最近の自分は、少し変だ。
普段であれば、別になんとも思わない言葉に意味もわからず傷ついたり、よくわからないタイミングで心臓が早鐘を打つように動いたり、自律神経まで可笑しくなってしまったのか妙な汗は出てくるし、よく顔が赤くなるなど、エトセトラ。とにかく、異常を来しているのはまず間違いない。その原因に、心当たりがないと言えたらどんなによかっただろう。でも言えない、何故ならその現象のほとんどはとある人物の前でしか起こらないからだ。
「おい、
「な、なに」
頭を抱えていると、不意に後ろから声が掛かってきた。耳に馴染む、どこかざらついたような声音は嫌いじゃない。ゆっくりと振り返ると、そこには憮然とした表情の原因が立っているから溜息が漏れた。そう──あのシャワールームでの一件以来、ザップといる時に限って、自分は変になってしまう。全くもって冗談じゃない、笑えないにも程がある。何故、よりにもよって、この度しがたいクズと評される文字通りクズな男相手に、どうしようもないくらいに動揺してしまうのだろう。
「飯食いに行くぞ」
「…やだよ、奢らせる気でしょ」
「当然だろ」
全く悪びれずに言う奴に、深い溜息が漏れるのはそれこそ当然だろう。最低だ、いっそ清々しいくらい最低だ。
「んだよその顔、良いだろ?減るもんじゃねーし」
「いや減るよ、私のお財布に思いっきり影響出るから!」
「てめぇの財布がどうなろうが、俺の知ったこっちゃねぇな」
殴ってやろうか。はんっと下卑た笑みを浮かべる男に、普段であれば拳の一つや二つを入れてくれるのだが、今はそうもいかない。心臓が、また早鐘を打ち始めているからだ。我ながら頭がおかしい、この男からのクズな誘いと笑った顔の、一体何処にそうなる要素があるのだろう。きっとこれは、不整脈に違いない。その内時間を作ってMs.エステヴェスに診て貰おう、断じてときめいている訳ではないのだと医療面から言って貰えれば自分も安心できる。
「なー俺腹へってんだよ、はやく行こうぜ、ほら今日はお前の好きな店で良いからよぉ」
先程までの不遜な態度は一変して強引に肩を組んできた、今度は甘えて落とす作戦にシフトチェンジしたらしい。よくある手段だ、駄々を捏ねる子供と大差ない。それなのに、きゅうっと心臓が締め付けられるかのように苦しいから、一層おかしい。
肩に腕を回されたせいか、ザップの葉巻の香りが鼻腔を擽って妙な気分にはなるし、いつもより近くから聞こえる声に胸の鼓動は先程より早まっている。こんなにリズムが早くなるなんて、寿命とか縮まってたらどうしよう、それもこれも全部この男のせいだ。
「なーぁ?」
「っもう、わかった、わかったから!」
おまけに顔まで覗き込まれてしまうともういよいよ駄目で、どんっと胸を押して突き飛ばすことでなんとか距離を取る。はぁ、はぁ、と息切れが起きてしまうのは、知らず知らずの内に呼吸を止めていたからのようだ。ぺたぺたと頬を触ってみると、熱い。きっと赤くなっていることだろう、あぁもう、どうしてこうなった。
「なんでぇ急に!…あ?お前なに顔抑えてんだよ」
「なんでもない」
「いや、んな訳ねぇだろ」
せっかく突き飛ばした身体がまた寄せられたかと思ったら、ザップが、掌でなんとか覆い隠している顔を覗き込もうとしている。やめてくれ、と心底思うのは仕方がない。多分奴のことだから純粋に気になったのだろう、半開きの口が実に間抜けだ、可愛いだなんて断じて思っていない。じっと、アイスブルーの丸い瞳が見つめてきていて、益々頬がぶわっと赤くなってくる。こんなこと、奴に気付かれたらどうなることか。向こう一週間は、肩組んだくらいで真っ赤になる処女、これだけでからかわれる。事実そうなのだけれども、そんな恥をわざわざ晒したくなどはなかった。
