ダンッと耳元で音がする。近くて大きな音が鼓膜を刺激して、びりびりした。
顔の真横には、スーツに包まれた長い脚。そしてほんの少し血の匂いが香る靴がある。普段はその脚から高速の蹴りが繰り出され、それと共に敵やらなにやらを凍らせる。今、自分が凍っていないというのは、つまり手加減をされているということだ。音と行為の衝撃に瞬きを数回繰り返すのは仕方ないだろう。あまりの迫力に身体が凍り付いたように固まっていた。力を使わなくとも、人を凍り付けにできるなんてすごいなぁ──なんてのんきなことを考えている場合ではない。
すぅ、と目の前の人物が顔を覗き込むように、身を屈めた。自然と、その端正の顔が近付いてくる。平時であれば、ここまで近さを感じることはない。ドキリ、とするのは恐怖からかそれとも別の何かなのか。思わず目を伏せると、優しげな指先が顎をくいと持ち上げる。強制的に顔をあげることとなり、その蘇芳色の瞳を見つめる他ない。
自分を見つめていた射抜くような鋭い視線が不意に弛んで、薄い唇が吐息を漏らした。いやに色っぽいそれに、胸が高鳴るのは致し方ないだろう。
「──これでいい?」
「はい!もう!大満足です!!」
スティーブンの声に興奮そのままに告げると、ふぅと嘆息をした彼はやれやれと言わんばかりにゆっくりと身を起こして、顔の真横に置いてあった長い脚を引いた。最高だ、やはりこれをやってもらうのはスティーブンで正解だった。ぐっとガッツポーズをする。
薄暗い室内の空気が弛み、固唾を飲んで見守っていた周囲の人物はそれぞれの反応をした。
「いやぁ、スティーブンさん手慣れてますねー」
「見事な足捌きだ、スティーブン」
「えぇーどこがいいのよもう、アタシには全っ然わかんない!」
レオナルドの女性に対する手管に感嘆する声。クラウスの戦闘に準ずる技術を讃える声。そしてK・Kのブーイングに程近い不満げな声。三者三様の反応に、スティーブンは苦笑を滲ませた。頼まれたからやったというのにあんまりではないか、とでも言いたげだった。申し訳ない。
ふと、静かな面々に視線を送ると、チェインはあまりの衝撃と色気に色々と煩悶しているようだった。ぐい、と誤魔化すようにグラスを煽る頬が赤いのは、恐らく酒のせいだけではないだろう。全くかわいい人である。
そして、自分の席である空席を挟んだその隣に不本意そうな顔をして座っているザップはつまらなそうにけっと唾を吐いた。珍しい、こういう話題、というかデモンストレーションには人一倍敏感だろうに。
「しかしさんは変わってますね、こういうことにときめきを覚えるんですか?」
レオナルドの隣に座ったツェッドは不思議そうに首を傾げた。はてさて、そんな事を誰が言ったのだろうか。
「いや、まさか。そんな訳ないじゃないですか」
K・Kの冷たい視線から逃げるようにクラウスの隣に座ったスティーブンは、自分の発言にぴたりと動きを止めた。いくら宴会の出し物のようなこととはいえ、自分がやらされたことに、しかも大興奮な反応をしていた人に、まさかこういう返答がくるとは思ってもみなかったらしい。
「…どういうことかな?」
少し、怒気が孕んだような声に加えて片眉がほんのりつり上がっている。いやいや、誤解をされては困る。大興奮の大満足なのは間違いないのだから、自信を持ってくれていい。
「こういうのは"スカーフェイスさん"がやるから良い訳で、他の人だったら単なる脅しです。カツアゲと大して変わんないし」
「……君にスカーフェイスなんて呼ばれると、鳥肌が立つのはなんでだろうね」
それは単純に呼び慣れてないからじゃないだろうか。しかしながらこちらの返答に満足したのか納得したのか、スティーブンは固くなった表情をほんのり弛めた。どうやら機嫌は戻ったらしい、安堵の息をこっそり漏らす。
