やってしまった。
後悔しても今更遅い、とはわかってはいたものの、やっぱり頭を抱えてしまう。やってしまった、そう、取り返しのつかないことをやってしまったのだ。
ザップと寝た。端的に言えばそれだけのことだったが、心に与えるダメージはとんでもなかった。別に初めてという訳ではない、けれど、単なる友人とこんなことをしてしまったということが問題だった。そういう関係じゃない男と、そういうことをしてしまった事実と自分の迂闊さに打ちのめされていた。
振り返ってみるとあの時、本能のままに求めてしまったのは確かで。キスされて、嬉しくて、ドキドキして、そのまま自分から誘った。嫌だったのか、と聞かれるとそうでもないということが、またなんとも言えない。あの顔が近付いてきて、胸がドキドキとざわめいたのはどうしようもない事実なのだ。
「えぇー…」
もしかして、いやもしかしなくとも、ザップのことが好きなのか。
抱かれてから気付くなんて、馬鹿にも程がある。流石に何とも思っていない男性と身体を重ねるほどアクティブでもなければ、火遊びを楽しむような若さもないから、多分、彼に恋をしているのだろう。久し振りの恋なのに、まさかこんな始まりなんて全然笑えない。
流されたのは確かだった。酒が入っていて、何もかもどうでもよかった。いや、そんなの言い訳だ。だってあの時、とにかく彼を感じたい、そう思ったのは間違いようのない事実なのだから。我ながら浅ましいというか、はしたないというか。素面だったら絶対にこんなことにはなってなかっただろう、多分、きっと、恐らく。
そもそも、なんでザップはあんなことをしたのだろう。単純な疑問が湧きあがる。こちらは、まぁ単純に好きだったからシた、気付いたのは今だけど。けれど、ザップは違う。だってそうだろう、一応色男で、女性の影は付き合いの浅い自分でも感じられるくらいに多い男だ。恋多き男なのか、それとも単なる遊び人なのか、それは定かではなかったが、見境なく女を襲うほど飢えているようには思えなかった。
そういえば、迫られたのは昨日が初めてではない。初めて家に上げた時も、同じようにベッドで追い詰められた。その時は、釘を刺すつもりだったのかなんなのか、なんにもなかったし、何か起こるとも思っていなかった。だってこの男は善人ではないけれど、悪人ではないのだ。おまけに好みのタイプは決まってナイスバディの美人らしいから、まさかそういう意味で視界に入るなんて到底思っていなかった。
これだけ見た目が良ければ、いくら中身がクズでもそれなりに女は寄ってくるだろう。意外にフェミニストなところがあるようだから─それは下心からかもしれないけれど─それなりに女を喜ばせて、それなりにやることはやっているはずだ。現にこの家で聞いた電話の内容の8割は「今夜、天国に連れてってやるよ」とか「今すぐお前を抱きたくてたまんねぇ」とかそういう口説き文句ばっかりだった。どうでもいいけど、前半の口説き台詞はセンスがないにもほどがある。今時天国って、どれだけ自分に自信があるんだ。いや、確かに昨日は気持ちよかったんだけど。
話が脱線した。要するに、女に困っていないはずのこの男が、なんで自分を襲ったのか。それが疑問なのだ。まさか好きだからとか、そんな理由ではないだろう。女を抱くのに理由はいらない、とか言い出しそうだから、やっぱり気まぐれなのかもしれない。
冗談じゃない、気まぐれに流されたこちらも悪いけれど、だけど、もう真っ直ぐ彼を見ることは出来ないだろう。気付いてしまった、自覚してしまった。
思えば、何とも思ってない人間をわざわざ家に上げて料理を振る舞うほど、善良な人間ではないのだ。それなのに、いつ来るともわからない彼を待って、来たら自分なりにもてなして、帰る時は背中を見送った。その時点で、もう大分おかしいのに気付かなかった辺り、馬鹿なのかもしれない。そう、つまり──私は、大分前からザップのことが好きだったのだ。
やってしまった。こんな勝ち目のない恋をする予定ではなかったのに。
