「アンタ、ザップの女でしょ」
見ず知らずの女性に、こんな風に声を掛けられたらそりゃあ驚くだろう。
本日はいつも通りの曇天、ヘルサレムズ・ロットの名物だ。買い物袋を抱えながら家へと向かう、勿論一人だ。危ないからなるべく一人で出歩くな、女性陣と上役には口やかましく言われるがそうもいかない。常に誰かと共に、なんて無理な話だったし、そもそも対人相手の護身術程度ならば扱える。心優しいレオナルドと違い、自分は外敵に情けを掛けるほど優しくなかった。武器屋のパトリックとニーカから銃も買っていたし、大概の敵ならば一人でなんとかなるのだ。
ガチャ、と扉を開くとそこは手狭でありながらも清潔にしている我が家──の筈だった。男物の服やピザ屋の空箱が散乱している廊下を迷いなく突っ切ると、お気に入りのベッドで足を投げ出して寝転がっている銀髪がいた。
「…ザップ」
「おー遅かったなぁ」
家主の自分よりも遥かに偉そうに部屋で寛いでいる男の名を呼ぶと、奴はかったるそうにその身体を起こして笑った。
ぐう。その笑みに、ほんの少しばかりほだされそうになったが、うんと堪えてテーブルにドンと荷物を置いてやった。予想よりも大きな音に、ザップはアイスブルーの瞳を丸くしながらこちらを見る。きょとんとしている姿は案外可愛い、なんて思ってはいない、繰り返すが微塵も思ってなどいないのだ。
「なんだよ急に。どした?生理か?」
「最低な答えをありがとう」
「褒めるな、それほどでもねぇよ」
「褒めてないよ馬鹿!」
ダンッと思わず地団駄を踏んだ。どこをどう聞けばこのどうしようもない男は、そんな馬鹿みたいな勘違いを出来るのか。それでも全く理解をしていないのだろう、ザップは不思議そうに首を傾げた。この察しの悪さでよく今まで生きて来れたなと、いっそ感心すらしてしまう。いや、こと戦闘や生き抜くためであれば妙に頭が回るのだった。今まで一度も渾身の力を込めたビンタが当たらないのはそれ故だ、全く腹正しい、たまには大人しく殴られろと言いたい。
「この、部屋!なんで私が一日家を空けただけでこうなる訳!」
「一日じゃねぇだろ、一昨日の夜から居なかったから二日だ」
「そういう話してんじゃないんですけど!!」
怒鳴った、あぁ怒鳴ってやった。怒鳴りたくもなるだろう、家は手狭だったが気に入っていたのだ。それが、たった一日、いや奴の言うように二日、部屋に居なかっただけでこんなにも汚されてしまうのだから。
こちらの怒りをようやく理解したのだろう、ザップは途端に唇を尖らせて、ポリポリと頭を掻いた。どうでもいいのだが、なんで上裸なのか、脱がないといられないのか。下だけでも履いていただけまだましではあるが。
「だってよぉ、お前居ねぇんだもん、誰も片付けねぇじゃん」
「仕方ないでしょ仕事なんだから!っていうかなんで私が片付ける前提なの!!」
「当たり前だろ、ここ、お前の家なんだから」
ぶん殴ったろうか、このSS。
さも当然といわんばかりに、ふん、と鼻を鳴らしたザップを心底殴ってやりたかったが、どうせ避けられて更に苛々が募ることは火を見るより明らかなので、溜息を吐きながらピザ屋の空箱をゴミ袋に詰め込んだ。折角可愛いダストボックスを買ったというのに、この男が入り浸るようになってからというもののゴミ袋が剥き出しになってしまっていた。それもこれも馬鹿でかいピザ屋の空箱が悪い、いやピザなんて頼むザップが悪い。確かにドミノのチーズは美味しいけれど。
空箱が片付いたら、次は脱ぎ散らしてある服だ。ザップという男は、何故か部屋で服を着たがらない。曰く煩わしいのだと、馬鹿じゃないのかと心底思う。目のやり場に困るから下だけは穿けと何度も言っていたらようやく今のような姿に収まったが、最初は文字どおり全裸だった。そして、その姿に真っ赤になったこちらをからかってくるから始末に置けない。
「まったく下着まで脱ぎ散らかすんだから──あ」
「あ?」
そうだ、忘れていた。それもこれも全部部屋が汚かったから、つまりザップのせいだ。かき集めた服を籠にぶちこんで、テーブルの上に起きっぱなしだった買い物袋からある物を取り出す。先程受け取ったばかりのそれは荷物の上の方にあり、取り出すのは容易だった。
不思議そうな顔でこちらの様子を伺っていた奴に、ぽいっとそれを投げ渡す。不遜な態度をしていても戦闘センスや身体能力はピカ一だから、狼狽えるなんて可愛い姿は見せず、見事に受け取ってみせた。