「女の子って、時々よくわかんない憧れ、っすかね、そういうのありますよねぇ」
「あら、レオっちってば物知顔じゃなぁい?経験有り?」
「いやそういう訳ではないですけど、なんかこう、現実とは別の願望があるっていうか…」
「モテねぇ女のくっだらねぇ妄想だろ、あーつまんねー!」
ぺっぺっ、と唾を撒き散らすザップに顔を歪めるのは自分だけでなく、レオナルドも同じだった。いや、実際唾の行き先は彼なのだから、納得の表情だろう。
「候補から真っ先に外されたからって、八つ当たりはみっともないですよ。全く嘆かわしい…」
「だーれが八つ当たりしてるって?なに言っちゃってんのかなこの魚類!別に俺ぁやりたかった訳じゃねぇよタコ!この葛餅!!」
「なら僕に唾飛ばさないでくださいよ!汚いなぁもー」
「うるせぇ」
ふん、と鼻を鳴らすザップは、不機嫌そのものだ。何をそんなに怒ることがあるのだろうか、ちょっとした憧れに協力してもらったっていいじゃないか。首を傾げていると、対面に座ったスティーブンがやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。なんだその反応。
「でもなんでコイツがよかった訳?レオっちとかザップっちでもいいんじゃないの?」
「いやいやK・K、やっぱりこういうのは普段きちっとしてる大人な方にやってもらうのが一番でしょ!」
「じゃあクラっちは?」
ちらり、とクラウスに視線を向けるときょとんと翠の目を丸くしていた。いやいや、いくらなんでも彼にこんな下世話なことは頼めない。それに、どうせなら別のお願いをしたい。
「クラウスさんには…どっちかっていうと、お姫様抱っことかして欲しいよ!でも、やっぱり恥ずかしいし、迷惑になるし…」
「今それを言う方がよっぽど恥ずかしくないっすか」
えへへ、とはにかんで誤魔化すと、K・Kとレオナルドは同時に溜息を吐いた。それからまた、ザップがけっと唾を飛ばした。一体なんなのだろうかその反応は。



:::



宴もたけなわとなり、残る面々にひらひらと片手を振って、帰り道を歩く。酒で火照った身体は、どこか浮わついていて、ふわふわした足取りだった。
帰る旨を告げると、クラウスとスティーブンが心優しくも送ろうとしてくれたが、上役の二人はまだまだ帰ることなど出来ないだろう。よしんば帰れたとしても、こんな夜分にわざわざ遠回りをさせるのは申し訳ない。
丁重に断ると、それでも尚クラウスが引き下がってきたから困ってしまった。流石無類の紳士だ、しかしながらその申し出は受ける訳にはいかない。慌てて隣にいる男の腕を掴んで、道連れにさせてもらった。心苦しさはあまりない、いや皆無に近い。
「なんで、俺がてめぇなんぞを送らなきゃなんねぇんだよふざけんな!」
そんな不満げな声は、明日の昼飯という言葉で黙らせた。万年金欠のこの男は奢りという言葉に、ものすごく弱い。結局世の中はお金である。
そういう訳でザップと二人、ネオンが煌めく街並みを眺めながら歩いている。と、言いたいところだが、実際は先を歩くザップにてくてくついて歩いているような状況だ。二人で歩いているとは、到底言えないだろう。
先程からずっと不機嫌そうなザップは、一言も喋らないですたすたと前を歩いていた。ポケットに手を突っ込み、葉巻を口にくわえて、背中を丸めて歩く様子はまさにチンピラだ。
悲しいかな、身長に比例してコンパスの長さは変わる訳で。ずんずん行く彼に追い付くには、小走りになる他ない。酒でいい気持ちになっている身体には少しきつかった、とことんレディーファーストとかエスコートとか、そういう言葉には無縁なのだから困ったものだ。
「ザップ、ザップ」
「んだよ」
