅとまたひとつ涙が溢れる。


君のナミダは何色だ

18/4/30