ばっと一瞬の隙をついて、その真っ直ぐなアイスブルーの瞳を自分の両手で覆い隠す。目を守るために瞼を下ろしたのだろう、睫毛が当たって少し擽ったかった。
「…おい、これなんだよ」
一瞬の沈黙の後、ザップは不機嫌そうに呟いた。そりゃそうだろう、いきなり目隠しされたら誰だって不愉快になる。しかし大した動揺も警戒もせずに、そのままの状態というのは意外だった。てっきり即座に外されるかと思っていたのだ。そもそも、こんな簡単に奴の視界を奪えるなどとは到底思ってみなかった。仮にもこの男は戦闘のプロなのだ、その上、天才の名を欲しいままにしている度しがたいクズなのだ。
ぼんやり見つめていると奴の手が自分の腕を掴もうとするから、慌てて声を上げる。腕を掴まれた時点で、この細やかな防御が長く持つことはない。力比べになったところであっさり負けて、この無様な顔を晒すのが落ちだった。
「な、なんでもいいでしょ」
「なんでもいい訳あるか、これじゃあなんも見えねぇだろ」
ごもっともである、だが今は見られてしまったら困るのだ。せめて頬の熱が引くまではこのままで居たい、この際どくんどくんうるさい心臓はもう無視だ。そっちまで気にしていたら自分はこの男の前に立っていられなくなる。
「つーかさぁ、お前最近変じゃねぇか?」
「そ、んなことない、よ」
「いや変だろ、今も変じゃねぇか」
反論できない。確かに変だ、もうこの上ないくらい変だと思う。その原因はまぎれもなくザップ自身にあるのだけれど、それを伝えたが最後、妙なところ勘が鋭いこの男は、きっとすぐに思い至るだろう。この認めたくない気持ちの正体に、あっさりと気付いてしまうに違いない。そんなのはごめんだ、この気持ちについては、丁寧に蓋をして過ごし墓場まで持っていくと、気付いた時に決めたのだから。
「ザップの気のせいだって」
「気のせい、ねぇ…」
不満げな声の割に、無理矢理この手を剥がそうとしないから助かった。先程の制止から、奴の手が動くことはなかった。
何故だかはわからないけれど、頼むから今のうちに納得してくれ、そして頬の熱よ、はやく引いてくれ。そんな風に願っていると、不意にピリリ、と電子音が響いた。自分の携帯が鳴っている訳ではないので、この音はザップのそれだろう。ちらりと視線を向けると、サァッと血の気の引いた顔が目に入る。何したんだこいつ、というか電話に出るどころか掛けてきた主すらわからないのになんでそんな顔になるんだ。大方女の問題だろう、チリッと胸の奥が痛むのには気付かない振りをする。
ピリリ、ピリリ。ピリリ、ピリリ。繰り返される電子音が執務室に響き渡る。青ざめた顔をしている割に、ザップは電話に出るどころか、電話を取る素振りすら見せなかった。
「…出ないの?」
「で、出てぇけどお前が目隠ししてっから出れねぇナー!」
いや出れるだろ。と思ったが、あんまりにも下手くそな誤魔化しにぷっと吹き出してしまった。今時、子供だってもっとまともな言い訳をするのではないか、まぁザップらしいと言えばらしいが。
暫く鳴り続けていた電子音が止むと、ぷはぁああと大きな溜息が耳に届く。
「今度は何したの」
「別に、なんでもねぇよ」
「いやあるでしょ、大有りでしょ」
今度はこちらが問い詰める番だった。コントじゃないんだぞ、と笑いたくもなるが、困り果てた挙げ句一文字になった唇がひどく可愛い、と思いそうになったのでやめた。可愛いなんて、こんな男に思う筈がない。
「また女の人と揉めてるんでしょ、ちょっとは整理しなよ」
「俺のインフィニットマグナムを求める女が絶えねぇんだよ」
最低な発言だった。やっぱりこんな男に可愛いなんて言葉は心底似合わない。
「やだやだサイッテー、お願いだから性病撒き散らさないでよね、アンタとやった女が可哀想」