知る限りでは、たくさんの女と関係を持っているのだろう。多分昨夜のことも、手慣れた様子から察するに、やっぱり気まぐれに違いない。これからどうすればいいのか、いつも通り接するのが正解なんだろうけれど、それが出来るかどうか自信はない。
チラリ、横で健やかに寝息を立てる彼の顔を見る。あどけない顔は可愛くて、うっかりときめいた自分が馬鹿馬鹿しい。ほら見ろ、寝顔だけでこれだ。どうあったって普通に接することなんて出来ないに決まってる。
あぁもう迂闊だった。昨日、お酒を飲まなければ、いや流されなければ、そもそも彼を自宅に招き入れることをしなければ、こんなことにはならなかったはずなのに。後悔しても時間は戻らない、誰にだって平等に時は過ぎていくのだ。
「…んぁ?」
そうこう考えていたら、不意に瞼を震わせたザップが目を覚ます。あーあー起きちゃった。
まだ眠たそうに、ぼんやりとした顔できょろきょろと辺りを見渡す彼は、多分あんまり見覚えのない部屋に驚いているのだろう。そして、こちらを見て、合点がいったようにまばたきをひとつしてから、ふっと笑った。
「よぉ、いい夢見れたかよ」
む、むかつく。
なんだその余裕は、どこから来るんだ。くぁ、とひとつ欠伸をした彼は、腹が立つほどに上等な身体を伸ばしていた。本当に手慣れている、こっちはどうしようと右往左往していたのに、馬鹿みたいじゃないか。
「あ?なんだよ、その顔」
うっかり不貞腐れた顔を隠そうともしなかったせいで、不思議そうな顔をした彼に問い掛けられる。いや、どう考えたって原因はそっちだろうに、なんでそういうところは鈍いんだろう。
ぎしっとベッドが鳴る。ザップが起き上がったからだ。お蔭で胸元まで上げてあったシーツが弛みそうだったので、慌てて手繰り寄せる。そういえば全裸だった、服は彼によってあっさり剥がされて多分床に散乱してる。そんなこちらを意にも返さず、すっと頭に手が伸びてきたな、と思ったらぐいと彼に引き寄せられて、頬には柔らかな感触。ちゅっとわかりやすい音が響いて、ようやく何をされたのか理解した。今、キスされた。
「なんだよ、何拗ねてんだよ」
甘ったるい声が、そんな風に囁いたと思ったら宥めるように何度か唇を押し当てられる。え?どちら様ですか?
頭の中では冷静に考えられるのに、身体ときたら変なところ正直だから、カーッと顔どころか身体全体が熱くなる。どくん、どくん、と先程まで穏やかだった心臓も発作を疑いたくなるくらいに忙しい。勿論、そんなただならぬ様子に気付かないほど鈍くないこの男は、にんまりとそれはそれは楽しそうに笑って、耳元に唇を寄せた。
「なーに可愛い顔してんだよ──朝からお誘いデスカ?」
ばかか。
そう言えたらどんなに楽だろうか。低くて甘い囁きに、ばっと耳を押さえて身を引くくらいしか出来ない。悲しいかな、狭いベッドの上では逃げ道は短くて。呆気なく後頭部が捕まったと思ったら、強引に口付けられる。その唇が、意外にも柔らかいと知ったのは昨日の話だ。
「逃がすか、ばぁか」
ふっと、目を細めて笑う彼は、どことなく嬉しそうで、楽しそうで。その顔を見たら、さっきまでの迷いとか動揺とか、何もかもがどうでもよくなった。
あぁもう、好きだ。そう、色々考えたけど、結局ザップのことが好きなのはどうしようもない事実で。例えば彼に女がいるとか、そんなのはどうだっていい。今、彼の瞳には間違いなく自分が写っていて、それ以外は見ていないのだから。だったらもう、それで十分だ。大勢の内の一人でもいい、たまにこうやって触れ合ってくれるならそれだけできっと幸せだ。だって、今、こんなにも嬉しいのだから。
鼻を合わせて、どちらともなくもう一度キスをする。今度は触れるだけのそれではなくて、舌先が潜り込んできた。逃げることも、迷うことも、もうやめだ。自ら舌先を絡めると嬉しそうに目を細めて笑うから、今はそれだけでいい。一瞬だけでも自分だけのものになるならば、もういいのだ。
「──好きだよ、ザップ」
キスの合間にそんなことを呟くと、これ以上ないくらい嬉しそうに笑った彼が目に入るから、もうそれだけで十分なのだ。
ちゃり、と昨夜プレゼントされたピアスが鳴った。


それだけでいい

17/11/30