「もうちょっとゆっくり歩いてよ」
「はぁ?これくらい普通だろ」
「足の長さ考えてくれませんかねー」
「チビ」
「うっさい銀猿」
腰に拳をひとついれた。いってーな、とか、てめマジふざけんなよ、とか、誰が銀猿だボケ、とか。そういう文句だけはいっちょまえの癖に、避けないのは何故だろう。これくらいの攻撃は痛くも痒くもないとでも言いたいのだろうか。いや、実際確かに大した攻撃ではないのだけれども。
それから、ほんの少し、本当に気持ちだけ、ザップはゆっくりと足を進めるようになった。素直じゃないなぁ、なんて自分も人のことは言えないのだけど。 前を歩く丸まった背中を見ているのが、自分は結構好きだった。だから、隣を歩いて欲しいとは全然思っていないのだ。これくらいの距離が、丁度いい。
不意に、ぐちぐち文句を垂れていた口が一文字になる。静かな彼は不気味だ、そう思うのとほぼ同時に、ぶわっとビル風が吹いた。そのチンピラのような姿には似つかわしくないくらい、さらり、風に靡く銀の髪はどこまでも涼しげで。思わず、息を飲んでしまった。
「、ザップ」
「うっせーなぁ、あんだよ」
「なんか喋ってよ」
「はぁぁぁああ?」
「…うるさい」
「喋ろっつったり黙れっつったりやかましいなてめぇこのアマ」
ふと、静かな奴を見ることに、妙な胸騒ぎを覚えてついついかわいくない口を叩いてしまった。その言葉に普段通り緩慢に振り返り、ツカツカと近付いてきたと思ったらチンピラのようにこちらを挑発する姿を見ると、何故かひどく安堵した。
なんだろう、なんなのだろう。騒がしくないザップは、チンピラに見えないザップは、なんだかザップじゃないみたいで落ち着かない。
「、あ」
「え?」
不意に、ぐいと頭を掴まれたと思ったら、ぽすん、なんて軽い音が耳に届いた。目の前は黒と白で、仄かに額は暖かい。葉巻の匂いが鼻を擽ったかと思ったら、ほんのりビールの匂いもした。これ、もしかして、ザップの胸だろうか、なんて思考がようやくまともに機能した時には、ガチャンッと耳に痛い音が路地に響いた。
「──あっぶねぇ」
低く、掠れた声が頭の上から落ちてくる。頭を掴んだ手がぽんぽん、と撫でるように叩いてきた。
「もう少しで怪我するとこだったぞ、感謝しろバーカ 」
なんて全然、まったく、これっぽっちも可愛くない言葉に今は反論も出来なかった。多分、上なら何かしらが落ちてきて、それをザップが助けてくれたのだろう。血法を使うより、その手を伸ばす方が断然早かったのだろう。きっと、今自分がしなければならないことは、ありがとバーカ、とお礼を言うことなのだろう。でも、今は出来ない。
ドッドッ、とうるさい心臓を落ち着かせるのに必死で、その胸元から離れることさえも今は無理だ。
「……あ?なんだよ、怪我でもしたのか?」
心配そうな声を珍しい、とからかってやることすらも出来ないなんて。
お願いだから、もう少しこのままでいて欲しい、今だけは顔を見ないで欲しい。熱くなった頬の言い訳なんて、到底出てきやしない。ドッドッドッドッ、うるさい心臓が静まる気配はまるでない。壁際に追い詰められて逃げ場を脚で塞がれて、近くで伊達男の顔だって見た時でさえ、こんなにも自分はポンコツではなかった。
うそだ、ちがう、ぜったい。そんな訳はないのだと、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。それさえも心臓の音で聞こえないなんて、そんなのは認められない認めたくない。
全く動かなくなった自分を本格的に心配した奴が、ぐいと無理矢理上に向かせるまで、あとすこし。うまい言い訳も、もっともらしい理由も思い付かず、夜の街に叫び声がこだました。

ときめいてなんかいない

15/06/12