「なんだ?これ」
「中見ればわかるよ」
妙なところで素直になるこの男は、言われた通りに紙袋の中を確認する。それと同時に、バサッとそれを落とした。
「お、お前、こ、こ、こここれ、どこで…?」
震える声に、可哀想なくらい出ている冷や汗。動揺しているのがバレバレだ、そんなにわかりやすくて大丈夫なのか。その態度に、あぁやっぱりな、なんてどこか冷めた自分が納得していた。
極めて冷静に、奴の求めている言葉を返す。
「さっき、街角で。キャシーさんから、ザップに」
「ひっ」
息を飲む姿は滑稽だった、まずいまずいまずいと呟く姿もそれはそれは滑稽だった。
冒頭、買い物帰りの自分に声を掛けてきたのは金髪碧眼のナイスバディな美女だった。丁度ザップが好みそうなノリが良くてフットワークの軽い美女、彼女はキャシーと名乗ってそれを渡してきたのだ。
「お、お前、な、中身見てねぇよな…?!」
希望に満ちた問い掛けに頷くと、心底安堵したのか深い深い息を吐いていた。中身は見ていない、届け物なのだから運び人が見るのは卑怯だろう。しかし、その姿を見れば彼女とザップの関係はわかる。そして、美女は親切だったのだ。
「見てないけどキャシーさんが教えてくれたよ、昨日泊まった時のパンツだって?」
「!?!!?!??」
いっそ面白いくらい顔面を崩壊させたザップは、すぐさま床に膝をついた。冷や汗が床にぽたぽた落ちているのをぼんやり見下ろしながら、確信する。あぁ、これは間違いなくクロなのだろう。
ザップ・レンフロの女性関係が、もう言葉では言い表せないくらい爛れているというのは有名だ。そして、それと同じくらい、ザップ・レンフロの下半身が軽いということも。
最初からわかっていた。あんな風に声を掛けられた時点で、わざとらしく中身を告げられた時点で。彼女はわざわざ、教えたのだ。それによって、自分と奴の関係が危ぶむであろうことを狙っていたのだ。敵ながら正当な攻撃だ、普通ならどんな理由があろうと恋人の居ぬ間に不貞を働いた男を許す筈がない。それによって拗れた関係は中々元には戻らない、例え波風は立たなくとも不信感は募る。積もり積もった不信感は、やがて大きな火種になるのだろう──しかし、甘い。
「いや、あの、これはだな」
「いいよ、別に」
「へっ?」
「昨日アンタがどこにいて、誰と何してようが、別に私が怒る理由にはならないから」
「ちょっ!!」
背を向けたのに、大した理由はない。しいて言うならば、テーブルの上に置きっぱなしの荷物を片付けようと思った、それだけだ。
それなのに、
「言いたいことあんなら言えよ!」
なんて、いつの間に立ったのかわからない奴が腕を掴んできたりするから。部屋には妙に重苦しい沈黙が流れることになる。
言いたいこと、はて、何かあっただろうか。
部屋を汚くするなとはもう言った。服を着ろとも。前者は叶わなかったが、後者は半分叶っている。次いで文句を言うほどのことはない。
「別に、何もないけど?」
自分でも驚くくらい冷静な声だった。冷たい、なんの感情も入っていない声。敵対勢力に向けて発せられるくらいのそれに、腕を掴んだ男は身震いをしていた。
どれくらい時間が経っただろう。いい加減離して貰おうかと腕を振り払ったが、それより強く腕を掴まれたから叶わなかった。
「ないこと、ねぇだろ」
ぽつり、落ちてきた声は、見るからに怒りが秘められていた。なんて理不尽な、怒りたいのはこっちの方だ。急に腕を捕まれて、離すことも叶わなくて、おまけにどんどん力が込められてくるから痛くて堪らない。
「俺ぁてめぇがいんのに他の女んとこ行ったんだぞ!何もないって、そんな訳ねぇだろ!」
ビリビリと、怒鳴られたことによって身体が震える。ふーふー、とまるで威嚇する猫のような息遣いが部屋を支配していた。
「…何度も言わせないでよ、何もない」
「ふざけんな」
「ふざけてない」
「なんかあるだろ!」
「だからないってば!!」
しん、と部屋が静まり返る。思っていたよりも大きな声を出してしまった、近所から苦情が来たらどうしよう。ここは家賃が安価な割にセキュリティもしっかりしていて、ご近所付き合いだってそこそこいいのに。
黙ってはいるものの、納得はしていないのだろう。ぎちぎちと掴まれている腕が痛む、女相手にこんな力を使うなんて本当にこの男はなっていない。
「…なんか、あんだろ」
驚くくらい、弱々しい声が背後から聞こえてくる。腕の力と比例しているかのように、情けない声だ。