「誰が撒き散らすか!つーか性病じゃねぇよ!スキンくらいつけるわボケェ!!」
「そんなこと聞いてないしわざわざ暴露しなくていいよこの下ネタ!!」
「誰が下ネタだこの処女!!」
「ヤリチン!!!」
ぜぇ、ぜぇ。ぶわぁっと撒き散らすような言葉の応酬に乱れた息を整える。なにやってるんだろうか、そもそも人を目隠しした状態で喧嘩なんて滑稽にも程がある。そろそろ頬の熱も落ち着いてきた頃合いだし、いい加減お腹も空いてきた。手を外してとっととご飯を食べに行こうとした、その時。
「…つーかよ、俺の女事情とかお前に関係ないんじゃねーの」
なんて、吐き捨てるように尤もらしい言葉が返ってきてしまって、手を外すことが出来なくなった。ずき、と胸が痛むのは何故か、本気でそう思えたらどんなに楽だったろう。認めるもんかと意地を張った分だけ、衝撃が大きかった。
「迷惑なの、アンタと出掛ける度に修羅場に巻き込まれて」
挙げ句の果てには、こんな女に勃たねぇよ、俺にはお前だけだって。なんて、甘ったるい声で女を口説く様を見せ付けられる。確かに、色気はないし可愛げもない女だろう、自覚はある。意識などされてない、こないだの件だって、ただからかってるだけなんだとわかってる。わかってるから認めたくなんてなかった、認めてしまったその時点でまるで相手にされてないこともわかるから。気付いた時には失恋だなんて、本当に笑えない冗談だ、今時B級映画だってこんな陳腐なストーリー描かない。
「ご飯とか、もう誘わないでよ」
「なんでだよ」
「アンタの女に誤解されたら迷惑なの、一人飯が寂しいならレオくんとか誘ってよ」
「なんでこの俺が毎日陰毛見ながら飯食わねぇといけねぇんだよ、なんの苦行だ。つーか、誤解とか別にさせときゃ良いだろ」
何言ってるんだろうかこの男は。先程電話一本であんなに脅えてたくせに、どうしてそんなに堂々と出来るのだろう。あぁ、あれか、こんなみみっちい女と誤解されてもすぐ弁解出来ると、そう言いたいのか。馬鹿にするのも大概にしてくれ、確かにそうかもしれないが、巻き込まれるこちらは逐一ダメージを食らうのだ。冗談じゃない、こんなことで傷つくなんて、本当に冗談じゃない。
「…ザップがよくても私がよくないの」
「なんでだよ」
「なんでもくそもない」
「なんでだっつってんだろ」
「しつこい」
「うるせぇ、いいから教えろ」
「っ別になんだって良いでしょ!」
思わず怒鳴ると、ザップはぴたりと黙った。目を覆い隠してしまっているため、どんなことを思っているのかまるでわからなくて、すこし怖かった。怒っているだろうか、それともなんだこいつ面倒くせえとか思ってるのだろうか。どちらでもいい、もうなんだっていい。
結局、ザップは自分のことなどなんとも思っていない。だから女に誤解されても怖くない、後ろめたいことなど何もないのだから。そのことに気付いてしまったら、どうしようもなく傷付いた自分にも気付いてしまって、また一層虚しくなる。
「──お前さぁ、なんで俺が毎度毎度、わざわざ飯に誘ってんのか本気でわかってねぇの?」
なんの話だ。そんなの決まってるだろう。
「金がないから、奢って欲しいから」
それ以外にない。そりゃあ、毎度毎度奢ってやってる訳ではなく、半分以上は割り勘か、あとでしょっぴいていた。本当に時々、極々稀に、奢ってくれる時もあるけれど。
「…お前なぁ」
深々と溜息を吐くザップに、眉間の皺が出来るのは仕方がないだろう。なんだ、そのほんっとになんもわかってねぇなぁと言いたげな声は。他に理由があるなら是非教えて欲しいくらいだ。
不意に、ぐっと腕を掴まれたと思ったら、ようやくザップは自分の手を瞼から外させた。アイスブルーの瞳が、射抜くようにこちらを見てきて──あぁ、これは、まずい。
「──お前と一緒に居たいからに決まってんだろうが、バーカ」