「俺とお前は、そういう仲で!それなのに、俺は、お前じゃなくて他の女抱いてきたんだぞ。…なんか、なんかあんだろうがよ」
置いてけぼりを食らった子供のような、大切なものを呆気なく壊されてしまったような声だった。
「頼むから、なんかあるって言ってくれよ…!」
馬鹿みたいだ、と思った。自分で仕出かしておいて、どうしてそんなに悲しそうなのか。執着する女は面倒くさいと言っていた癖に、なんだこの体たらくは。みっともなく怒って、悲しんで、すがって。これがあのザップ・レンフロなのか。大胆不敵、天下御免、借りた金を返さないどころか更に借りる人類史上稀に見る最強最悪のクズ。
「アンタは最低だよ」
いくら言ったって直らない。
「金は返さないし、いっつも人にたかってくるし」
懲りるという言葉を知らない。
「好みの女見ればすぐに尻追っ掛けて、遊び相手も山程居て」
その癖、自分を好きだと言う。
「戦闘と血法くらいしか人に誇れるところない」
そんなどうしようもないくらい馬鹿な男。
「でも──私は、そんなクズなザップが好きなの」
振り返らないのは、顔を見たら泣いてしまいそうだったから。この男は確かにクズで、もう救いようのないくらいの遊び人で、恋人にするのには一番不向きな男なのだけれども。どうしようもないくらいに、好きなのだ。
「クズなアンタを好きになった、だから浮気されようが、それが露呈しようが、私は怒らない」
浮気相手から宣戦布告されたって、何も言えやしない。だってそれが当然だから、自分の知ってるザップ・レンフロと言う男は、そういう人だから。
「浮気なんか、いくらでもすれば良い。綺麗な人をいっぱい抱けば良い」
許しはしない、でも怒りもしない。だって資格がないのだから仕方ない。そりゃあ面白くない、何くそ馬鹿野郎と思うことはある。それでもやっぱり、不貞だと詰ることは出来やしないのだ。
「だって、そんな馬鹿でクズでどうしようもないザップが好きなんだもん。そうじゃないと、ザップじゃないんだもん」
好きになったのは、そういう貴方だから。
だから嫌だったのだ、認めるのが。好きだと認めたら、もう終わりだから。どんなに嫌でも、腸が煮えくり返りそうなくらい怒りが沸いてきても、指摘なんて出来ないのだ。だって、もしもそれでザップが行動を改めたら。その可能性は限りなく低いと知っていたけれど、それでも、こいつは優しいから。自分が心底嫌がって怒れば、やめてしまうだろうと知っていた。それと同時に──そんなのは、ザップ・レンフロじゃないと、どうしようもないくらい、わかっていたのだ。
「嫌だよ、他の人なんて抱いて欲しくなんかないよ、でも、違うじゃん。それってなんか違うじゃん」
一人に絞って、その人のために変わる。端から見たら、それは素晴らしいことなのだろう。一人の男が更正したとも言える、幸せへの第一歩だ。でも、それは、違うのだ。そんな男を好きになった覚えはないのだ。
「だから、いいの。何もないの」
むかつくけど、ぶん殴りたいけど。
全部飲み込んで、愛するとあの時覚悟したのだ。だからもう、良いのだ。諦めじゃない、妥協じゃない。悩みに悩んで、受け入れた事実なのだ。
ぐい、と腕を引っ張られる。そのまま、一歩二歩、後ろへと下がる。ぽすん、なんて音がして、身体がザップの胸元へと収まった。
「…馬鹿じゃねぇの」
うるさい。
「なんだよそのトンデモ理屈、誰から教わったんだよ」
オリジナルだ馬鹿野郎。
「俺が俺じゃなくなるくらいなら、ワタシ我慢するワって?どこの三文映画だっつーの」
ぎゅう、痛いくらいに抱き締められる。あたたかい、苦味のある香りに包まれていた。
「──俺も、そういうお前が好きだよ」
掠れた、ハスキーボイスが耳許に馴染む。甘さが残る声に、ぽろりと涙が溢れた。慌てて拭おうとすると、こちらよりもはやくザップの指先が動いた。その手つきは、驚くほどに優しくて、また涙が溢れてくる。
きっと、この関係は訳がわからないと言われるのだろう。浮気は黙認するし、怒りもしない。どうぞ好きなようにやってくれと言っているのに、心底では殺してやりたいくらい面白くないと思っている。でも、仕方ないのだ。だって落ちてしまったから、どうしようもない恋に。
だから受け入れる、どうしようもない男と、どうしようもない恋と、どうしようもない自分を。



どうしようもない恋

15/12/21