ぶわっと、一気に真っ赤になるのは仕方ないじゃないか。ふざけるな、そんな真剣な瞳で、そんな風に言われたら、勘違いしてしまうじゃないか。こんな顔は見られたくなくて、掌で覆い隠したいのに、掴まれた腕が全然動かない。それどころか、ぐいっと引き寄せられて、一歩、二歩、ふらっと近付いてしまう。思った以上に顔が近い、と思っていると、いつの間にか両腕が背中に回っていて、ぎゅっと抱き締められた。葉巻の匂いが、相も変わらず独特だ。
「な、なっなにして!」
「いい加減認めろよ」
「は、」
「──俺のこと、好きだろ」
断定するような言葉を、即座に否定出来なかったのは、耳元の声にびくりと身体が跳ねたから。ドキドキドキドキと、心臓がうるさいから。予想にもしてなかった言葉にぐるぐると頭が上手く回っていないから。色々理由はあったが、とどのつまり、事実だからに他ならない。
ぐっと腰を抱く手は、思っていた以上に優しくて。あぁもう、やだ、認めたくなんてないっていうのに、この男ときたらどうしていつもこうなんだ。人のことを掻き乱すだけ掻き乱して、最後の最後は優しくしてくるんだ、ふざけるな、そんなの──そんなの好きになるなって方がどうかしてる。
「な、いい加減素直になれよ」
だめ押しするように、吐息混じりに囁かれる。普段は粗野なくせに、こういう時だけ優しいなんて本当にずるい男だ。一体どれだけの女が、この男の手管に騙されたのだろう。
認めたくない、嫌だ、傷つくのは目に見えてわかってる、こいつには他にたくさんの愛人がいるんだ、自分にだけこうする訳じゃないんだ。ザップなんか、ザップなんか──
「きらい」
「あ?」
「ザップなんか、きらい」
「…お前なぁ」
説得力ねぇよ、なんて言いながら、ぼろぼろとこぼれてくる涙を拭う手つきはひどく優しかった。ぎゅっと背中に回した掌で奴のジャケットを掴む、背中は思っていた以上に広かった。本当はずっとこうしたかったなんて、お笑い草だ。
「いっつも、いじわるなくせに変なとこ優しくて、そのくせ笑うと案外かわいくて、どうしようもないクズのくせに」
人を、恋になんてどうしようもないものに、落としやがって。
「ほんと、きらい、だいっきらい」
「おー、そうかよ」
ニヤニヤと、笑った顔がまた憎い。こちらが顔を真っ赤にして泣いてるというのに、何故そんなに楽しげなのか、もっとこう慰めるとか出来ないのか、本当に腹が立つ。一番腹が立つのは、こんな奴を好きになってしまった自分にだ。
「俺は、てめぇが好きだよ、くそったれ処女」
誰がくそったれだ、いい加減処女とか言うな。そんな文句が出てくることはない。
信じられない言葉に耳を疑って、それでも向けられる存外子供っぽい嬉しそうな笑顔に心打たれて、流れてくる涙が止まらなくなって、やっぱりこう返すしかない。
「きらい」
「おー」
「ほんとにほんとに、だいっきらい」
「わぁったわぁった」
全部わかったような顔が腹正しい。ニヤニヤしてる顔を引っ張ってやりたい。それでも嬉しそうな色が見え隠れしているの奴の顔に、どうしようもなくときめいてしまって。ちくしょう、もういい、観念すれば良いんだろう。
「…………………………すき」
ぽつり、小さく小さく、ほんとに小さな声で告げた。ようやく素直になった言葉をザップは目敏く聞き付けて、一層嬉しそうに笑った。
「──やっと素直になったか、この意地っ張り」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔をいとおしそうに撫でられる、そのまま顔が近づいてきて、唇が重なった。初めてのザップとのキスは──涙の味でしょっぱかったのに、どうしようもなく幸せだった。


きらいもきらいも、

15/06/29